ショパン、2か月半に及ぶ旅先で、そしてパリへ戻る
カールスバードで幸せだったショパンは、ドレスデンで没落貴族の出身の母方の遠縁の親戚
で、名門貴族で広大な地方のほとんどの土地を所有していたヴォジンスキ家一家と数日間過
ごし、とても気を遣い疲れたのであった。
次に向かった、ライプツィヒはメンデルスゾーンの家で1日中拘束されてメンデルスゾーンの
作曲の手伝いをして、そのあとは、メンデルスゾーンの巨大な家で催されたメンデルスゾー
ンのために演奏会でショパンが殆ど手伝った(推測)曲をメンデルスゾーンの曲として2時間
40分連弾をさせられて、その間の休憩時間にショパンは我慢の限度が最高に達したため、メ
ンデルスゾーンにお伺いを立てずに休憩も取らないで突如激しい曲を弾いて観客を沸かせた。
そのあと、ショパンは帰りがけにメンデルスゾーンの部屋でヘンデルの自筆譜を手書きでそ
っくり写した贋作を見せつけられてショパンにしてみれば「君の筆跡を写すように書くのも
私は上手いのだよ、そして、君もこのように私の代筆も上手くやってくれよ」と追い詰めら
れているような気分になったかもしれない。このことを、
メンデルスゾーンは姉にショパンが幼稚に笑ったと言うが、それは、違う、ショパンは恐ろ
しかったのだろう、人間は恐ろしいときそれを隠すために笑う場合がある。その笑いだった
のであろう。ショパンが喜ぶわけがない、ショパンには父ニコラスの声が聞こえたのであろう、
「不正には一切関わらないで、おまえは地道に生きろ」そうニコラスはいつもフレデリックに諭していた。
ショパンはメンデルスゾーンに付き合って、疲れた体と疲れた心を引きずるかのように、ラ
イプツィヒを後にした。次に、ハイデルベルクに立ち寄り、愛弟子グートマンの家を訪れた
が、ここでショパンは倒れてしまい喀血したのだった。
ショパンは、パリを出てカールスバートまで2000kim以上(おおよそ馬車で12日から15日)8
月16日カールスバードに3週間滞在し9月5日に出発しポーランドの国境近くのテッシェンまで
(700km、おおよそ馬車で3日から5日)両親を見送り、そこからドレスデン(800km)のヴォジ
ンスキ家へ寄ったことはまでは両親も知っていたが、その後の行先は、ショパンは自分の人
生をなんとか自分で切り開き良い結果を得てから親を喜ばせたかったのであろう、ショパン
は両親には内緒で行動をしていたのだった。
そうとも知らない父ニコラスは姉ルドビカとフレデリックに来年夏(1836年)に会いましょ
うとパリへ嬉しい便りを送っていたのだった。
そして、ニコラスはフレデリックがドレスデンを気に入っていると思い込んでいた。
フレデリックがヴォドジンスキ一家にショパンが接近していることは父にとっては経済的に
も親戚やポーランド人としての関わりなどを含めて安心できることであると考えていたのであろう。
その頃、姉はリンデ夫人にショパンが来年ドレスデンに行くことを話していた。
(ショパンが生まれた頃、ワルシャワ学院 校長のサミュエル・リンデが父にワルシャワ学院
でフランス語を教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。)
リンデ夫人は、この頃、ドレスデンでショパンがマリア譲に従う身になったことをかわいそ
うにと言っている。つまりは、マリアにとって、「貴族の夫人やご令嬢の殆どすべての女性
から人気のショパンが名門貴族のうら若き私に興味を示さないないなんて失礼だわ!」とい
った気位の高い女性特有の心理といったところであろう。
そしてマリアは母親に恐らく言ったのであろう。「下僕のショパンに求婚されて私は困って
いるのよ」これが事の発端でマリアの母から、ワルシャワのリンデ夫人に伝わり、リンデ夫
人はそれをルドヴィカに話した。そしてふたりで、フレデリックは相手がヴォドジンスキ家
では否定することも出来ない、本当にフレデリックが可哀そうという訳である。そしてリン
デ夫人とルドヴィカは「二人だけの間で内緒にしておきましょう」と話したのであった。
フレデリックが重症であることは何も知らない父ニコラスだった。フレデリックは子供のこ
ろから体が弱かった。しかし、カールスバートでは息子がパリで人気者になり身長も伸び以
前より逞しくなったように両親には見えたのかもしれない。良かれと思ってヴォジンスキ家
を訪ねてるように勧めたニコラスだったが、実はショパンはヴォジンスキ家との付き合い程疲れるものはなかったのだ。
パリの帰路、病に倒れたフレデリックはいつものように父ニコラスへ手紙が書けなかった。
書けなかった理由は倒れたことだけでなく、そのほか、ライプツィスヒの出来事も、何一つ
とっても親を喜ばせることが書けなかったからだ。
しかし、フレデリックが連絡して来ないことが父ニコラスを心配させた。
ニコラスはパリにフレデリックが帰ってパリで寝込んでいると勘違いしていたのだ。
1836年1月9日、ニコラスは息子からの手紙をジリジリしながらずっと待ち続けていた。
フレデリックは、かなりの移動距離である馬車に揺られ毎日毎日、約一か月は揺られていた。
ニコラスは、心配でいたたまれない気持ちで年越しをしたにちがいない。
さかのぼること3週間まえ1835年12月上旬からショパンが、重篤である噂が父のところに流れてきた。
知り合いの皆がフレデリックから知らせがあったかと心配してニコラスに聞いてくる。
クリスマスの直前に息子が死にかけていると知らせが入ったときにはニコラスは死ぬほど心
配したことはお前に想像できないほどだと父は綴った。
ワルシャワのご婦人方からショパンの便りをみせてもらって落ち着く様になぐさめられた父
である。
待ち焦がれていた息子フレデリックからの便りは父ニコラスはやっと受け取った。(紛失ま
たは削除され現存しない)
ショパンがパリに戻ったのは10月18日だった、父ニコラスはどうして倒れたことをしらせな
かったのだとフレデリックに言った。
ハイデルべルクではデイラー家の夫人によってフレデリックは救われたのだった。
「作曲にもレッスンにも多忙のようだが、ほとんど休むひまがないのはよくないと思う」と
父は苦言を刺した。
父は本当の事は知らないのである、フレデリックが忙しいのはそういったことだけではないのである。
その背景には多くの登場人物の人間絵巻が絡みあい金と欲に翻弄されていたのである。
社交は夜会であるし季節は最も冷え込む時期である有力者に出逢える機会であることを父も
承知で息子の健康と成功を天秤にかけるわけにはいかない。なんとも苦しい判断である。
そこまでのことではない知り合いでなんとかと思う父は、ヴォジンスキ家のことも切り出し
ている。
ニコラスとしては、年頃の息子がヴォジンスキ家のマリアの一方的は発言だけで噂が広ま
り、自分の大事な息子の人生が左右されてしまうことは良くないことだとフレデリックに語
っている。
そして、フレデリックとマリアの兄アントニイの仲を息子がうまくやっているとニコラスは
思っていたが、実はマリアの兄アントニイからフレデリックはパリに来て以来、アント二イ
にお金をたかられていたのであった。
パリにやっと帰ったフレデリックに父ニコラスは体調が悪いときはマッシンスキに代筆させ
なさいと言及したのだった。
マツシンスキに宛てて父ニコラスは息子の事を頼んだのであった。
「フレデリックから目をはなさないでもらいたい。
丈夫な靴をはかせてほしい。
早く寝るようにさせてほしい。
たとえ、フレデリックとけんかになっても、この三つを必ず守ってくれ」
このように、ニコラスは結んでいる。
果たして、これからのショパンの行動と生活に親の思いは届くであろうか。
ハイデルベルクはドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州北西部に位置する。
ハイデルベルク城(19世紀頃)1225年から伝わるドイツで最も有名な古城