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芸術とは何か

2025.10.04 05:43

https://www.polamuseum.or.jp/collection/002-0527/ 【柿】より

作家名小林古径 制作年1934年(昭和9)技法・素材絹本彩色/額装サイズ 48.3 x 72.5 cm

写生を重んじた古径の作品には、身近な花や果実を描いたものが多く、なかでも柿の実を好んでいたようである。本作品では、柿の木の一部分をクローズアップした構図で、枝は下方から上方に向かって伸び、よく色づきぽってりと実った柿の実は、ちょうど採り頃食べ頃といった趣である。柿の実に細かな傷を描きこむ写実性は、枝の肥痩や葉の照り、虫食いにまで至り、古径の力量を伝えている。浮かび上がるような柿の実の立体感は、迷いのない輪郭線によって背景と区切られているのだが、まるで溶け込むように存在感をなくす線描の妙には驚かされる。それは、古径の語る線描についての理念に即している。「線としていゝものは、画面に独立して、飛び離れた存在となつてゐるものではないと思ふ。画面に独立して目立つやうなのは、いゝ線ではないのではあるまいか。何んだかいゝ絵と称するものゝ線は、みんなそんな気がする。現はれたものゝ中へ総ての線が溶けこんでゐなければならないものではないか。」(小林古径「東洋画の線」『美術新論』8巻3号 1933年3月) なお、本作品と類似した枝ぶりの柿の木を描いた作品に《火禾采》 (秋采/しゅうさい)(1934年、山種美術館蔵)があり、そこではより広範囲にわたって枝が描かれ、画面右下に竹穂垣(ルビ:たけほがき)が描きこまれ、庭の一角の風情を演出している

https://jin11.net/2023/09/18/4192/ 【【柿図屏風 Persimmon Tree】江戸時‐酒井抱一】より

江戸時代の画家、酒井抱一(さかい ほういつ)による「柿図屏風」は、柿の木とその実を描いた屏風(びょうぶ)の絵画です。この絵画は、日本の伝統的な屏風絵画の一例であり、自然界の要素を美しく表現しています。

「柿図屏風」は、酒井抱一によって制作され、彼は江戸時代中期から後期にかけて活躍した画家で、特に花鳥画や風景画で知られています。この屏風では、柿の木が生き生きと描かれ、その実の鮮やかな色彩が目を引きます。柿の実は日本の秋の季節を象徴し、美味しい秋の果物として広く親しまれています。

酒井抱一の「柿図屏風」は、日本の自然界と季節感を捉えた美しい作品であり、日本の絵画の伝統と文化に貢献した芸術家の一つです。このような屏風絵画は、日本の美的価値観や風俗を表現する重要な要素であり、美術愛好家や歴史研究者にとって貴重な資料とされています。

https://www.asahi-net.or.jp/~VF8T-MYZW/log/aart.html 【芸術とは何か?】より

1. 人間と動物の違い。(価値をつくる動物)

人間と動物の大きな違いは何でしょうか?大きい脳、二足歩行するところ、言葉を喋る事。

いろいろあると思いますが、やはり芸術を持ち、そこに価値と言うものを置いているところです。

動物は非常に完成された存在です。完成されたプログラム(本能)に従って生きています。

腹が減ったら、獲物を捕って空腹を満たすし、時期がくればパートナーを見つけて子供を作り、育てます。 そこには何の迷いもありません。

ですが、人間の場合そういった一つ一つの行動に対して、疑問がわいてきます。

なぜ自分は生きているのか?なぜ飯を食うのか?なぜ苦しみはあるのか?なぜ人は死ぬのか?

数え上げたら、きりの無い疑問を抱え込んでいるのが、人間と言う存在です。

人間はそう言った疑問を、文化によって埋め合わせる必要があります。

例えば、いちいち食事の時『なぜ自分は飯を食うのだろう?』と考えていては、生きていく事はできません。

文化には、そう言った疑問によって生活が苦しめられないように、補完する役割があると思います。

様々な疑問は、感謝、尊敬、摂理、美、道徳、正義、愛と言ったような、より高次の価値に置き換えられる必要があります。

宗教や科学そして芸術などの様々な文化は、そういった人間の様々な疑問に対して、答えをだすために存在しているとも言えます。

人間の存在には、もともと意味も根拠もありません。

なぜなら意味や根拠は、人間がつくり出しているものだからです。

動物は、意味や根拠を持たなくても日々生活しています。ですが、人間はそれなしに生きる事は出来ない動物です。それが無くては、人間はあふれる疑問を押さえる事はできません。

いままで神とは、人間という存在に意味を与える、一つの絶対的根拠でした。(つまり人間が作った神です)

20世紀のはじめに、『神は死んだ』と宣言した、哲学者がいました。

かれはキリスト教の道徳に疑問を持ち、その根拠一つ一つの起源を解きあかし、神の言葉とされているものの多くが人間の言葉であるという事をあきらかにしました。

その事によって、絶対的な根拠であった神と言う言葉を、もはや使う事ができない事に人間は気付きました。つまり人間は、生きる根拠を“自分達の手”で探していかなくてはならなくなったのです。もちろんその根拠は、ただ“生きる”と言う事であっても良いのです。

 人間は社会を持つ動物です。そして社会と言うものにとても関心を持つ動物です。

社会と言う言葉を使うと、なにやら新聞の社会欄に書いてある事が、社会だと感じてしまう人が多いと思います。ですが人間が、二人あるいは三人以上集まれば、それは社会になります。

例えば性欲は、個人の問題であるが、セックスは社会的な問題、と言ったようにです。

セックスは互いの了承関係があってはじめて成立するものです。人間の行為は、社会から了承される必要性が常にあります。「そんな事は関係ない」と言っていても、一人で生きていける人間は滅多にいません。社会とは、この了承関係の複雑な網の目とも言えます。

この了承関係が非常に複雑なのは、その決まり方が、文化的、歴史的背景に加えて、その時代の流行、そして個々の人間の価値観に左右されるからです。つまり簡単な図式を描いて説明しきれないのです。

2. 芸術とはなにか?

芸術とは、この了承の網の目を作り変えようとする行為です。

たとえばピカソが天才と言われるのは、それまで存在した美の了承関係(美の常識)を根本からくつがえした事にあります。芸術とは、社会的な価値を創造することそのものです。

芸術は、常に孤独な作業になります。 なぜなら、社会的な価値を変えようとあるいは、超えようとする行為だからです。

つまり優れた芸術として了承されるまで、芸術に社会的な意味や価値は発生しないからです。

芸術の難しさは、認められるまで、社会的意味や価値が発生しないにもかかわらず、その事を試み続けなくてはいけないと言う点です。

そして芸術の不思議は、それが個人的なものであるのにも関わらず、社会的なものであるところです。

芸術は個人のわがままであるとも言えますが、優れた芸術は常に社会的なものに変化してゆきます。個人のわがままが社会を動かしていくのです。

芸術は個人から生まれた要請を、社会的なものに変えていく行為とも言えます。

もちろんそれは、技術でもあります。ただこんな言い方をすると、とても難しく聞こえます。

ですが実は、価値の創造(芸術行為)はだれもが普段何気なくやっている事なのです。

(この事については、「3. あらゆる人は芸術家である。」に書きます。)

 人間は、個人と社会という対立の関係の中に自分を置いています。(そういったイメージを持っています)人間は、動物の一種ですから、本能に従って生きるだけでも良いはずです。

ですがなぜか人間は、それが出来ない動物なのです。社会やルールと言うものが生まれ、それに従う事を求められます。

もしそれが明解で合理的なルールであるならば、それを了承するのはそれほど困難では無いでしょう。

ただ人間は、その複雑な思いと力関係から、生まれてくる新しい人達には受け入れる事の出来ないものをつくり出す事もあります。

また、それまでの価値観の中には入り切らない、新しいものをつくり出す事があります。

そして、新しいものが社会の価値観を大きく変えていく、そういった出来事は、歴史上何度も起きています。

新しい発明や考え方は、社会のあり方、あるいは、ものの見方を大きく変えてきました。

ただ、人間の本能を司っている小脳の上にある大脳は、そのすぐれた柔軟性のためか、場合によっては人間の生活を脅かすようなものにもなりかねません。

価値を高次元にまで高めていく行為は、場合によっては生活の邪魔になる事もあります。

はたして、どこまでその価値を高めていく必要があるのか?

またその価値が果たして人間にとって必要なものなのか?

つまり文化は、常に見直しを迫られる宿命をもっています。

もし人間が価値を作らずに生きていけるなら、そんな事をする必要は本来無いはずです。

人間は不完全な存在であると言えます。

ただもしかすると、必然性のある不完全なのかもしれません。

人間の行為は、常に未完です。それは、人間の行為は完成が目的では無いからです。

大切なのは、その過程の中で何と出会ったか。誰と関わったのかと言う事です。

芸術とは、より多くの人と関わっていこうと意欲する事です。偉大なる未完をめざす事です。

3. あらゆる人は芸術家である。これはドイツの芸術家ヨーゼフ・ボイスの言葉です。

私も『あらゆる人は芸術家である』と、思っています。

ただ、注意しなくてはいけないのは、これは誰でも絵描きになれたり、歌手になれたりすると言う意味ではありません。これは、くり返し誤解されてきた事です。

もっとも誤解を生みやすい言葉を残したボイスにも、責任はあると思いますが。

 このことばの大切なところは、絵を描く事、歌を歌う事が、芸術なのでは無いということです。絵を描いていても、それが芸術になっていない事はありえます。形式の中に芸術があるのではありません。芸術とは、わかりやすく言えば『感動』を人に伝えていく事です。

芸術家は、よくこれを『コンセプト』と言い換えたりします。またヨーゼフ・ボイスならば、『熱』と言うでしょう。

なぜ『感動』が必要なのか?

『感動』が無ければ、人の心を動かす事は出来ないからです。芸術は、実に単純な原則でできています。芸術は、基本的に何も変わっていません。西洋だろうが、東洋だろうが基本は何も変わりません。恐らく人類が発生した頃から、芸術は何も変わっていないと言えます。

芸術には様々な形式が存在しますが、それには歴史的な意味があります。もちろん、そう言った歴史を無視する事は、良くありません。なぜなら、過去に生きてきた人々の痕跡はたくさんの事を私達に教えてくれるからです。

ですが、大切なのはそう言った形式の中に芸術があるのではない、ということです。

感動を伝え、(美の)価値観が変わるような活動ができれば、それだけで芸術活動です。

美しい花を見たとします。その事を誰かに伝えたとします。

その言葉によって、その美がうまく伝わったとするなら(感動が伝わったなら)、それは芸術活動です。

教師が自分が感動した考えを、授業の中で伝える事ができたなら、それは芸術活動です。

子供が今日会った一番楽しかった事を母親に話す事、それも芸術活動です。

ボイスは『教育活動とは芸術活動そのものだ』と話しています。

芸術とは、社会的な価値観を作り変えていく事です。

つまり教育活動とも言えます。たとえ、観客がたった一人でも良いのです。


http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0605/na014.htm 【大衆と芸術~芭蕉のあり方】より

不易流行

 『悪党芭蕉』という本があります。著者は嵐山光三郎さんで、なかなか面白い本ですのでみなさんにもお薦めします。

 この本は「不易流行」をキーワードにしているのですが、不易とは永遠に変わらない原理で善であり、流行は刻々と変化していくことで悪であるという風に一般に捉えられています。この不易と流行も、環境やデザインを考える上で、しばしば考えなければならないと私は思っています。

 金澤さんの発表にも、こんな風に読めるところがあったと思います。

文芸家(芸術家)としての葛藤

 「悪党芭蕉」の話を続けますが、文芸家(これは芸術家でもあるのですが)はいつも葛藤があるという話です。この本では芭蕉は不易流行を引用しながら、その本心は不易ではなく流行の方にあったとしています。流行こそが俳諧の味わいの命であって、不易は付け足しに過ぎないという認識です。

 だから、俳諧は不易(=善)と思われがちですが、不易つまり悟ってしまうと文芸家は成り立たない、芸術家はいつまでも流行の側に身を置いている必要があるという理屈です。不易=永遠に変わらない原理に芸術家が到達してしまうと、もう作品は作らなくてもいいということになってしまいますから。

 芭蕉はこんな矛盾をアウフヘーベンして不易流行を説いたのですが、本心は流行(=刻々と変化していく側)にあったんです。そこがなかなか難しい問題だったのではないかと思います。

「軽み(かろみ)」のねらい

 芭蕉は晩年には、俳諧における「軽み」を主張しました。軽みは「率直な自然観賞による平明な読み」だとされています。軽みの対極にあるのが「重い句」で、古典的な短歌のように花鳥風月に託していろいろと脚色した派手な俳句のことです。

 派手であでやかなものを良しとする世界なら、俳諧はどうしても短歌の下位に位置することになるでしょう。だからこそ芭蕉は「高く心を悟って俗に還る」必要があったのです。侘び・寂びの世界です。「甘みを抜け」とか「軽みの句を書け」と芭蕉は主張するようになったのです。

「軽み」では芸にならない

 このように芭蕉は「軽み」を主張しつつ、句集を編んだりしていました。「奧の細道」を書いた頃は、そうした軽みを表現するためのまっただ中だったようです。

 ところで、芭蕉は「句が巧い人は人格に欠け、人のよい人は正直だから巧い句が詠めない」と言っています。だから、芭蕉は句と人格の一致を求めて「軽み」にたどり着いたのですが、門弟達には不評でした。「軽みでは芸にならない、人が集まらない」というわけです。

 この頃、俳諧師は、興行師のように人を集めた宴会の中で俳句作りをリードしていく存在でした。「面白い」とか「あでやかだ」という作品が出る所に人は集まってくるのだから、芭蕉の言う平明な「軽み」では人を集めにくいというのです。こんなことを言って、門弟の重鎮たちは次々と芭蕉を批判して離れていってしまいました。

 しかし、何百年も経った今になってみると、離反した人たちの俳句は残っていません。結果的には芭蕉の句が芸術として世に残ったのですが、当時は芭蕉も世の中の風潮と闘っていたのです。デザインも実はそういうことではないでしょうか。