ZIPANG-10 TOKIO 2020TANGO TEXTILE EXHIBITION/第76回 丹後織物求評会 - 未来へ織り継ぐ丹後織物 - 」 10月22日~25日の4日間京丹後市で開催
- 未来へ織り継ぐ丹後織物 -
1,300年続く絹織物産地[丹後]
丹後織物の多彩な魅力と、未来への可能性を拓きます。
伝統の技と革新の発想が交わる織の舞台、
織り重ねられた丹後のテキスタイル、ぜひご体感下さい。
丹後は絹織物産地として長い歴史と伝統を有し、
奈良時代の『あしぎぬ』、室町時代の『小袖』、江戸時代には独自のシボを持つ『縮緬』の誕生、そして、明治・大正・昭和を経て、現在では和装から服地に至るまで「織と染の総合産地」として、不動の地位を占めるまでになりました。
当地域は生地製造・開発に関する全ての工程を、産地内にてワンストップで行うことができる総合産地です。絹の産地として長年培われた職人の技術と経験は「精練加工」「染色加工」「整理加工」に活かされています。当組合直営の加工場では、市場のニーズに対応した加工技術で服飾文化に貢献いたします。
丹後織物工業組合
本 部 京都府京丹後市大宮町
理事長 田茂井 勇人
設 立 昭和38年4月
丹後織物工業組合(所在地:京都府京丹後市)は、
『TANGO TEXTILE EXHIBITION/第76回丹後織物求評会』を2025年10月22日(水)から10月25日(土)まで丹後織物工業組合特設会場及びTANGO OPEN CENTERにて開催いたします。
“精練の世界”ファクトリーツアー(有料・要予約)
本年は「- 未来へ織り継ぐ丹後織物 -」をテーマとし、伝統ある丹後産地で織り継がれた匠の技の粋を集め、斬新かつ創造性に富む作品の数々を提案いたします。
1,300年にわたる絹織物の創造力の絶えぬ流れ、未来へ向けた挑戦、進化の軌跡、和装を超えた丹後のテキスタイルの創造性をお楽しみください。
昨年よりTANGO OPEN CENTERを開設し、丹後ちりめんの生地が完成する前の最重要とも言える精練加工が見学できる「“精練の世界”ファクトリーツアー」と、丹後ちりめんをはじめとする丹後の多種多彩な織物素材を使ったプロダクト商品が並ぶショップを立ち上げ、2会場(併設)での大規模開催となります。
精練工場のオープンファクトリーの実施、織物工房オープンファクトリー、キッチンカーやワークショップ、マーケット、音楽祭など様々な催しが行われます。
皆様のご来場お待ちしております。
【丹後織物求評会 開催概要】
■名称: TANGO TEXTILE EXHIBITION/第76回丹後織物求評会
■主催: 丹後織物工業組合
■場所: 丹後織物工業組合 特設会場・TANGO OPEN CENTER
(京都府京丹後市大宮町河辺3188)
■日時: 2025年10月22日(水)~10月25日(土) 4日間
午前10時~午後4時30分(最終入場午後4時まで)
・オープニングセレモニー
10月22日(水)午前9時45分~
※オープニングの様子は当日YouTubeライブにてオンライン配信します。
・第76回丹後織物求評会 審査会・展示商談会・展示一般公開
10月22日(水)~10月25日(土) 午前10時~午後4時30分
※取引先業者様などのご来場者による投票により審査を行います。
ご来場時は名刺をご持参ください。
※どなたでもご来場できます。一般来場者も投票できます。
・第76回丹後織物求評会 入賞作品展示(場所:TANGO OPEN CENTER)
10月28日(火)~10月31日(金) 午前10時~午後4時30分
・連携イベント
「Music Fusion in Kyoto音楽祭 室内楽コンサート 京丹後会場」
~丹後ちりめんとチェンバロの織りなすハーモニー~
(場所:TANGO OPEN CENTER)
10月25日(土)開場 午後6時 開演 午後6時30分~
チケット(全席自由)一般1,500円・学生700円
(会場にてチケット販売中・数量限定)
■後援: 経済産業省・農林水産省・京都府・宮津市・京丹後市・伊根町・
与謝野町・海の京都DMO・一般社団法人日本絹人繊織物工業会・
京都織物卸商業組合・丹後原糸織物卸商業協同組合(順不同)
昨年の丹後織物求評会の様子(オープニングセレモニー)
昨年の丹後織物求評会の様子(展示会場)
TANGO OPEN FACTORY 精練工場のオープンファクトリー (工場見学)
※事前予約必要
TANGO OPEN CENTER 外観
“精練の世界”ファクトリーツアー(精練工程)
丹後ちりめんの精練加工技術を分かり易く、どなたでもご覧いただけるよう加工場の見学ルートの再整備を行いました。
丹後ちりめんを中心とした丹後織物ファンの獲得を通じ、繊維産業の発展のみならず丹後地方の繊維産業観光の一翼を担うべく実施しています。
1,300年の歴史を持つ絹織物産地「丹後」の最高峰の精練加工技術を改めて間近で見学できる機会となりますので、是非とも足をお運びください。
開催日:10月22日(水)~24日(金) ※展示・その他の企画は25日(土)まで開催
時間 :各日 午前10時00分~、午前11時00分~、
午後13時30分~、午後14時30分~ の4部構成
※10月22日(水)は午後の部のみ実施
場所 :丹後織物工業組合 (京丹後市大宮町河辺3188)
受付 :午前10時00分~ TANGO OPEN CENTER ※展示会場に隣接
料金 :18歳以上 1,000円(税込)/18歳未満 500円(税込)
丹後ちりめんくるみボタンワークショップ付き
(オリジナルのマグネットやバッジ作りが体験できます)
▼オープンファクトリー事前予約はこちら
https://tanko.or.jp/tof/
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
丹後織物工業組合
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
伊勢へ詣らば 元伊勢詣れ
元伊勢お伊勢の故郷じゃ
伊勢の神風海山越えて 天橋立吹き渡る
国宝
海部氏系図
国宝 海部氏系図 籠名神社祝部海部直氏系図 現存する日本最古の系図として国宝に指定。
籠名神社祝部海部直氏系図
これは昭和五十一年六月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定された。
同系図は平安時代初期貞観年中に書写されたいわゆる祝部系図(本系図)と、江戸時代初期に書写された勘注系図(丹波国造本記)とから成るが、勘注系図は本系図の省略箇所を補完するものとして同時に国宝に指定された。
本系図は始祖彦火明命から平安時代初期に至るまで縦一本に、世襲した直系の當主名と在位年月だけを簡潔に記したいわゆる宗主系図であり、稲荷山鉄剣銘とよく似た様式で、竪系図の最も古い形を伝えたものと云われる。
各當主名の上に押された二十八箇所にも及ぶ朱印は、今まで未解明であったが、昭和六十二年夏、美術印刷に秀れた便利堂の色分解に依る解析写真撮影で印影が浮かび上り、是を中世文書の権威村田正志博士が見事に解読して、「丹後國印」の文字である事が判明した。
是に依って當系図は海部氏が私に作成したものでなく、これを作成の後に丹後國庁に提出して認知を受け、更にそれを大和朝廷に差し出したいわゆる本系帳の副本であり得る事が証明され、国家公認のものとしてその権威が一段と高まったのである。
一方海部氏勘注系図は、始祖以来平安期までの系譜が省略なく記載され、これに當主の事績を始め兄弟等の傍系に至るまで詳密な注記が付されているが、その中には他の古記録には失われている古代の貴重な伝承も含まれていると云われ、今学界の注目を浴びている。
元伊勢の創祀以来の祀職である海部氏は神代以来血脈直系で世襲し、大化改新以前は丹波国造であったが、その後祝部となり、現宮司に至り八十二代と伝えられる。
籠神社「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図 -改訂増補版-」出典
伊勢神宮のふるさと 〜元伊勢について〜
1.元伊勢とは
伊勢神宮は大小のお社を併せて125社から構成されていますが、 その中心となるのは天照大神をお祀りする皇大神宮(内宮)と豊受大神をお祀りする豊受大神宮です。
両大神は初めから伊勢の地でお祀りされていた神ではなく、他の場所から伊勢へお遷しされました。
その起源を繙くと、天照大神は第十代崇神天皇六年の八月まで宮中でお祀りされていましたが、同年九月に皇女豊鋤入姫命によって初めて宮中の外でお祀りされることになりました。
その後豊鋤入姫命は天照大神の御心に叶う御鎮座地を求め各地を御巡幸されましたが、途中で第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命にその任務をお引き継ぎになり、最終的には倭姫命が伊勢の地に皇大神宮を創祀されました。
「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出られてから伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまで皇女が天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって各地を御巡幸になり、一時的に天照大神をお祀りした二十数カ所の宮々のことを云います。
また、それとは別に雄略天皇の御代に天照大神のお告げによって丹波国(現在の丹後)の与佐(よさ)の小見(おみ)の比沼(ひぬ)の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘・八乎止女(やおとめ)のお祀りする豊受大神が天照大神の食事を司る神として伊勢に迎えられました。
この丹波の魚井原で豊受大神をお祀りしていたお宮のことも「元伊勢」と云います。
「海部家は豊受大神を祀った彦火明命の血脈であり、丹波道主の子孫にも当たり、また海部家の直系の女性が「八乎止女」を襲名し、豊受大神をお祀りしていたことが伝えられています。」
つまり、雄略天皇の御代、「丹波国の丹波道主の娘の八乎止女が祀っていた豊受大神」とは、奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)の豊受大神であり、「元伊勢」としての由緒が明らかとなっています。
他にも「元伊勢」伝承を有する神社はありますが、天照大神・豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒にお祀りしたのは籠神社だけで、特別の「元伊勢」として崇敬され続けています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「元伊勢『籠神社』は 伊勢神宮のふるさと(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3402346
元伊勢籠神社の奥宮
真名井神社(まないじんじゃ)
由緒
天橋立北浜にある真名井原に鎮座する真名井神社(まないじんじゃ)は元伊勢籠神社の奥宮であり、古代には「匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)」と呼ばれていました。
匏宮は天照大神の孫神であり、海部家の始祖でもある彦火明命が創祀した「宮」で、丹後の最高神である「豊受大神」をお祀りしていました。
その御縁故により、第十代崇神天皇三十九年に皇女豊鋤入姫命が御杖代となって「天照大神」を倭国笠縫邑から当地の真名井原にお遷しになり、豊受大神と天照大神を並び併せて「吉佐宮(よさのみや)」と称して四年間お祀り申し上げました。
つまり「吉佐宮」とは、神代から豊受大神をお祀りしていた「宮」或いは、崇神天皇の御代に真名井原において豊受大神と天照大神を一緒に四年間お祀りした「宮」のことを云います。
天照大神は最終的には垂仁天皇二十六年九月に皇女倭姫命が伊勢の地にお鎮め申し上げました。
その後おおよそ四百八十年経った第二十一代雄略天皇二十一年に倭姫命の御夢に天照大神がお現れになり、「皇大神(天照大神)、吾、天之少宮に坐しし如く、天の下にしても一所に坐さずは御饌も安く聞こし食さず、丹波国の與佐(よさ)の小見の比沼の魚井原(まないはら)に坐す道主(丹波道主)の子、八乎止女(やおとめ)の斎奉る御饌津神(食事を司る神)、止由居太神(豊受大神)を我が坐す国へ坐さしめむと欲す」とお告げになりました。
それによって豊受大神は雄略天皇二十二年七月七日に天橋立北側にある真名井原から伊勢の地にお遷りになりました。
両大神が伊勢にお遷りになった後、飛鳥時代に「宮名」を「吉佐宮」から「籠宮(このみや)」と改め、奈良時代に奥宮の地から現在籠神社が鎮座する場所に遷宮いたしました。
遷宮した後の「吉佐宮」においても祭祀は続けられ、「真名井神社」と呼ばれるようになりました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「奥宮 眞名井神社は パワースポットの源(元伊勢 籠神社その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3411722
海部直・丹波国造・海部家始祖
籠神社の宮司家は古来「海部直(あまべのあたえ)」と呼ばれ、古代より世襲制で「丹波国造」の伝統を持ち、現当主は八十二代目に当たり、神社の始まり(創祀)から連綿として御祭神の血脈一系で奉仕しています。
「海部(あまべ)」とは、応神天皇の五年に定められた部民の一つで、漁労を行う「部」と云う意味ではなく、大和朝廷の臣下となり、朝廷に海産物の貢納と航海技術を以て奉仕した「部」を云います。
また、「直(あたえ)」とは、大王より地方豪族に与えられた政治的地位の姓(かばね)のことを云いますので、「海部直」を賜ったことは大和朝廷と密接な関係にあったことを意味します。
「海部直」の姓は応神天皇から賜ったものです。また「海部直」は「丹波直」と「但馬直」とを兼ねていました。
「丹波国造」の「国造」とは、大和朝廷の区分した、ある領域(国)を統治するために大和朝廷から任命された地方の有力首長のことを云います。大化改新前の国造はその統治する領域の、政治と祭祀の両方を司る権力を与えられましたので、その国の統治者(王)であり、祭祀王でもあったのです。
「丹波」とは、国名で丹波国造が統治していた国の名称です。籠神社のある丹後国は713年に旧丹波国から五郡を割き建国されましたので、ここで云う「丹波」とは、旧丹波国を指し、現在で云うと京都府の中部・北部そして兵庫県の一部を指します。
海部家の始祖は天照大神の孫神である邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄神に当たられる彦火明命(ひこほあかりのみこと)という神様です。彦火明命は籠神社の主祭神でもあり、天祖から御神鏡を賜り豊受大神を創祀した神様でもあります。
皇室の祖先神である邇邇芸命は天照大神から、天照大神の籠もられた御神鏡を賜り九州に天降られましたが、彦火明命は天祖から、豊受大神の籠もられた御神鏡を賜り丹後に天降られたと伝えられています。
皇室の祖先神である邇邇芸命は天照大神をお祀りになり、一方籠神社海部家の祖先神である彦火明命は豊受大神をお祀りになったと伝えられています。彦火明命には二方(ふたかた)の后があり、一方(ひとかた)は大己貴神の女(むすめ)である天道日女命(あめのみちひめのみこと)です。もう一方(ひとかた)は俗に「宗像三女神」と呼ばれている神の一方(ひとかた)で市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。
海部家と海人族(あまぞく)
籠神社海部家は弥生時代においては若狭湾の航海権を統率する海人族の首長であったと云われています。
真名井神社と天橋立の付け根の間にある平地には丹後最大級の弥生墳墓(紀元前一世紀頃)が営まれ、海人族の王墓であったと考えられています。
若狭湾沿岸の鳥浜貝塚では、今から六千年前の長さ六メートルある日本最古の丸木舟が出土しています。同じく若狭湾沿岸にある舞鶴市(宮津市の隣)の浦入遺跡でも同時代の丸木船が出土しています。こちらの丸木船は長さ八メートルあり、同時代の丸木舟と比べると特別に大きいため外洋航海用と考えられています。
つまり、若狭湾一帯は縄文時代から航海技術をもった海人族の拠点であり、漁労のみならず広域的な海上交易の要衝港であったと考えられます。漁労・航海・交易には危険が伴います。
天橋立北側の真名井原に住んでいた海人族は食物獲得・航海安全などを祈り、磐座や水辺で太陽神・月神・火の神・水の神・雷神・海神・風神などの御魂を鎮める祭祀を行い、更に近海遠海の航海交渉や防衛を担いながら、大陸からの文化や技術を導入していたのかもしれません。
空海と真井御前
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「元伊勢 天照大神 ~ 伝説と神話 ~(籠神社 その参)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3422087
二千五百年の歴史を伝える 丹後最古の祭『葵祭』
天照大神・豊受大神とは
天照大神は神々の中で最も尊い神としてお生まれになりました。皇室のご先祖であると同時に私たちのご先祖でもあります。天に輝く太陽のように広大無辺のお恵みを与えてくださる生命の源の先祖神です。
神話によると、天照大神は孫神である邇邇芸命に高天原で作った稲穂を授け人間界を統治するよう命じ、稲や粟などを人間が生きていくための食べ物と位置づけ、更に養蚕も始められました。
天照大神は邇邇芸命に稲穂の他に玉・鏡・剣(『書紀』では鏡のみ)も授けられました。
邇邇芸命は天照大神の御魂が籠められた八咫鏡(やたのかがみ)を持って、日向の高千穂に降臨され、垂仁天皇の御代にその鏡は倭姫命によって伊勢に遷され、それ以来天照大神の血脈に繋がる天皇家が天照大神の祭祀を継承しています。
豊受大神は私たちの毎日の生活に必要な「衣食住」の守護神であります。また天照大神がご自身のお食事を司ってもらうために自ら丹後国からお迎えになった神でもあり、天照大神にエネルギーとパワーをお入れになる神でもあります。
神話によると、豊受大神は彦火明命(籠神社主祭神であり、また海部家の始祖)の后神である天道日女命に五穀(人間の主食となる米・麦・粟・きび・豆)の種を授け、更に養蚕の技術を伝授し、私たちに生きるための糧や知恵を授けてくれました。
それ以来日本人の「衣食住」の守護神として篤く崇敬されています。豊受大神は天孫降臨(邇邇芸命が天照大神の籠もられた御神鏡をもって天降り、地上を統治すること)の際、天火明命(彦火明命)と共に地上に天降られた神でもあります。
彦火明命は天祖から豊受大神をお祀りするための御神鏡を授けられ、それをお祀りして国を統治するよう命じられました。彦火明命はその鏡を持って丹後国(旧丹波国)に降臨され、それをお祀りする神聖な場所を弓矢の飛ぶ方向によって、その子神である天香語山命が占い、ついに天橋立北浜に鎮座する当社奥宮の鎮座地・真名井原を豊受大神をお祀りする最高の場所と定め、「匏宮(よさのみや)」を創祀しました。
それ以来彦火明命の血脈に繋がる海部家が世襲制で豊受大神の祭祀を現在に至るまで継承しています。
籠神社の例祭「葵祭」とは
籠神社の例祭は明治以降四月二十四日に行われる。然し往古は四月の二の午の日に行われる古例であった。そして之の神事を葵祭又は葵神事を云い、又之の御神幸を御陰祭とも呼ぶ。
之は山城の一之宮である賀茂別雷神社並びに賀茂御祖神社で古来四月の二の午の日に御陰祭が行われ、又同月二の酉の日に葵祭が行われたのと軌を一にし、欽明天皇の御代に始まったと伝えられる。
當宮祭神を葵大神、又は青位大神とも申す古記も存する。之は御祭神の再誕に関する、所謂御生れの神事であるが、當神社に於ては更にその淵源をたどると、人皇四代懿徳天皇の御代四年甲午年に始まったと伝えられ、之の祭儀には豊受大神及び、彦火明命・彦火火出見命・丹波道主命に関する深秘がある。
賀茂社と異る所は、賀茂の祭礼では祭員が葵の葉を付けるが、當社では祭員等が冠に藤の花を挿すことが古来の例になっている点である。このように籠神神社では藤の花が御祭神に深い由縁を持ち、その始めは藤祭と稱していたのであるが、欽明天皇の御代に始まった賀茂祭が葵祭と稱せられるに及んで、當神社でも葵祭と稱されるに至ったと伝えられる。
これは籠神社の元初の祭神豊受大神が水徳の大神であらせられ、与謝郡真名井原の天の真名井の水に因んだ本来の故事であったからである。
伊勢の祠官度会元長の神祇百首と云う和歌に、「藤花 花開ハ真名井ノ水ヲ結ブトテ藤岡山ハアカラメナセソ」とあり、註に「件ノ真名井ノ水ハ自天上降坐ス始ハ日向ノ高千穂ノ山ニ居置給フ其後、丹波与佐之宮ニ移シ居置タマフ、豊受大神勢州山田原ニ御遷幸仍彼水ヲ藤岡山ノ麓ニ居祝奉リ朝夕ノ大御饌料トナス」と見える。
これは藤の花と真名井の水のことを詠じた歌であるが、外に當神社の祭に藤の花を用いたことは、後拾遺和歌集に良暹法師の詠める歌に、「千歳経ん君が頭挿せる藤の花、松に懸れる心地こそすれ」とあるに依って知られている。
本宮に対して奥宮である真名井神社の例祭は、豊受大神が御鎮座された日の九月十五日であったが、明治以後新暦を用いるようになってからは十月十五日となった。
豊受大神はその御神格の中に月神としての一面も持っておられ、真名井神社の昔の例祭が、九月十五日と云う満月の日に行われた事もその反映と思われる。又その御神徳が数字の奇数に関わりがあり、一年の五節句(一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)、殊に後の七七・九九の二節句とは最も深い結びつきの神秘がある。
古来中国に於いて、奇数が陽とされ、偶数は、陰を表した事と照應する数字が、籠神社祭神秘伝の中に存するようである
籠神社の藤祭りが始まったのは、懿徳天皇四年(皇紀一五四年)と伝えられるが、平成六年は皇紀二六五四年となり、数えて藤祭り発祥満二五〇〇年目に當り、五月二十二日を吉日と卜して、藤祭葵祭発祥二千五百年祭を氏子中の奉仕により、盛大に行った。
太刀振神事
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「二千五百年の歴史を伝える 丹後最古の祭『葵祭』と 元伊勢 籠神社の神宝・宝物(その四)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3459834
対馬
魏志倭人伝 ~史書への登場~
対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。
「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」
断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。
この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。
(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本の原風景 対馬の歴史~初めて訪ねた人にさえ懐かしさを感じさせる、その人情と風景とは~(第一話)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3172259
対馬は古代から大自然そのものが信仰の対象だった!
胡禄神社 琴崎
祭神はワタツミ系の海神ですが、対馬での伝承では、顔に貝類などが付着して醜い姿をしているとされる、大海原に潜む海の神「磯良」(いそら)ともされています。
パワースポットブーム以降、「神社」(建物)ばかりが注目されがちですが、実はその先にある、古くからの大自然そのものが信仰の対象だったのです。
対馬は古代から、そんな雄大な自然が満ち溢れる、荒々しく、激しく、美しい島だったのです。
その昔、琴崎の神様と黒島(美津島町)の神様がケンカして、琴崎様は岬にあった竹を投げつけ、黒島様は島にあった松を投げつけたので、琴崎には竹がなく、黒島には松がないそうです。
金色の蛇の伝承とか、海底に竜宮城の入口があるとか、伝説もいろいろ。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「対馬は古代から大自然そのものが信仰の対象だった!【寄稿文その8】西 護」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4843400
二つの『元伊勢』さま
何故、私が大神神社に惹かれたかは、今更思い返せば、このご由緒にある三輪山を御神体と崇めた太古の人々のまっさらな魂に感応したからでした。つまり、そのアニミズム的精神に同期したのですね? そんな中で、今回、最近の本サイト一連のシリーズ記事から特に、眼に焼き付いたキーワードがありました。それが「元伊勢」だったのです。
その話は本サイト編集長思い入れのある地、対馬の古神道や寺社建築にも詳しい(一社)対馬観光物産協会の西氏によるご寄稿がきっかけでした。
対馬はその位置関係から、古より文化の十字路です。日本側からは九州経由で、中国や朝鮮からは半島経由で多角的な交流がおこなわれ、日本への物資や技術、医術、書や美術品に至るあらゆる事柄において中継点でもあったので、古い源流の形が見られるところでもあります。
山の辺の道にある「元伊勢」檜原神社
そこで、私は大変なショックを受けることになるのです。長年三輪山に通い続けていながら、迂闊にも「元伊勢」が他にも存在するなど、考えもつきませんでした。唯、記憶にあるのは「元伊勢」とする御由緒の案内板に何故?と疑問を抱えた侭、深く考えもせず、「へぇ〜お伊勢様は昔、此処に鎮座されていたんだ〜」くらいに、軽く受け流していたからです。
しかし、何故か山辺の道巡りで遭遇した、この檜原神社には格別な奥深いざわめきが湧き上がり、同時に不思議な謎を抱いたのは確かです。覚えているのは、そのご由緒書きに檜原神社(日原)とする括弧の中の文字でした。何故ならば、それが私の苗字でもあるからです。しかし、何と畏れ多いことかと、これも、深追いせずそこまででストップ。
倭笠縫邑とは
次に「倭笠縫邑)(やまとかさぬいむら)とはなんの意味を表すのでしょうか?
―・ー「笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)」とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、その皇女、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された。他方の倭大国魂神は皇女渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる―・ー
その時、豊鍬入姫命は天皇の証し(八咫鏡と草薙の剣)を持ち、鎮座されるべき御神座所を求めながら、各地における様子を検討されたのでしよう。しかし。当時の人々の寿命は短く、崇神天皇の直系となる代々の皇女に、バトンタッチされながら、その後90年ほど候補地を転々とされ、最後に垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫によって伊勢の五十鈴川の磯城の厳橿之本に神籬(ひもろぎ)を立てられ御鎮まりになられたそうです。これが伊勢神宮の斎宮創祀とされる所以だそうです。
この間、巡られた仮の鎮座地、
比定地については、檜原神社(桜井市三輪)を筆頭に多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡明日香村飛鳥)、長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)等々 でした―・ー
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91
と、まあ何と沢山でてくること!
「天照大神」の御神霊はその後90年ほど諸処を転々とし、垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫命によって最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われる所以なのだそうてす。
二つのパワースポット
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「二つの『元伊勢』さま 【 寄稿文 】まんだら塾長 日原もとこ」
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二見からはじまる昔ながらの伊勢参り
古くから伊勢神宮に参拝する人は二見浦で禊(みそぎ)をし、その後、外宮、内宮の順番に参拝していたと言われていました。また、伊勢音頭の一節に「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と唄われたとも言われているように、朝熊山の金剛證寺にも参詣するのが習わしでした。 地元民オススメの”昔ながらの伊勢参り”をしてみませんか。
二見興玉神社(夫婦岩)→ 豊受大神宮 外宮(伊勢神宮 )→ 皇大神宮 内宮(伊勢神宮)
→ おはらい町 → おかげ横丁 → 朝熊岳金剛證寺→ 朝熊山頂展望足湯
→ 斎王の斎宮(明和町)
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~昔ながらの伊勢参りとは~「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り(1)」
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おすすめ 江戸の情緒を味わいたい方のための宿!
江戸の面影が残る老舗旅館
麻吉旅館 (あさきちりょかん)
創業200年の老舗旅館「麻吉」。歴史のある日本の木造の宿に泊まれます。伊勢神宮外宮と内宮の間にあるので、徒歩でのんびりゆったり参拝や観光するのにおすすめです。隣接の麻吉歴史館(古市街道資料館)には当時の資料や調度品が展示してあり、ご覧いただくことができます。
住所 〒516-0034 三重県伊勢市中之町109 電話番号 0596-22-4101
公共交通機関でのアクセス
近鉄「宇治山田駅」下車し、三交バス「中之町」からすぐ
車でのアクセス
伊勢自動車道伊勢西ICより約2分
[4]おはらい町
江戸時代のまちなみを再現!
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~昔ながらの伊勢参りとは~「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り(2) おはらい町~伊勢神宮の鬼門を守る名刹~斎王の斎宮」
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多賀大社
お伊勢参らば お多賀へまいれ お伊勢お多賀の 子でござる
お多賀さんとは
延命長寿・縁結びの神として古くから全国的な信仰を集め、豊臣秀吉の厚い信仰もありました。祭神として天照大神(あまてらすのおおみかみ)の両親の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている旧官弊大社である。「お多賀さん」の名で親しまれ、駅前の大鳥居から神社までの参道の両わきにみやげ店などが並ぶ。
神社を清流が囲み、太閤橋(たいこうばし)と呼ばれる石の反り橋を渡って門をくぐると、玉砂利を敷いた境内の向こうによく茂った木立を背に堂々とした風格を持つ本殿が建っている。厳かな雰囲気が漂う境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿がある。
また、東廻廊の横にある石は、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念したもので、延命石と呼ばれている。拝殿などの格天井が、大変に美しいと評判である。社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものである。