ファンタジーをこわがる大人たち
アーシュラ・K・ル=グウィンの『ラーウィーニア』にかんする論文を書き進めているが、その参考資料となりそうな、彼女の評論・エッセイの類も可能なかぎり多く読むよう努めている。今日面白く読んだのは、『夜の言葉』(日本語訳の情報は下のリンクを参照)に入っている、「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」という文章だ。
これは、一言でいえば、ル=グウィンが想像力の重要性を説いた文章で、タイトルにある「竜」とは、想像力によって創り出される「ファンタジー」の代名詞(あるいは換喩)である。彼女によれば、「非常に多くのアメリカ人がファンタジーのみならずフィクション全般に対して否定的である」(84頁)らしく、アメリカ人には「国民的に、想像力の産物をうさんくさげな、もしくは軽蔑の目で見下す傾向がある」(84頁)とのことだ。
自身ファンタジー作家であるル=グウィンがこのような状況を見過ごすはずはなく、彼女はこのエッセイのなかでその理由を入念に探っていくのだが、まず押さえておかなければならないのが、彼女の「想像力」のとらえ方だ。次の引用をみてほしい。
“イマジネーション”と言うとき、わたしが言っているのは、知的感覚的な精神の自由なあそびのことです。あそびとはリクリエーション=再創造、つまり既知のものを組み合わせて新たなものを作り出すこと。自由とは、それが目先の実益に執着しない自発的な行為であることを指します。だからといってしかし、これはその自由なあそびが目的を欠いているということではありません。むしろ、なにを目指すかはとても大切な問題です。子どものやる“ごっこ遊び”は明らかに大人の情緒や行動の手習いとなるものです。あそびを知らぬ子どもは大人にもなれません。他方、大人の心の自由なあそびの産物が、『戦争と平和』だったり相対性原理だったりするのです。(86頁)
彼女はこのように想像力の重要性を強調し、このすぐあとには、「想像力の鍛錬は科学にとっても芸術にとっても不可欠な技巧であり、方法」(87頁)である、とも述べている。
これが前提とされたうえで、「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」の話になるわけだが、この問いにたいする彼女の答えはすこぶるシンプルだ。
[ファンタジーは]事実ではありません。でも真実なのです。子どもたちはそのことを知っています。大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らの多くはファンタジーをおそれるのです。彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭うって日々生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているのです。大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです。(92~93頁、下線筆者)
大人が「竜をこわがっている」のは、想像力―ル=グウィンの定義では「知的感覚的な精神の自由なあそび」である―からできたファンタジーがもつ、価値転倒の力に彼らが気づいているからなのだ。大人たちは、自分たちの常識がファンタジーによって破壊され、そこに「自由」が生まれてしまうことを恐れているのだ。
ル=グウィンは、もっぱらアメリカのことを念頭に置いてこのエッセイを書いているわけだが、「竜をこわがっている」のは現代日本の大多数の大人も同じだろう。彼らは、「役に立たない」という理由をつけてファンタジー(あるいは文学全般)を脇に追いやり、自分たちの常識が壊されないよう必死にネガティブキャンペーンを行っているのだ。文学研究者としての僕の仕事は、このような動きに全力で抵抗しつづけることだと思っている。ル=グウィンのいう意味での「自由」がない場所で、どうして僕たちは幸せになれるだろうか。