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俳句評論

2025.09.23 07:47

https://www.bookbang.jp/review/article/557663 【竹下しづの女(じょ) 理性と母性の俳人 坂本宮尾著】より

[レビュアー] 齋藤愼爾(文芸評論家)

◆呪縛を破る衝撃の一句

 正岡子規が俳句革新運動に乗り出してから百二十年余になるが、最も衝撃的な一句を挙げるとすれば、竹下しづの女(一八八七~一九五一年)の「短夜(みじかよ)や乳(ち)ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」ではなかろうか。

 平塚らいてうらが近代的な自我に目覚め、新しい女性の生き方を模索した大正デモクラシーが背景にあったとはいえ、なお家父長制の桎梏(しっこく)に呪縛されていた時代である。お乳を求めてむずかる赤子を、捨てちまおうかと詠んだことの衝撃の大きさは想像に難くない。それは日野草城(そうじょう)の「浦賀に黒船が襲来したやうに度肝を奪はれてしまつた」という言葉に代表される。

 しづの女は大正八(一九一九)年、吉岡禅寺洞(ぜんじどう)のもとで句作を始め、翌年より高浜虚子に師事。「短夜」の句を含む全七句で早くも『ホトトギス』(大正九年八月号)初巻頭。当時の虚子選には、一句載れば赤飯を炊いて祝うといわれるほど権威があった。

 主観や自我の表現が俳句で可能かという問題で悩み、俳句を中断した時期もある。「乱れたる我の心や杜若(かきつばた)」を作って禅寺洞に見せたところ、「主観露出句」の一言で却下されたことも一因だが、後日談がある。この句によく似た原石鼎(はらせきてい)の「狂ひたる我の心や杜若」が『ホトトギス』に入選したのだ。

 女性俳句の先駆者としてだけでなく、俳句指導者としての側面にも光が当てられる。昭和九(一九三四)年、しづの女は『ホトトギス』同人に推挙され、十二年に高校学生俳句連盟の機関誌として創刊された『成層圏』で、中村草田男と共に香西照雄、金子兜太(とうた)らを育てている。

 虚子が句集『颯(はやて)』に与えた序句「女手のをゝしき名なり矢筈草(やはずそう)」が、彼女の男性的作風と生き方を象徴している。

 しづの女自ら「禅寺洞師は私を流星だと皮肉りました。私は言ひ返してやりました。イエ彗星(すいせい)です。又折を得て必ず今一度現はれます」と禅寺洞の主宰誌に記していた。本書は、理智(りち)と情念の俳人の復権を鮮やかに告知するとともに、近現代俳句史の新しい見方を示している。(藤原書店・3888円)

 1945年生まれ。英文学者。俳誌『パピルス』代表。句集『別の朝』など。

◆もう1冊 

 坂本宮尾著『真実の久女-悲劇の天才俳人』(藤原書店)。杉田久女の評伝。


https://www.haijinkyokai.jp/reading/82.html 【俳句の庭/第82回 長峡川と竹下しづの女 坂本宮尾】より

昭和20年旧満州、大連生まれ。東京女子大学の白塔会で山口青邨の指導を受ける。「夏草」終刊に伴う「天為」、「藍生」の創刊に参加。評伝『杉田久女』で第18回俳人協会評論賞受賞。第6回桂信子賞、第5回与謝蕪村賞受賞。句集『天動説』、『木馬の螺子』、『別の朝』、『自註現代俳句シリーズ坂本宮尾集』、句文集『この世は舞台』。著書『真実の久女』、『竹下しづの女』。現在は、「パピルス」主宰、俳人協会理事。

 女性俳句の草分け、竹下しづの女の評伝を書いた折に、生地の福岡県行橋市を訪ねた。そこに流れているのは長峡ながお川で、田畑を潤しやがて周防灘に注ぐ。しづの女は大規模な農家の跡取り娘として、この川のほとりで生まれ育った。川の近くには幕末の激動期に村上仏山が建てた私塾、水哉すいさい園があり、多くの塾生が儒学や漢詩などを学んだ。今も水哉園跡として手入れの行き届いた庭園が残っている。

 塾名の水哉園は『孟子』の「離婁章句下」の「水なる哉」に拠るもの。学問に取り組む姿勢を、源泉からこんこんと湧きだし、常に流れて止まず、四海に至る水に喩えたものということだ。この塾で学んだ漢学者の末松房泰から、若き日のしづの女は古典や漢学の手ほどきを受けた。

〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎すてつちまをか〉によって、しづの女は「ホトトギス」雑詠(大正9年8月)の巻頭を得て、彗星のように俳壇に登場した。特異な下五が目を惹くが、そこには彼女が故郷で学んだ漢学の造詣がある。

 長峡川の河畔には、もう一つのしづの女代表句の句碑が建っている。

 緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的 

 波瀾に富んだ歳月を経て、二度目の「ホトトギス」巻頭となった句である。句碑の背後を金木犀がすっぽりと囲み、対岸から見ると小さな杜のようだ。ゆったりと流れる長峡川周辺の景色を眺めると、たゆむことのない姿勢を持続することの大切さを説いた水哉園の教えが浮かんでくる。それは新領域に挑戦し続けたしづの女の、独立独行の人生の礎であったように思える。


https://note.com/meg_ikoa/n/nf1cb11cbda23 【悲劇と美を詠み込む、近代俳句の先駆者、杉田久女】より

5月30日は、明治から大正にかけての俳人、杉田久女が生まれた日。近代俳句における最初期の女性俳人で、格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。(1890年5月30日 - 1946年1月21日)

皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。

聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

【生い立ち】

鹿児島県出身。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高級官僚であった父赤堀廉蔵と妻・さよの三女として生まれる。父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄、台湾で過ごす。東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業。小説家を志す。

【結婚】

19歳で東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)と杉田宇内と結婚。宇内は久女の期待を裏切り、一介の美術教師となり、久女を失望させる。

【俳句への目覚め】

長女の昌子、次女の光子が誕生。兄で俳人の赤堀月蟾により、俳句の手ほどきを受ける。27歳で『ホトトギス』に投句を始め、1917年ホトトギス1月号に初めて出句。やがて高浜虚子に出会い、虚子への崇敬を高めていき俳句にのめり込むようになる。

【代表作】

最盛期には  ”花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\”  ”紫陽花に秋冷いたる信濃かな”

”朝顔や濁り初めたる市の空” を詠んだ。

句柄の大きい、万葉調ともいえるロマンあふれるな句風を虚子は死後編まれた『杉田久女句集』の序で、その作風を「清艶高華」と表現した。

【虚子への固執】

が、一年に230通もの手紙を送り、虚子を辟易させ、ホトトギスの同人活動より除名される。虚子を敬愛してやまない久女には、あまりにもショックが大きく、その後の人生に影を落とす。

【失意の中で】

”足袋つぐやノラ※ともならず教師妻”(※イプセンの「人形の家」の主人公ノラ)

終戦前後の八方ふさがりの状況の中で精神に変調をきたし、1946年、精神病院で世を去った。享年56歳。

【没後】

『国子の手紙』との作品を著し、久女の長女、昌子の求めに応じ、久女の句集に序文を寄せたほか碑銘まで寄贈している。

久女の波乱に満ちた人生は、様々な作家のインスピレーションに触れ、松本清張の小説『菊枕』、吉屋信子の小説『底のぬけた柄杓-私のみなかった人「杉田久女」』、田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』となっている。


https://sayuri0311.hatenablog.com/entry/2024/03/07/205751 【俳人協会評論講座の動画を視聴しました】より

今日は俳人協会評論講座の動画を視聴しました。

講師は小澤實先生、坂本宮尾先生。進行は角谷昌子先生。

内容は実際の評論の書き方について、かなり具体的に踏み込んだものでした。

非常に参考になったし、やる気も出ました。まず、よく読む。そして、自分で考える。

鵜呑みにしない。自分の言葉を大切に、これからも評論と向き合っていきたいです。

https://www.youtube.com/watch?v=18d3OocFT3Q

https://www.youtube.com/watch?v=oHBlGgg1kxM