三十三冊目 【「地方ならお金がなくても幸せでしょ」とか言うな!】
【「地方ならお金がなくても幸せでしょ」とか言うな!】
著者 阿部真大
出版社 朝日新書
地方における活気ある商店街は、今や「ノスタルジー」の象徴であるが、かつてそれはキラキラした「新しい」ものであった。昔の日本映画を見ていると、そこに登場する商店街が賑わっているだけでなく、新しく、モダンな装いなことに驚くことがある。商店街が廃れた今では忘れがちなことであるが、出来立ての頃、商店街とは、今人気のショッピンググモールと同様、新しくキラキラしたものだった。
タイトルはいまいちだなぁと思いましたが、「地方は理想郷なんかじゃない」という著者の意見には共感しました。「地方」は「都会」の対義語ではなく、どちらも必要にかられる形で進化し、まったく別々の存在です。「地方の逆襲」とか「ローカル革命」という雑誌の見出しを見かけますが、対立軸で考えているうちは地方は「小規模な都会」にしかなり得ないのではないでしょうか。先日の【商店街はなぜ滅びるのか】でも、同じようなことを書いたような気もしますが、懐古主義というのは、とかく気持ちのいいものであります。誰しも子供の頃のお思い出というものは美化されます。それは初恋の思い出や、在りし日の面影を投影しているので当然の感傷ではありますが、子供が大人の経済を理解できないのは今も昔も同様です。甘い思い出を取り戻す為に再興される街並みは、当時のようにキラキラではありません、当然過ぎた時間の長さだけ歳をとっているのです。そのような街並みに「あの若かった力強い頃に戻ろう!」というのは、いささか酷な意見ではないでしょうか?
しかし、若くない。ということは、なにも悲観的なことばかりではありません。少子高齢化社会において必要とされるのは、一昔前のような「顔のわかるおせっかいな隣人」の存在です。核家族社会で生まれ育った現代人が、シェアハウスや共同生活の形で「血の繋がりのない隣人との生活」をおこなうようになっているのも、擬似家族的なものによって、家族の生存率をあげるための策であり、人間は孤独には生きられないのです。隣人とは言っても物理的な距離のことだけではないです。5Gの高速インターネット時代になれば、テレビ電話や遠隔操作のアンドロイドもまた隣人となり得ます。これまでもそうであったように、これからの「当たり前」は、いつかの「未来」なのです。
そういった意味で、これからの商店街に代表される地方都市にもとめられるのは、経済的な意味合いでの商店街の復興ではなく、精神的な支柱としての「場」としての機能ではないでしょうか。実際、ゲストハウスのラウンジで地元民との交流から旅人は情報を得て、旅に厚みを持たせるようなことがよくあります。これは、過去には商店街が担っていた機能が、姿を変えてあわられている例だと思います。老朽化した商店街はすでに「横の百貨店」としての当初の機能は失われています。そして、当時敵対関係にあった「縦の百貨店」である、郊外形ショッピングセンターもまた、当初の経済的な機能を失いつつあります。
高度経済成長期に作られた家電も家も車もいずれを見ても、ノスタルジーの対象でコレクションの対象にはなり得ますが、「日常使いをする」には愛情や工夫が必要です。それと同様に「当時作られた社会の仕組み」も、もうそのままでは使えないのです。レトロ家電の良さと、最新家電の機能性はそのままでは両立しません。しかし、今多くの人が求めているのはその両立にほかなりません。そこで、安易に外側のデザインだけをレトロにしたもののは、どこか頼りなく、陳腐です。今、地方都市の多くがそのような陳腐さへ向かっているように思えてなりません。
「あの頃」をぼくらは知りませんが、きっと「あの頃」多くのひとを魅了したような「経済発展」を背景にしたキラキラは、これからの日本では起こらないでしょう。そうした点を見据えつつ、「古きよき日本」とはなんだったのか。ということを再考するチャンスが現代にはあるように思います。
観光客が見たいのは「日本昭和村」のような、作られたテーマパークではないです。地元の人々が当然のこととして日常を過ごしている.。その姿に失った過去を投影してノスタルジーを感じるのではないでしょうか、それはちょうど90年代のバックパッカーブームで多くの若者が東南アジアの場末の路地で感じた、体験したことのないノスタルジーさのようなものであり、それこそが、本来の地方が自ずからもっていた「特異性」でした。それを「多くの人が理解できるように分かりやすくしたもの」が、今日の「商品」としての「地方」でしす。
しかし、当然ながら、カンボジアの路地は「作ろうと思って出来たもの」ではなく、個々人の生活の集積が独自の生活のスタイルとして表出した時代の瞬間の像にすぎません。それは、失うまで価値が分からず、失ってからはけして復元できないものなのです。なぜなら、それを作っているのが、無意識に生活をしている庶民の日常だからです。これからの地方に求められるのは「過去や未来の理想」ではなく、「普通に暮らしている姿が楽しそう」という、ごくごく当たり前の営みをあらたに積み上げていくことではないでしょうか。
短期的なフローとしての資産は、じきに枯渇するでしょう。ぼくらは次の50年のストックとなるものをこつこつ貯めていかなければならないのでしょう。