近うして
Facebook寺島 義治さん投稿記事
ヒンドゥー教のことを知ると、いろんなお寺やヨガのこと、仏教のことが、ごっついオモロくなる。そうすると、旅が格段に面白くなる。そこで、神道のほうも調べてみようと思っている。そしたらきっと、神社のこともごっついオモロくなるはずだ。
神社の数は、お寺よりも多いぐらいだからな。
ただ神道に関しては難しいところがあって、これといった独自の哲学や教理がないそうだ。
少なくとも、共通認識として明文化されてはいない。
神道というと、現代では縄文時代から続く「エコロジーな考え」だとか、皇室に代表される「日本古来の伝統」などと解釈されるが、それは学術的には違うそうだ。
神道は主に仏教(密教)を参考に、鎌倉時代に教理形成された「中世宗教」のひとつであって、その後仏教から独立を志向して「日本独自だ」と主張することにより自己形成をしてきたそうだ。
その後江戸になって平田篤胤の復古神道の後押しで「天皇教」に変遷し、国家神道を経て、現在に至る。
残念ながら古代日本には哲学=「生命認識と存在論」についてのロジックが、希薄だったそうだ。
しかし、たとえば「ムスヒ」などの概念は、もっと進化すれば生命認識や存在論に達し、高度な哲学になる可能性もあったそうだが、結局は信仰の枠を出ず、思想の骨組みとなりうる哲学概念にまでは発展しなかったそうである。
ヒンドゥー教では、この「ムスヒ」に該当する概念がブラフマー神で、「世界を創造した根本原理」としたそうだ。
これが「誕生の原理」「世界の存在原因」となって、その後これが「ブラフマン」という宇宙根本原理と解釈され、このブラフマンが「アートマン」という個人の存在原因と本質的に同一とみなすことで、インド哲学が極度に発達したらしい。
まさに「生命認識」と「存在論」がセットで発達した。
もともとインド人は本質を探る形而上的な議論を好んだというのもあるが、それは数百もの民族を統合するために必要だったからだという説もある。
最大公約数としての哲学がないと、言語も文化も全く違う民族を統合できないからね。
いっぽう日本はそこまで民族は多くはなかったので、複雑な哲学は必要ではなかったのかもしれない。
しかし、このことで形而上的な哲学が生まれなかったので、その欠けた部分の多くを、インド由来の密教哲学に負ってしまった。
それが神道に明確な哲学が存在しない理由かもしれない、ということだ。
ただし、だからといって、神道に信仰の意味がないということにはならないそうだ。
むしろ信仰は哲学とは別の領域で存在するものだから、必ずしも神道の価値を貶めるものではない、ということだ。
なので、神道についてはその哲学性よりも、はやり「歴史」に面白みがありそうだ。
ボクは神道が、鎌倉時代の中世宗教であることさえ知らなかった。
なぜ鳥居があの形なのか、ニ拍一礼がどこからきたのか、ミソギの概念はなぜ生まれたのか、祝詞は何に影響を受けて生まれたのか、そんなことを知ると、神社はぐっと面白くなるかもしれない。
また、密教とどういうふうに混交していったかにも、興味がある。
日本は歴史が長いぶん、インドに引けをとらぬ複雑な経緯がありそうだ。
こういうことを知れば、わざわざ京都まで行かなくても、近場のお寺や神社が数十倍から数百倍、面白くなると思う。
https://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20150613post-111.html 【空海の言葉】より
今月の言葉の力は、弘法大師空海の言葉です。『近うして見難きは我が心』
『近うして見難きは我が心 細にして空に遍ずるは我が仏なり
我が仏は思議し難く わが心は広にしてまた大なり』 (秘蔵宝鑰)私はこの言葉の真(まこと)を理解していません。
もっとも近くにある自分の心の姿が、実はもっとも見えにくいのだと解釈しております。
大切に感じている弘法大師の言葉です。そもそもこの「心」とは何を指しているのか。
心はどこにあるのかと聞かれると、ほとんどの人は胸に手をあてる。本当にそうなのか。
考える頭と心は近くにある気もする。安らいでいる心 楽しんでいる心 迷っている心
平常心といわれるもの 偽りの心といわれるもの このように刻々と変化する心の様子
弘法大師の言葉でいう心とはこのことを指すのかというと、真は違うと思う。
もっとその奥深く、もっと近くにあるものを心といっているのでは。
その心こそが見難き存在であると。仮にそれを「真の心」とする。
その「真の心」を“まんまるお月さま“に例えるならば、日々刻々と変化しているの私の心は、分厚い雲であり、一層、まんまるお月さまを見えなくさせている。
真の心。そういえば真心(まごころ)という言葉がある。
なんとも優しく濁りないイメージの言葉。
しかし、まんまるお月さまが見えないからといって、そこに善悪はない。
分厚い雲も受け入れて、やまない雨風も受け入れて、雲が去り、そこから強く照らしつける陽射しも受け入れて、逆に不平不満を言ったって、それも自分だ。
ありのままを受け入れる。その素直さはとても大切であり、しかしながら難儀なこと。
そんな不完全な人の心を深くから支え、灯し続けてくれているのは、実は誰もが内に有する真心(まごころ)じゃないだろうか。
それを「仏心」ともいうらしい。どなたの内にもこれがあるそうだ。
だから安易に人を傷つけてはいけない。自分を粗末にしてもいけない。
想え 心中に月輪あり6月15日は弘法大師空海のご生誕の日です。