「月輪(がちりん)」
Facebookわたなべ こうさん投稿記事『宇宙とつながり宇宙の流れに乗る』😄
15歳の時に読んだ本がきっかけで、瞑想をするようになり、今では瞑想は私の生活の一部になりました(⌒▽⌒)
瞑想の効果はたっくさーんあります。
ココロもカラダも癒やされて元氣になり健康に良いとか、宇宙とつながってステキなアイデアが浮かんできたり、メッセージを感じられたり、感覚が鋭くなってくるとか、ただただ氣持ちがいいとか……。
瞑想は効果がたっくさーんあるので、AppleやGoogleなどの大手企業も取り入れられているそうです。
瞑想のやり方、種類もいろいろありますが、私は音楽瞑想が大好きで、ゆったりとした音楽を聴きながら瞑想をしています。
日中はゆったりとした音楽を聴きながら、雲の流れをボーと見ながら瞑想をしたり、夜はストレッチをしながら瞑想をしたりしています。
私たちは1日に六万個ほど思考していると言われていて、その思考も、過去の後悔や未来の心配に対して思考している人が多く、
そうすると、ココロもカラダもクタクタになってしまいます。
瞑想をすると、忙しい思考が緩まって、ココロとカラダがゆるゆるになり、宇宙と同調調和して、
元氣になったり、直感が冴えたり、必要なメッセージが感じられるようになったりします。
ぜひゆったりする音楽を聴きながら深呼吸をしてボーとしてみてください。
繰り返しやっていくうちに宇宙と同調調和して喜びを感じるようになって、
宇宙の流れに乗ることができるようになると思いますよ╰(*´︶`*)╯♡
https://otonamie.jp/?p=86308 【真言密教のお寺で瞑想。没入感のあるマインドフルネスは多分一生忘れられない。】より
※この記事は個人的な感想が多く含まれています。
先日、不思議な体験をした。お寺でご住職に導いていただき、瞑想を行ったときだった。
阿字観(あじかん)と呼ばれる瞑想法。真言密教のお寺の本堂に入り、椅子に座る。
手は法界定印(左手の上に右手を置き、親指と親指を軽く触れさせ卵形を作る)に整える。
お経が始まった。
今から、目の前に掛けられている阿字観の絵を自分の意識のなかに入れるイメージをする。
描かれた円は満月の輪(月輪:がちりん)。輪のなかには、清らかさの象徴である蓮華と、真言密教で万物の元を意味する「阿」の梵字。阿字観本尊の梵字は「大日如来」を表す。
まぶたの裏に阿字観の絵を焼き付ける。
ご住職のご指示にしたがいながら、目を閉じてゆっくりと口から深く息を吐く。
自分の内面の汚れを手足の先端から全身、胸、のどを通ってきた空気に込めてゆっくりと吐く。吐ききったらひと節をつけ、今度はゆっくりと鼻から息を吸う。
仏や神々、阿字観本尊から清らかさに満ちた空気を感じながら。また、自然の摂理から溢れる清浄な空気を感じながら。ゆっくりゆっくりと息を吸う。
途中、阿字観の絵が思い浮かばなくなったら半眼で目の前の軸を確認する。そしてまた目を閉じ、呼吸に集中する。これを何度も繰り返す。
後半の呼吸は息を吐くときに静かに「あー」と声を出す。
だんだんと日常と非日常の意識の境界が曖昧になってきた。阿字観の絵が自分の胸に近づいてくるのをイメージする。半眼で阿の梵字を見つめると字が立体的に見えてきた。
何度も繰り返していると、頭のなかの遠くの方でノイズのような音がしていることに気が付く。ハッと思い、目を全開に開けてしまった。
体験したことがない心地良い感覚へ没入することに、自分自身がうろたえたのだろう。
そう考えると妙に納得できて、目を閉じると瞑想に集中できた。
続いて口を閉じ、奥歯を軽く嚙み合わせ、舌先を口のなかの上にあてる。鼻でゆっくりと呼吸を続ける。阿字観の絵が自分の胸に入り大きくなるのをイメージする。
それが自分を越え、無限大に大きくなる宇宙を想像してみる。
日常では観えない自分の姿。お寺ではない、知らない空間にいるような不思議な感覚になった。最近の自分の見栄を張った行動。自分を大きく見せるための愚かな発言。虚勢を張っていたんだと分かった。近頃、時々息がしづらくなることもあった。
突然やってくる、理由がわからない漠然とした不安に怯えていたことも。
一生続く圧力があるように思えて気が滅入っていたことも。
そんな自分が、瞑想中はちゃんと正面から観えているから不思議だ。
そこにいるのは愚かさをひけらかしながら、逃げ腰の滑稽な姿勢でしか日々を生きられない自分。自分の内側に無意識に溜め込んでしまっていた何かを、意識的に吐き出す。
忙しく生きれば心に納得できていないことも溜まる。
それを消化不良のままやり過ごし、気持ちが混沌とすれば正しさを見失う。
瞑想をしながら良かったと思うことがあった。
それは、自分のなかで消化できないものが、なんとなくわかる気がしたからだ。
「脈々と受け継ぐ、ご先祖さまから繋がれきた命を感じてください」
ご住職から、そのような言葉が聞こえたときだった。普段ご先祖と聞くと、祖父や祖母の顔しか浮かばない。でも目を閉じて瞑想していると、そのもっと前、さらにもっと前から命が繋がれていたことが認識できた。
生命の誕生からずっと命は繋がっていて、今もこうして生きている。
自分と自分以外のすべての存在。
最後に、大きく広げた阿字観の絵を小さく縮めていき、胸から出して軸に戻すイメージをする。目を開けて、手で身体に触れずにお祓いをする。
どれくらい瞑想をしていたのだろう。途中から時間の感覚がわからなくなった。
心は断捨離され、視界はクリアになった。深い眠りから、心地良く目覚めた時の感覚に似ている。自分と自分以外のすべての存在が有る。
そう意識すると、自分という存在が有ることが浮き彫りになる。
そしてそれらはすべて繋がっている。
命は本来、孤独ではない。
苦しみを救ってもらえる何かがあると気が付くと、気持ちが少し楽になった。
マインドフルネスという心の整え方は、真言密教では平安時代から阿字観などで伝えられてきた。複雑な現代社会でも、先人の偉大な知恵は人を救う。
阿字観はヨガ。
ご住職曰く、怒りがすべてを壊す根源だという考え方が仏教にはあるそうだ。
自分も家族も大切な人もすべてを壊す怒り。従って瞑想で怒りを鎮め、心を平和な状態にする。忘れがちになることなので、お寺では毎日、ご作法に従ってご祈祷を行っているという。
瞑想が終わり本堂を見渡すと、荒々しい形相の神や仏が多い。
穏やかな神や仏だけでは、救えない人がいるというのが真言密教の教えで、時に鬼のような形相でないと導けない人がいるのも真実だという。
真言密教は、806年に空海(弘法大師)が唐から帰国し広めた宗派で、日本の仏教のなかでも作法や教えがインド仏教に近いこともあり、阿字観の瞑想はヨガの一部として捉えられている。弘法大師生誕1250年を記念した事業がスタート。
左:愛宕山上福院龍泉寺ご住職の岡本祐璋さん。右:丹生大師神宮寺副住職の岡本祐真さん。
今回、瞑想をさせていただいたお寺は松阪にある愛宕山 上福院 龍泉寺(あたごさん)で、導いていただいたのはご住職の岡本祐璋さん。また瞑想体験を受け付けている龍泉寺を繋いでいただき、当日もご同行いただいたのは丹生大師 神宮寺の副住職 岡本祐真さん。
今年は弘法大師ご生誕1250年で、松阪市と多気郡の真言密教系の7つの寺院が協力して「松阪七弘法巡り」がスタート。無病息災・福徳円満・諸願成就(合格祈願)をご祈祷した七福特別御朱印を用意し、すべての寺院を巡り満願された方の名前は、神宮寺大師堂にて奉納祈念される。
事務局を担当する神宮寺の岡本さんは「昨年(2022年)の12月24日からスタートしたのですが、思いの他ご参加いただく方が多くて感謝しています。地元の方なら1日で巡ることもできるので、ぜひお気軽にご参加いただければと思います」。
また寺院によっては、写経体験や阿字観(瞑想)なども予約制で受け付けている(詳しくはHPで)。真言密教系の寺院はこの辺りでは少ないが、宗派独特の明王という守護の神々、仏教を守る帝釈天や梵天などの神々、権現などの神を祀る神仏習合時代の名残も知ることができる。
龍泉寺にある梵字の曼陀羅
今回、瞑想をさせていただいた私の感想。あれから2日しか経っていないのですが、心身ともにいつになく好調であること、そしてこんなに近所で非日常体験であるマインドフルネスができることは驚きで、また何かの折にお寺に行きたいと思いました。
https://www.kongohin.or.jp/blogs/6917.html 【月が意味するもの】より
秋になるとお月見が待ち遠しくなりますね。
満月は、文字通り月に一度はみられるものなのに、なぜ秋の月がとりわけ美しく感じられるのでしょう。本来ならば星と同じように、月が最もクリアに見られるのは空気が冴え渡った真冬のはず。とはいえ、真冬の夜の寒空の下では、なかなか優雅にお月見、という気持ちにはなれませんね…。
また夏は地球の自転軸の関係で、満月が他の季節より低い位置に見えてしまうのだそうです。
そして春は霞の季節ですから、朧月夜は楽しめてもスッキリ曇りのない月夜になるチャンスは低め。
ということで、やっぱり秋の月がいちばんきれいに見える、と昔の人も感じたのではないでしょうか?もちろん、美の基準は人それぞれですが。
弘法大師は、満月を「月輪(がちりん)」と呼ぶことがあります。
太陽の「日輪」に対応することばですが、日輪に比べると月輪はやや知名度低めかも。
しかし、大師は「月輪」は菩提心、つまり、人間が誰しも心の中に持っている、悟りを求めようとする心をあらわすものだとされています。
菩提心は、「悟りを求めたい」「仏の教えを学び、実践したい」と思うきっかけになるものですから、
仏教者にとってはさまざまな心のありようのなかでも最も尊いものとなります。
修行のなかにも、自らの心を曇りなく輝く満月のように清浄である、自分と月とが一体であると観念する「月輪観」というものがあるくらい。
世の中の全ての人が満月のように美しい澄んだ心を持つことができれば、世界から争いや
諍いはすぐに消えてしまうのかもしれません。