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子規とホトトギス

2025.09.25 06:00

https://washimo-web.jp/Report/Mag-ShikiHototogisu.htm 【- 正岡子規とホトトギス -】より

薩摩地方の田舎に住んでいると、この時季、夜中から明け方にかけてホトトギスの鳴き声に起こされます。ホトトギスはカッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種で、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑などと、漢字表記の多い鳥です。

甲高い声で鋭く鳴き続け、口の中が赤いので、ホトトギスは『鳴いて血を吐く』といわれます。ホトトギスはなぜ甲高い声で鋭く鳴くようになったのでしょうか。中国に故事や伝説があります。 

長江流域に蜀という傾いた国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり望帝(ぼうてい)と呼ばれました。その後、望帝は長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、山中に隠棲しました。

望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるために、鋭く鳴くようになりました。また、後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみます。

『不如帰去』(帰り去くに如かず、帰りたい)と嘆きながら、血を吐くまで鳴き続けたと言われます。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだと言われるようになりました。(以上、ホトトギス - Wikipedia より)  

さて、満34歳の若さで亡くなった正岡子規(まさおか しき)は、死を迎えるまでの約7年間を結核を患って過ごしましたが、喀血した(血を吐いた)自分を『鳴いて血を吐くホトトギス』に重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の一つである『子規』を俳号としました。また創刊した俳句雑誌名『ホトトギス』も俳号にちなんだものです。


https://diamond.jp/articles/-/359014 【「鳴いて血を吐くホトトギス」正岡子規が俳句と病に生涯を捧げた理由】より     富岡幸一郎: 文芸評論家・関東学院大学文学部教授 

(略)

「鳴いて血を吐くホトトギス」正岡子規が俳句と病に生涯を捧げた理由

21歳で「難病」に冒された明治の俳人正岡子規(まさおか・しき 1867~1902年)

伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)生まれ。本名・正岡常規(まさおか・つねのり)。帝国大学文科大学中退。代表作は、『歌よみに与ふる書』『病牀六尺』『寒山落木』など。俳句・短歌の革新者として、近代文学に大きな影響を与えた。幼少期から祖父の営む私塾に通い、漢書などを読む。10代から20代前半は勉学のかたわら俳句をつくり始めたほか、野球に打ち込むが、21歳で喀血。結核のため大学を中退し、日本新聞社に入社、新聞連載をスタートする。新聞記者として日清戦争に従軍するが、その帰路でふたたび喀血。晩年は結核の悪化により病床に伏しながらも、随筆『病牀六尺』を新聞連載で書き続ける。これらの作品は、病と闘う日々の記録として話題となったが、明治35(1902)年に結核により34歳で死去。

文学と病気が一体となった俳人・歌人

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」正岡子規といえば、この俳句が有名ですね。

 現代風にいえば、「柿を食べていたら、法隆寺(奈良・聖徳宗総本山の寺院)の鐘が鳴った。ああ、秋を感じるなあ」という句です。

 当たり前のことを言っているだけのように思えるかもしれません。しかし、これがまさに子規が編み出した「写生」という句作のスタイルなのです。

 絵画にたとえると、水墨画のようにふわっと描くものもあれば、目の前にあるものをリアルにデッサンする写実的な絵画もあります。

 子規は俳句の世界で写実主義を実践し、風景を観察し、言葉にする「写生句」を重視しました。そんな子規ですが、「正岡子規」というのは雅号(ペンネーム)で、本名は「正岡常規」。

喀血を機に名乗った「子規」の名

 21歳のときに結核を患い、せきとともに血を吐いた(喀血)のですが、「子規」とはホトトギスの別名です。「鳴いて血を吐くホトトギス」という言葉から、自らの病気になぞらえてこのペンネームを名乗るようになりました。

 子規の俳句の出発点には病気、特に結核による喀血が深く関わっており、これこそが彼の俳句の原点となっています。 まさに、文学と病気が一体となった俳人・歌人なのです。

漱石が説得するも、大学を中退して新聞記者になる

 病に冒されたというとインドア系の印象が強いですが、もともと子規はスポーツ好きの活発な青年でした。明治5(1872)年、第一大学区第一番中学(そののち開成学校、現・東京大学)のアメリカ人教師、ホーレス・ウィルソン(2003年野球殿堂入り)が、日本に初めてベースボールを紹介し、生徒たちに教えたといわれています。

 子規は明治17(1884)年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、試合にも積極的に参加しました。 さらに、明治22(1889)年には郷里の愛媛・松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒たちにベースボールを教えるなど、野球普及にも貢献しました。

漱石との友情と進路の選択

 子規といえば、夏目漱石との関係も外せません。帝国大学の同窓生であり、ともに病気に悩まされた仲でもありました。同じ慶応3(1867)年生まれの漱石とは、親友同士だったのです。

 第一高等学校(現・東京大学教養学部)時代に漱石と苦楽をともにし、帝国大学に進学しますが、21歳での喀血をきっかけに学校をやめようか悩むようになります。

 親友の漱石は、考え直すよう説得しました。しかし、子規は学業よりも「ものを書くこと」「俳句をつくること」に心が向いていたこと、そして病気で死ぬかもしれないという不安から、最終的に退学を決意しました。

新聞記者としての新たな道へ

 退学後、子規は叔父の友人である陸羯南(くが かつなん)のもとを訪ね、「新聞記者として働かせてほしい」と直談判します。

 こうして子規は、新聞『日本』の記者となり、大正3(1914)年まで続いた新聞『日本』で活動しました。

 さらに、陸羯南は子規に仕事を任せるだけでなく、亡くなるまで生活の面倒を見てくれるなど、全面的にサポートしました。

 このように、子規は病と向き合いながらも、新しい俳句の世界を切り開き、新聞記者としても活躍したのです。