虐待と過保護
我が家には家猫がいる。住んでる私が快適だからこの猫も快適だろう。
なんたって衣食住になんの不安がないのだから。
東京で世界のエンターテイメントを目指している我が娘がいる。
その子が各地の公演に出る機会が多い。
その娘に飼い猫がいて、短期は猫好きの友人が面倒見てる。
長期不在の折は我が家に連れてくる。
それはそれで私たちも娘の猫に会える楽しみがあり、嬉しい。
嬉しさあまり、猫可愛がりがつい過ぎる。
中でもワイフは家猫があまりにも寄り付かないので、つい「にゃにゃー」とまとわり付く娘の猫にちゅうるのようなおやつを与える。
一ヶ月もするとまるまるとガタイが大きくなって、みるからに肥満猫となる。
娘が迎えに来ると「おデブちゃんになってしまって連れて帰るのが大変だわ〜。」となる。
「内蔵疾患が心配だから健康診断を受けさせる。」と言う。
「過剰な猫可愛がりは虐待してるのと同じです。」と言う。
確かにそうとも言える。
今日は10月5日。当地の地域町内の運動会であった。
気象学者によると10月は晴れの日が多いとある。
今日は晴れではなかったが、曇りで暑くなく、運動会日和であった。
30年も前、私が45歳ごろ町内会長をしていて連合町内会の会合に出席した。
その頃に新人町内会長が2人、会合に新顔として入ってきた。
その方は定年後の町内会活動だから、かれこれ85歳を超える。
今でも彼らは現役で町内会長と連合町内会正副会長をしている。
まあ元気で現在も最前線で活躍していると思えば、老人パワーに敬服至極だが運動会での2人の挨拶は見るに堪え難かった。
一方は杖を引きずり、片方はマイクが重いのか声が届かない。
地域のリーダーとして役目を果たせてない。
周りの若いものに聞くと、誰もその後釜を引き受けるものがないと言う。本人もやるものがなければ続けると居座ってると言う。
規則がなくても、勇退という決断をする者も地域活動にあまりにも高齢では対応ができないのではないか?と手を上げる若手も出ない。
見渡せば有能かつ適任者はいっぱいいるのに聞けば「まだまだ現会長に預けます」だと。
「それって老人虐待をしてるんだよ?」
また高齢の本人は勇退して後任者を当てがわずに延々と居座り続けていられるのは、周りの人々の思いやり、優しさ、言い変えれば「過保護」にあたる。
耳も遠い、声も細い、満足に一人で歩けない人が地域リーダーを担っていけない。
聞けば「やる人がいない」だって。だったらその方が死んだらどうするのだろう。
本人の勇退もなく周囲の進言もなく、そして関心も薄い。
これは見方を変えれば老人「虐待」になってる。
85歳にもなれば自身で身の対処法はできなくなる。
活溌に動けない老体は思考、視野が狭い。
若いものが代わって世代交代が健全な社会である。
秋真っ盛りの中コスモスが満開である。染井吉野桜の春。秋桜の秋、どちらも日本の春秋を華やかに演出してくれる。
私の圃場の出入り口の両サイドに大きな塊になってコスモスが競って咲いている。
固い車道に生えたコスモスは背丈が低くしっかりと立っている。
一方の柔らかい畑土に育ったコスモスは2mを超える。度重なる雨風にあたって無惨にも倒れてだらしなく花を咲かせている。
観賞用だからあまり気にも掛けないのだが、これが稲の場合では転倒したら品質が落ちる。
稲穂の籾が発芽して精米すると砕けて飯米として販売できない。稲の草丈は低い方がリスクが軽減するのだ。
稲作農家は6月の生育期に中干しといって水を切り、田んぼを乾かす。
乾いた田んぼは網の目のようにひび割れを起こす。
そのひび割れは稲の根を切る役目をになっている。根を切られた稲は成長が止まる。
やがて草丈の低い稲に稲穂が出る。風雨にあたっても転倒しない稲になる。
稲作は根を切るという「虐待」をして品質の良いお米が収穫できるのだ。
一方で同じ稲科の芝は度々肥料をやって繁茂させて刈る。
芝草を密生させて月一度刈ることで雑草が生えにくくする。それをひたすら繰り返すことで雑草のない人も羨む芝庭ができる。こちらは「過保護」の世界だ。
固い車道に生えたコスモス。背丈が低いので転倒しない。
柔らかく肥沃な畑のコスモス。伸び過ぎて自身で立っていられない。
施工から1年経過の芝庭。施肥料して月一度刈ることで雑草を排除できる。