芸術の再創造
Facebook尾崎尾崎 ヒロノリさん投稿記事【雑感】
『ミケランジェロと、彼を描いたヴォルテッラ……そして同時代に生きたダ・ヴィンチ』
ミケランジェロ・ブオナローティとレオナルド・ダ・ヴィンチ。
同じルネサンスの時代に生を受けながら、その芸術の道は鮮やかに異なる方向へと枝分かれしました。
ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラによるミケランジェロの未完成の肖像画を背景に、この二人の対比を見つめることは、時を超える思索へと誘います。
・ミケランジェロの芸術
ミケランジェロは、まず彫刻家として際立ちました。
その手に刻まれた作品は、肉体の力強さと精神の崇高さを同時に湛えています。
「ダビデ像」や「ピエタ」において示された完璧な均整と、肉体を通して精神を表現する探究心。彼の作品は常に、生命の根源に宿る緊張と高揚を、肉体という器に刻み込むことに捧げられていました。
システィーナ礼拝堂の天井画は、劇的な構図と躍動感あふれる人物によって、生命の昂ぶりと精神の光を描き出しています。
ヴォルテッラの肖像画において強調された手と表情は、まさに彼の芸術哲学を象徴しているようです。
「手は実行し、目は判断する」と彼が語ったように、その創造は熟練の技と鋭い観察力に支えられていました。
この肖像からは、彼の集中と精神の烈しさが立ちのぼり、眼と手の緊密な関係が視覚的に刻まれています。
・レオナルド・ダ・ヴィンチとの対比
一方のレオナルドは、芸術家であると同時に科学者であり、発明家でした。
自然界や人体の観察に基づく彼の作品は、光と影を巧みに操り、静謐で優美な人物表現を生み出します。
「モナ・リザ」や「最後の晩餐」に顕れるのは、深い空間性と心理描写の精緻さ。
彼は視覚世界を解き明かすように観察し、科学的精神をもって写実へと迫りました。
ミケランジェロが力強さと感情の劇を追求したのに対し、レオナルドは調和と写実、自然との静かな一致を求めました。
両者は同じルネサンスの大地に根を下ろしながらも、異なる美の理想を結実させたのです。
・ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラの肖像画
ヴォルテッラはミケランジェロに深く影響を受け、その筆跡には師の魂が映し込まれています。
未完成の肖像画において描かれるのは、彫刻家としての姿勢、そして象徴のように強調された手。
その手は、生涯をかけて多くの作品を生み出した過程そのものを暗示し、肉体と精神の不可分な結びつきを示します。
また未完のまま残された画面は、ミケランジェロが生涯抱いた「未完の美学」を想起させます。
完成を理想としつつも、あえて未完成を残すことで、芸術に無限の可能性を吹き込む……その思想が静かに息づいているのです。
ミケランジェロとレオナルド……二人の対比は、ルネサンスが孕んだ多様な美学の地平を映し出します。
力と精神を刻んだミケランジェロ。調和と自然の理を追求したレオナルド。
そして、ヴォルテッラの肖像画は、ミケランジェロの哲学を一枚に凝縮し、眼と手の関係を強調することで、彼の生涯に通じる主題を視覚化しました。
未完の画面に漂う余白は、今なお私たちに問いかけ続けます。
「芸術とは、完成するものなのか、それとも永遠に完成へと向かい続ける営みなのか」と……。
https://www.enomoto-architects.co.jp/message/kj1112/re-creation.html【芸術の再創造】より
たとえば、よく出来た映画というものは、独自の《世界》を見事に形造っている。そして観るものを強引に引きずり込んで、夢中にさせてしまう。たとえ小さなテレビでレンタルビデオを見たとしても、いつのまにか小さな画面はその枠を超えて、我々をすっぽり包み込んでしまうのだ。これは言い換えれば、我々の心の中にその《世界》がしっかりと結像する、といことに他ならない。
何も映画に限った話ではない。音楽でも絵画でも文学でも、おおよそ人を感動させうるものは、すべて独自の《世界》を鑑賞者の心の中に周到に組み立てる。鑑賞者はその世界の中にどっぷり浸かって、ひととき世俗の憂さを忘れ、作者のメッセージを味わう。今実際に居る部屋は見えなくなってしまい、いつの間にか、自分が仮想の世界の中で活躍し愛し苦悩する主人公になってしまう。
逆に言えば、こうした作品を味わうときには、鑑賞者は作品の発するひとつひとつのディテールを自らの内で組み立て直し、作者の刺激に基づきながら、無意識のうちにも《自分で》その世界を構築しているのである。だからそれは決して受け身ではなく、自らの内での【再創造】とでも呼びうる行為なのだ。芸術は、芸術家が作品を造っただけでは完成しない。鑑賞者がそれを一度ばらばらに分解し、作品に欠けている部分を自ら補って再創造することで完成する。鑑賞者は、実は自分で造った世界に酔いしれているのである。すなわち鑑賞とは、実は非常にクリエイティブな行為なのだ。
このためには《理解の基盤》が作者と共有されていなくてはならない。たった31文字の和歌の中に「秋の夕暮れ」とあるだけで、美しい紅葉と澄んだ空気、そしてもの悲しい静けさをしみじみと感じることが出来るのは、作者にも鑑賞者にもこの日本の素晴らしい秋の体験が、深く刻み込まれているからである。砂漠の民にはどうやっても想像できない事だろう。逆に我々が宗教絵画を見ても、信者が感じるほどの感銘は得られない。宗教絵画のディテールに対する知識もなければ、それらの関係性も背景も分からない下では、
再創造どころか、説明されて「へぇー」と思うのが精一杯だ。こうしてみると、この《理解の基盤》の体系こそが、《文化》そのものだということがわかる。
建築もまた、人の想像力に働きかけるために、緻密に構成された部品の集成ということができる。機能や構造・コスト等々という制約は大きいにせよ、建築は人を実際に包み込む空間を造るから、より強く人をそのミクロコスモスの中に置くことができるだろう。アプローチから始まる空間構成のストーリー、個々のスペースにおける光や材料の扱い・拡がりやディテールの演出、隣接する空間相互の関係性----それらは時間軸に沿って、少しずつ訪れる者を刺激する。人は身体を建築の空間に包み込まれるだけでなく、心の中にも建築の世界を再創造し、そこにすっぽり包み込まれる。通り過ぎた空間と、今居る空間と、これから行く向こうの空間の関係性の中から、全体の構成が無意識のうちに心の中に組み立てられ、光や材料やディテールの扱いがそれをより明瞭にして、この《世界》が心の中にしっかり結像するのである。
ただ、ここで建築が絵画や文学と決定的に異なるのは、建築が再現芸術ではないという点である。絵画は絵の具の配列にすぎず、文学も文字の羅列にすぎないが、それを通して愛とか人生とか自然とか《何か他のもの》を表徴する。絵の具や文字は《何か他のもの》を再現するための媒体に過ぎない。ところが建築は、床壁天井は基本的には、そのもの自身とそれが包む空間の特性しか意味しない。
それらを通して 心地よさとか伸びやかさ・高揚感・やすらぎ・理知性・新しさ等々の感覚を得るのは、本来は絵画や文学より高度に抽象的な再創造によるものである。芸術評論家ハーバード・リードは、最も高度な芸術は陶芸であると言っているが、これもまた、明確な意味を持たない部分の集積から再創造することの難しさを述べているのである。しかし逆に言えば、理解の基盤が特定の文化に依存していない分、どんな時代・地域の作品も等しく再創造可能である点は、建築の大きな強みといえよう。
先程 鑑賞とは、実は非常にクリエイティブな行為だと書いた。そう、だからこそ優れた建築を見ることが、最高の訓練になるのである。なぜなら設計とは、自ら引いた一本一本の線が、人間にどう働きかけるかを想像し批評し修正しながら進める行為だからであり、実現させようとする床や壁や天井が、どのような《世界》を構成するかを、頭の中で組み立てることだからである。これは鑑賞するときの再創造と全く同じ事だ。違いは部品が目から見た実物か、自分の図面から想像したものかだけである。こうして建築家は、現象学的に新しい《世界》を目指してゆくのである。(榎本弘之 建築専門誌『KJ』2011年12月号所収)
背景写真:ロンシャンの教会
写真で建築を味わうというのは、実際に訪れて見るより遙かに難しい。空間の三次元的拡がりからスケール感・テクスチュアから吹いている風の感じまで、すべてを二次元の中から想像し、頭の中で再構成しなければならないからだ。この再創造は、設計するときの頭の動きときわめて近いといえよう。
■伊浜の別荘(静岡県1999)
崖に突き出したこの空中露天風呂は、設計の時からわくわくしていた。是非、ここに浸かった自分を想像してみてほしい。180度の展望と温もり・涼風、そして酒の味までもが想い浮かんでくることだろう。
https://courrier.jp/news/archives/363754/ 【米大学教授が解説する「日本の『わび・さび』の美学」なぜ外国人はこの概念に魅了されるのか】より
「わび・さび」はいまや海外でも“Wabi-Sabi”として知られているが、この日本独特の概念を定義するのは日本人でも難しいだろう。ワシントン大学で日本語や日本文学を教えるポール・アトキンス教授が、「わび・さび」が日本国外に広まった経緯と、その美学に外国人が惹かれる理由を解説する。
日本に逆輸入された
先日ニューヨークを訪れた際、マンハッタンにある日本の書店に立ち寄った。日本に関する英語の本が並ぶなか、「わび・さび」専用の棚があり、『わび・さびの恋愛術』『わび・さび道』『芸術家、デザイナー、詩人、哲学者のためのわび・さび講座』などのタイトルが陳列されていた。
いったい「わび・さび」とは何なのか、そしてなぜ「寿司」や「空手」といったジャンルと並び、独自のコーナーが設けられるほどの扱いを受けているのか?
「わび・さび」は、一般的には伝統的な日本の美意識と説明されている。「傷がある」または「未完成な」という意味合いでの「完全な不完全さ」の美だ。実は「わび」と「さび」は似て非なる概念だが、日本以外では一緒くたに扱われることが多い。
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日本で育った人でも、「わび」と「さび」を正確に定義するのは難しいかもしれないが、どちらも間違いなく日本独自の考え方で、とくに難解な概念ではない。
日本の古語や古典文学、伝統文化を研究する身として、私も「わび・さび」と、それが日本国外で理解されるに至った経緯について専門的な関心を持っている。
グーグル・ブックスをざっと検索してみると、この言葉が英語の文献に現れはじめたのは1980年頃だとわかる。おそらくこれは、日本の美術評論家・柳宗悦の評論集が1972年に『The Unknown Craftsman(無名の工匠)』として英訳出版されており、それに対する反応が遅れて訪れたのだろう。
本作中の「不規則性の美」と題されたエッセイのなかで、柳は「茶道」とその素朴な優美さについて語っている。茶道にとどまらず、柳はタイトルが示すように、完璧、洗練、対称性といった伝統的な理想とは異なる美の感覚に魅了されていた。
「『素朴さ』の背後に隠れた美がひそんでおり、私たちはそれを『渋い』『わび』『さび』という独特の形容詞で呼んでいる」と柳は書いている。
「渋い」とは、「質素な」とか「控えめな」というような意味だが、日本国外で広まったのは、わびとさびのほうだった。おそらく、二語が韻を踏んでいるためだろう。(以下略)