月読(ツクヨミ)
部屋の窓から月明かりが差し込む中、シンと静まりかえった空間で一人きり、本を読んだり、小さな音で音楽を聴いたりするのが自分らしくいられる時間だった。
音楽も、静かな月夜を感じさせてくれるようなものが大好きだった。
それこそ小学生の頃からそうだったから、きっと筋金入りだろう。
また、私が住んでいる宮崎県は神話発祥の地と言われていて、近所には誰もが一度は聞いたことがあるであろう、
「かけまくもかしこみ
いざなみのおおかみ
つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに~(以下略)」
というあの祝詞(のりと)に出てくる阿波岐原(あわきがはら)があり、イザナギノミコトが天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)を産んだとされるみそぎが池がある。
3神の中でも、ツクヨミノミコトには昔から惹かれている。神話にもほとんど登場しない神様らしいが、月を読むなんて、名前だけで素敵じゃないか。
夜空にぽっかりと浮かぶ月が美しいように、トラウトフィッシングは美しい釣りだ。数ある魚釣りの中で多分最も美しい部類に入ると思う。
そんな中でも最近没頭しているのは、おそらくほとんど放流実績がないであろう、山奥の源流を釣り歩くこと。
ハイシーズンはもう少し先なのだろうけど、教授の研究に協力する意味もあって、毎週末友人のジムニーに乗って荒れた林道を疾走しながら、フィールドに立たせてもらっている。
DNA調査の結果、在来魚の分かりやすい特徴はパーマークの形状と朱点の有無に現れるらしい。
ただ、個人的にはその深い色合いがたまらなく好きだ。
何と言うか、放流魚とは色の深みが圧倒的に違う。
まるで、水彩絵の具を何層にもレイヤリングしたかのような、奥深い輝きはサイズに関係なく、ずっと眺めていたくなるほどに美しい。まさしく芸術的としか言いようがない個体に出会うことも多い。
日帰り釣行と言えども何かあった時の装備は必要になる。それでも足繁く通うだけの魅力がそこにはある。
近所のカリスマが以前、「宮崎はヤマメ天国ですよ。」と教えてくれたのだが、最近は本当にそうだと思う。この釣りを数十年やってきた彼らの経験にはまだまだ遠く及ばないのだけど、そう思うのだ。
よほど機嫌がいい時は別として、大体が1回のポイントでチェイスは1回きり。
居場所を考えて、キャストポイントを見定めて、トレースコースを想定して、1投で決めないと2度目はない。笑ってしまうほどにシビアだ。
そんなハードルをいくつも越えて出会えた一尾は格別。
芸術には苦労がつきものだ。美しいヤマメに出会うためにこだわりの道具を仕立てて、危険を超えて、汗をかいて、集中して、歓喜する。
釣りは芸術、という命題に対する一つの回答がここにはあると思う。楽しいだけ、じゃあ、ツマラナイのだ。
このことに気づいてから何か所目か、狙い通りのポイントでアングロのウッドベイトをくわえ込んだヤマメのジャンプ。友人が撮ってくれた滅多にない1枚。
この丸く不規則なパーマーク。背ビレにまで及んだ太い黒点。
そして深い深いその色合い。
サンプルを持っていくと、案の定、教授は歓喜の声を挙げてくれた。随分古い血統のDNAを持つ特徴的な個体とのこと。
こんな出会いがあるから、たとえシビアな釣りでも通い詰めてしまう。
昼間の色彩を脳裏に漂わせながら、夜になればその余韻をフラッシュバックさせる。
熱をもった全身の筋肉を冷ますように、チカチカとゆっくり輝く月の光をぼうっと眺める。
運命的な出会いはそうそう簡単に訪れるものではないが、求めてゆかねば決して得られない。
そして、出会えたならば、それは一生の宝物。
いつも想いながら、日々を過ごせるような。大事に大事にとっておきたくなるような。
このコラムを書いている途中、ふと「平成最後の満月が・・・。」というテレビのニュースが 流れてきた。
へえ、そうか。だからかなあ。偶然かな。
まぁいいか。
たまには街灯に照らされる葉桜を眺めながら、月の光にコイブミを綴るのもいいだろう。