「いには」(主宰・村上喜代子 先生)
https://furansudo.com/archives/32891 【「いには」創刊20周年2024.10.30】より
10月30日(水)に俳誌「いには」創刊二十周年記念祝賀会(村上喜代子主宰)が、ホテルニューオータニ幕張にて13時30分より行われました。
前日から続いていた雨が昼前にはあがり、空には晴れ間が見えていました。
50名近いの来賓の方がいらしていて、終始和やかな雰囲気の素敵な会でした。
ご挨拶をされる村上喜代子主宰。
20年を振り返って、記念誌を作りまして特に思ったことですけれど、「いには」もどんどん人が、若い人も育っているんじゃないかなということを実感します。
俳句の面でも評論の面でも、若手が活躍してくれているんですよね。だからやっぱりこの20年の成果はちゃんとあがってるんじゃないかなってうれしく思います。この間の周年の時に、「誰か作家を出さないとダメなんだ」という話が出たんですけど、「いには」も一人作家を出しました。
北海道に住んでおります名取光恵さん、私の北海道時代からの第1号の弟子と言ってもいいかもしれません。昨年『羽のかろさ』という句集を出しました。
それが俳人協会北海道支部の協会賞を受賞しまして、同じ年に北海道新聞社賞も受賞しました。今日いらっしゃっている櫂未知子先生のご尽力もあったと思いますが、そういうことで独り立ちさせる、要するに「いには」から作家を一人でも生まれないといけないということだったので、どうにか一人は生まれたかなと思います。他にもどんどん色々な面で皆さん活躍してくださっていらっしゃいますので、とても楽しみにしています。
何よりも一番感謝したいのは、この20年ずっと発刊に対してご尽力いただいた同輩の人たちです。編集、校正、発送それから会計。そういう所を本当に支えていただきました。私はその人たちに心から感謝したいと思います。
実を申しますと、私は大野林火には6年間しか師事していないんです。6年間でしたけれども、なぜ生涯の師としたのか?っていうことをちょっとお話しさせていただきます。
まず1つは、私は遠方に住んでいて句会にもろくろく出ていなかったんですが、林火に直接、毎月一回は、毎月20句とか30句を送って添削を受けられたんですよね。添削の朱筆はほとんど何も書いてないんですよ。丸とかチェックとか、何も書いてないとか。そんな暗号みたいなって添削だったんですけどね。最後に「頑張ってください 」と一言書いてあるんです。その添削を通して林火から頂いたものが大事だったということです。
また、今回刊行しました。大野林火論の一番最後に写真が載っております。その写真は私が大野林火から「浜賞」をいただいている写真です。その半年後に大野林火は亡くなってしまったんです。だから、私は最後に林火から「浜賞」をいただいた一人であるというその自負ですかね。これがやっぱり非常に大きかったと思います。
それから3つ目に、林火が野澤節子や村越化石など、病んだ人へ対しても非常に手厚く指導をしているんですよね。特に村越化石はハンセン病で、隔離されてひどい偏見を受けた病に罹っていましたが、少し希望が見えたときに「指導に来て欲しい」という声に、まだその頃は皆非常に怖がっていた病でしたが、林火はハンセン病について勉強して、年に1回は必ず指導へ行って、それを30年間ほとんど死ぬ間際までずっと続けていました。だから村越化石はそのおかげで蛇笏賞作家にまでなれたといっても過言ではないと思います。これはなかなか他の人には真似できないんじゃないですかね。そういう人間愛の深さにすごく感動しました。
4つ目は林火の俳句の抒情性に私は惹かれました。林火はいつも「言葉は易しく、思いは深く」と言っていました。ひらがなが好きで、本当に言葉が易しい方ですからね。これを私は今も俳句の原点にしています。
北海道時代の私の第一句集『雪降れ降れ』の題にした句があるんですけど、これは
美しき生ひたちを子に雪降れ降れ
という句からなんですね。当時の俳壇ではこんな甘っちょろい句、とかなり批判された人もたくさんいたらしいんですよね。ですが、林火がこの句をとってくれたから、私は今日あるわけです。これをあまっちょろい句として林火がはねていたら、今日の私はありませんし、20周年というこの祝賀もなかったと思います。
本当に良い師に恵まれてありがたかったと思います。本日はありがとうございました。
来賓の方々と記念撮影。
充実した記念号
村上喜代子主宰をはじめ、「いには」の皆さま、創刊20周年、まことにおめでとうございます。
いには俳句会
大野林火を師と仰ぐ村上喜代子が、平成17年春、俳句結社「いには」を興した。4月の「いには」創刊号は、朝日に染まる印旛沼が表紙を飾った。「いには」は「iniwa」と読み、印旛の古い呼び名である。印旛沼は、主宰・村上喜代子の住む八千代市の近くで、心の故郷となっている。
https://iniparu.jimdofree.com/%E5%8D%B0%E6%B3%A2%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%83%85%E5%A0%B1/%E5%8D%B0%E6%B3%A2%E3%81%AE%E8%A1%A8%E8%A8%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ 【印波国の基本情報印波の表記について】より
このぺージでは、『印波国』と名付けた物の概念と、読み方について説明します。
『印波国』という概念
このホームページでは、『印波国』という語をタイトルにも使用していますが、この言葉が文献に記されているわけではありません。言わば、概念を一言で表すための曖昧な表現ですのでご了承ください。
文献に見える「印波」(または、印幡、印播など)は、主に「印波郡」「印波評(こおり)」であり、『常陸国風土記』の「印波」、『先代旧事本紀』の「印波国造」です。
律令制施行後に下総国印幡郡が成立してからの文献記載が多いため、「○○郡」の表現が多いのは当然と言えるでしょう。
『常陸国風土記』では、郡成立以前の事柄(景行天皇の御代)を表したものですので、単に「印波」と書かれています。『先代旧事本紀』は印波国造の任命記事です。
「国」という概念があるとすれば、律令制施行前の“印波国造が支配していた領域”ということになると思います。
しかしその範囲は漠然としており、どこからどこまでという境界をはっきりと引くことは出来ません。
ただ、千葉県北部の成田市、印西市、栄町にまたがる印旛沼周辺が、後に印旛郡となったこと、沼のほとりに印波国造が創建したと言われる延喜式内社(麻賀多神社本宮)があること、至近に公津原古墳群があることから、そこが印波国造の領した土地の中心と考えて間違えはありません。
そこを中心に、北は常陸国との境界である利根川までという予想がつきます。しかし、西は我孫子市の古墳地帯との間にある古墳なども含むのか?どうなのか?南西は、八千代市まではほぼ確実と思われますが、その先の千葉や船橋辺りはどうなのか?
「千葉国造」というのがあったようですが、後世の文献にしか見えないので、果たして古くから千葉周辺を領していたのかは疑問です。
南には武射国造。東は下海上国造。
しかし、その間の多古町や成田市大栄地区、神崎町の古墳をどう考えるのか?という問題があります。
このように、記録が少なく判然としない律令制施行前の状態ですが、施行後は、印波国造の領域が分断されるという事があり、更に複雑な様相を呈すことになります。
まず、東側に香取神宮の神郡として香取郡が出来ましたが、これは印波と下海上の地の一部を割いて出来たものです。『常陸国風土記』大化5年(649年)の鹿島郡設置の記載から、おそらく同時期であろうと言われています。
更にその後、印波の残った地域が印幡郡と埴生(はにゅう)郡の2郡に分割されました。これも、成立年代は不明ですが、『常陸国風土記』に拠って、信太郡や行方郡の成立と同時期であろうとされます。(653年)
しかし、2郡に分かれる直前の様相として、やがて埴生郡になる南部の地域の優勢という事実があり、印波国造の最終的な本拠地が「印幡」ではなく「埴生」という名称になる現象が起きたために、後世多少の混乱を招いたのではないかと思われます。(『古事記』に印波国造の記載がない問題などですが、これについては、おいおい別に述べようと思います。)
さて、古代と呼ぶ時代に限っても、遥か上代から律令制施行後までの間に、領域や支配層において様々な変遷を経てきた「印波」という漠然とした地域を、時代を越えて表す概念として『印波国』という言葉を用いている事をお分かりいただけたでしょうか?
≪参考文献≫
・吉村武彦・山路直充編『房総と古代王権』・川尻秋生著『古代東国の基礎的研究』他
「印波」の読み方
下総国北部の特定の地域は、古文献に「印波」と記されています。
『常陸国風土記』の鳥見丘の記述及び、「印波」の表記が時代を下るにつれ,「印幡」「印旛」と変遷したと思われることから、「印波」は印旛沼を囲む地域を表す事がわかります。
8世紀半ば頃までは、専ら「印波」の表記が見られますが、その後「印幡」や「印播」に変わり、それは近世になるまで続きます。
掲載した一覧では、「印旛」という表記が747年の『東大寺要録』にありますが、この表記が主に使用されるのは近世になってからのようです。
発音に関しては、「印」は、「イ」や「イナ」とも読まれているようです。しかし、後世「インバ」に転じていることから、「イ→イン」または、「イナ→イン」よりも、「イニ→イン」が最も自然な流れであるとされます。従って、「印」は「イニ」と読まれた可能性が高いのです。
「波」は、万葉仮名などで「は」を表す文字として「波」「半」「播」「羽」等が用いられていることから、「ワ」や「バ」ではなく、「ハ」であるとされます。
更に、8世紀までのハ行は、P音だったとされることから、「イニパ」であった可能性があります。
また、ある方面の弥生語研究では、「難波」を「ナニパル」と読んでいるものもあり、それに従えば、「イニパル」ということになりますが、これは参考とするに止めます。(余談ですが、この「イニパル」は、個人的に気に入っているので、サイト名に使用しました)
※読み方、発音に関しては難しく、本来は 多くの文献の比較検討をするべきですが、なかなかそこまでできていません。ご了承下さい。 従って、「印波」の読みの表記は、一般に 呼びならわされているように、「イニハ」 と書いて「イニワ」と読むことにします。
※「難波」を「ナニパル」と読んでいるのは
池田秀穂著『日本曙史話』という、すでに廃版となってしまったものです。特殊な内容ですが、大変示唆的な部分も多く、このまま埋もれてしまうのは遺憾です。紹介する機会を設けたいと思います。
「イニハ」の表記の変遷
・713年(和同6年)常陸国風土記・行方郡の条に、 古伝曰、大足日子天皇登坐下総国印波鳥見丘…
・738年(天平10年) 正倉院文書駿河国正税帳に 下総国印波郡采女丈部直廣成…
・759年(天平宝字3年)以降 万葉集4389番 印波郡丈部直大麿
・710年~794年 平城京木簡 印波郡
・747年(天平19年) 東大寺要録巻8雑事章 …下総国印旛郡50戸…
・781年(天応元年) 続日本紀…下総国印幡郡大領外正6位上丈部直牛養
・不詳(平安初期) 先代旧事本紀・国造本紀 印波国造 軽島豊明朝御代…
・805年(延暦24年) 日本後紀 …廃下総国印播郡鳥取駅、
埴生郡山方駅…・864年(貞観6年) 日本三代実録…勅復下総国葛飾、印幡、相馬、埴生、
猿島5郡…
・905~967年(延喜5年~康保4年) 延喜式 印幡
・931~938年(承平1年~天慶1年) 和名類聚抄 印幡
≪参考≫
平成27年度印西市史編纂講演会資料
「埴生郡」の読み方
7世紀半ばに、印幡郡から分かれた埴生郡ですが、「埴生」の読みは、「はにふ」と書きます。音は、「はにう」だと思われます。
後世房州には、上埴生郡と下埴生郡が出来て、これは「はぶ」と読むので注意が必要です。
古代の「埴生」がなぜ「はにふ」と読むとわかるのでしょうか?
それは、千葉県印旛郡栄町の龍角寺から「皮尓負」と書かれた瓦が出土したことによります。
「皮」は、万葉仮名以前に、「ハ」の音を表す事があったことがわかっているそうです。
≪参考文献≫
・吉村武彦・山路直充編『房総と古代王権』