Ride in Kyushu Day 67 (20/2/19) Funai Castle Ruins 大分府内城跡 (not completed)
Former Residence of Matsudaira Tadanao 津守館
Magari Stone Buddha 曲石仏
Iwaya Temple Stone Buddha 岩屋寺石仏
Former Otomo Family Villa 大友氏館跡
Funai Castle Ruins 大分府内城跡
大分は以前は豊後と呼ばれていた。その時代で、豊後の英雄といえば大友宗麟。高校の時に、大友宗麟を題材の歴史小説を読んでから、お気に入りの戦国武将の一人。
大分の市内を内府城目指して走ると、いくつか旧跡があった。今日は十分時間があるので、寄ってみる。
Former Residence of Matsudaira Tadanao 津守館
まずは津守館跡に寄った。松平忠直(一伯)の居館。松平忠直居館ともいわれる。松平忠直は結城秀康の子で徳川家康の孫にあたる。大坂の陣で真田幸村を討ち取った人物。戦後の論功行賞への不満からの乱行で幕府から隠居を命じられ竹中重義の豊後府内藩へ配流された。この地で生涯を終える。石碑と説明板があるのみ。乱行と悪名高き殿様と言われているが、どこまで真実かはわからない。江戸時代の書物にそのように書かれていたことがどんどん大きくなった様にも思える。別の見解は彼が将軍職を狙う最も危険な大名とされ、幕府の陰謀に翻弄されたのではという。家康の孫という事であり得る説と思う。
Magari Stone Budda 曲石仏
曲地区にある磨崖仏 (まがいぶつ 岩盤などに直接彫られた仏像) 大分県にはなぜか多くの石仏がある。平安時代末期の作と言われている。磨崖仏は大分県に約400体あり、全国の8割をしめるという。なぜ大分県に多いのかの理由を尋ねたが、阿蘇の噴火でできた溶結凝灰岩などはやわらかい岩盤で加工がしやすいからとの答えであったが、それだけだろうか? であれば熊本県にももっと多くあっていいのでは? インターネットでは大分県南部を当時治めていた大神氏の領土で仏教文化が栄えたとあった。
Iwaya Temple Stone Buddha 岩屋寺石仏
市内にある別の石仏。こちらは大分市では一番有名。17体の磨崖仏群でこれも平安時代末期の作と言われている。
Former Otomo Family Villa 大友氏館跡
大友氏の大友氏泰がこの地に館を構え、ここを中心に城下町を築いた。この城下町一帯を府内と呼んでいた。大友氏の最盛期は大友宗麟が九州の六カ国を制圧した時期になるが、宗麟はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。この南蛮貿易によりもたらされた経済力がこの繁栄の基礎になっている。
1557年(弘治3年)には日本で初めての西洋式の外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院が開設されている。ポルトガルの商人で医者でもあったルイス・デ・アルメイダによるもので、日本のその他の地区の西洋式病院のモデルとなった。市内には彼の名前をつけた病院がある。アルメイダは元はゴア、マカオを経て日本との交易で巨万の富を手にしたが、この地で赤子殺しや間引きの現実を目の当たりにし、私財を投じて乳児院を建てた。その後大友宗麟に土地を貰い受けこの病院を開設したという経緯だ。翌年の1558年には医者の養成機関まで設立している。彼は宣教師としても活躍して九州全土を回っている。彼が貿易で稼いだ金がこの活動に使われていた。1583年、天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人、無償の医療活動、宣教師など日本につくした波乱の生涯。1月27日に天草市の本渡城跡を訪れた際に、キリシタン墓地に彼の慰霊碑があったことを思い出した。
1580年(天正8年)にはコレジオ(神学院)が設置され南蛮文化の花が開いた。これには大友宗麟のキリシタンへの保護が大きく寄与している。