「美」って、なんだろう
https://www.univcoop.or.jp/fresh/book/izumi/news/news_detail_652.html 【「美」って、なんだろう】より
〜大きな羊は美しい?〜
私の人生は、「美」とともにある。——なんていうと、あらぬ誤解を生むかもしれない。残念ながら私は、天才的な芸術家でも、誰もが振り返る絶世の美女でもない。では、どこが「美」なのか。端的にいえば、名前である。「琴美」という名前を授かって20年。「美」は、これまでで最も多く書いた漢字の一つであり、母の名前から姉と私がもらった一字でもある。つまり「美」は、(大げさに言うと)我が家の女性としてのアイデンティティでもあるのだ。しかし、以前からこんな大層なことを思っていたわけではない。こんな風に「美」が“ひっかかる存在”になったのには、きっかけがある。
あれは確か、大学1年生のとき。記憶が曖昧な部分もあるのだが、「美」という漢字を構造的にみると、「大きな羊」から成るという話を聞いた。また、「美味い」と書き表すように、大きな羊は、毛糸だけでなく、おいしい肉にもなると……。
——衝撃だった。「美」が大きな羊だなんて! しかも、お肉! これ以降「美」を見るたび、私の頭には、まるまると太った羊が浮かんでくるのである。また、衣食住を扱う生活文化を学んでいると、「美」を考える場面がよくあり、今回、このエッセイを執筆する機会に恵まれた。
しかし、いざ書こうとして思い知った。「美」というのは、私が語るには壮大過ぎるテーマだと。そんなこんなで、執筆依頼をいただいてから早ひと月。迫る締切を前に考えた。
これは、レポート課題ではなく、『izumi』のエッセイという特殊な場である。感覚的、主観的でも、私の考える「美」を語ってみればいいじゃないか。
というわけで、読者の皆さんは、共感できなかったり、突っ込みたくなったりするかもしれないが、温かい気持ちで読んでいただけたら幸いである。
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まず、発端となった、漢字の「美」について考えてみよう。図書館で辞典を引くと、意外なことが分かってきた。
例えば、『常用漢字コアイメージ辞典』(加納喜光/中央公論新社)は、ゆったりした羊が図形的解釈である一方で、語のコアイメージは「か細い」であると解説している。えっ、太った羊とは反対!? さらに、『常用字解[第二版]』(白川静/平凡社)は、これまた違った解説をしており、羊の上半身を前から見た「羊」に、牝羊の腰の形の「大」を合わせた、成熟して完全な羊の全体像が「美」なのだという。なるほど、漢字の解釈というのは複雑で、様々な見解があるようだ。(ここで挙げた解説は一部で、実際はもっと詳しくて面白い)
まるまる太った羊を想像して、どこが美しいんだと思っていたが、立派で見とれるような羊というのが実際のイメージに近いらしい。諸説あることも分かって、うん、ちょっと納得。
続いては、本の助けも借りながら、「美」について、あれこれ考えてみよう。
一冊目は、『黒髪と美の歴史』(平松隆円/角川ソフィア文庫)。特に注目したのは、平安時代の髪事情だ。当時、黒い長髪が美人の条件であったのは周知の事実だが、ただ黒ければ良いというわけではなかったらしい。理想の艶やかな黒髪は、「翡翠」や「カワセミの羽の青色」などに例えられている。ツヤ髪を美しいとする感覚は、現代にも共通しているが、垢抜けるためにヘアカラーをする人が多いことを思うと、美の価値観は変化している。(ちなみに、西洋では白髪が美しいとされ、小麦粉をふっていた時代がある!)さらに、長髪を維持するのは相当大変で、経済力が不可欠であった。実現する難しさというのは、古今東西「美」の重要な要素であるようだ。
二冊目は、『365日で味わう 美しい日本の季語』(金子兜太/誠文堂新光社)。この本からは、「美しい」と「きれい」の違いを考えた。それはつまり、“見出す”かどうかである。
例えば、桜の季節の曇天を指す「花曇」。気が滅入りそうな曇り空も、桜を育ててくれると考えれば、何だか愛しくなってくる。それと同時に、満開の桜への期待と、散る運命への切なさもあって……。目に明らかな煌びやかさはないけれど、見る人の心によって“見出される美しさ”。「美」は、「あはれ」や「をかし」の流れを引いているのではないかと考えた。
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以上が、「美」を巡る思考の旅の軌跡である。ずっと抱いていたモヤモヤが和らいで、「美」がより好きになった。実際は、ここに書いた以外にも、あれやこれやと考えて、上手く整理がついていないこともあるのだが、これだけ壮大なテーマだ。きっと一生考え続けるだろう。やっぱり私の人生は、「美」とともにあるのだった。
Facebook寺島 義治さん投稿記事·
やっぱり神道には「哲学」があったんだな、と思える逸話がけっこうある。
中でも「コノハナサクヤヒメ」と「イワナガヒメ」の姉妹神の話は、西洋やインド、密教や仏教に負けず劣らずの哲学があるように思う。
妹のコノハナサクヤヒメはとても美しかったが、姉のイワナガヒメのほうはブスだったそうである。
ニニギノミコト(天皇の祖先)はこの2人を妻に迎えたが、美しいコノハナサクヤヒメばかり贔屓して、結局イワナガヒメのほうは実家に送り返してしまった。
イワナガビヒメはブスなだけでなく、非常に強力な霊力を持っていて、そのすさまじさにニニギノミコトが「引いて」しまった、というのもあるらしい。
いずれにせよ、娘を突き返されたイワナガヒメのお父さん(オオヤマツミ)は、
「皇室とその子孫である人類の繁栄と長寿を願って娘を嫁に出したのに、花だけをとり、イワナガヒメを捨てた皇室と人類は、繁栄はするものの、寿命が短くなるであろう」と呪った。
このことで、無限だった人類の寿命は100年前後に縮んでしまった。
つまりコノハナサクヤヒメは「繁栄」の原理であり、イワナガヒメは「時間」の原理だったのである。ここに見られるのはまず「美の有限性」であって、とくに「きれい」「かわいい」はいずれ必ず崩壊する、という事実を説いている。
いっぽうで、ここでは「時間の強大さ」を物語っているようにも見える。
花はたしかにキレイだが、弱く、すぐに散ってしまう。
しかし、キレイとはいえないゴツゴツした岩は、数千年、数万年を経ても姿が変わらないのである。
姉妹であることから「有限と無限は存在の表裏である」というふうに捉えることもできるかもしれない。
結局、万象を確実に破壊するのは「時間」をおいて、他にはない。
古来より日本人がイワを神聖と見てきた理由は、そこに「無限性」「時間の超越」を垣間見たからかもしれない。
なお、インドの「カーリー」という女神は、イワナガヒメと同様に非常に醜悪ながら、神界随一の猛烈な霊力を持っている。
イワナガヒメとよく似ているのである。
そしてこのカーリーは「時間の神」とされている。
カーリーとは、そのままサンスクリット語で「時間」を意味する。
つまりカーリーは「永遠」を司る原理であって、だから人々は恐れつつも、この女神に長寿を願うそうである。
時間・無限 = 醜悪だが最強の存在
この概念が、インドにも日本にも見られるということである。
そしてこの概念が、女神であることも同じである。
インドでは、万象は「時間」の制約を決して逃れることはできず、「永遠」から切り離された存在と捉えた。
このことが、無限性の原理に潜むものが本質であるという発想につながっていくのである。
これがインドでは「ブラーフマン」という、形而上の概念になったそうだ。
いっぽう日本では、これを「イワクラ」という形而下の具体的な存在で象徴させた。
つまり「出力」の形式は違うものの、思考の出発点はインド哲学と同じだし、またその受け止め方も同じだったといえる。
この概念がさらに発展していけば、当然の帰結として「無常」という概念にもつながっていくはずで、もしかしたら似たような概念が、ほかの日本神話にも見出されるかもしれない。
高度なインド哲学も、元はバガヴァッド・ギーターなどの神話を哲学的に解釈するところから始まった。
だから神道に哲学がないのではなく、ただ日本人が神話を哲学的に解釈してこなかっただけ、のような気がする。
神話はただの物語ではなく、そこには日本人の根っこに潜む思考パターンが存在しているかもしれないな、と思ったりもする。
Facebook玉井 昭彦さん投稿記事 些細にこそ美しいものはある。
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(天声人語)寒露と甘露の秋
芥川龍之介が、小学2年生か3年生のときだった。かわいいと思うもの、美しいと思うものを書きなさい、という課題が出た。自伝的短編「追憶」によれば、芥川少年の答えは「象」と「雲」。先生は「雲などはどこが美しい?」と言い、×印をつけたという。
ずいぶん乱暴な先生もいたものだ。雲は美しい。特に、この季節、秋の雲は格別だ。春のかすんだ雲とも違い、夏の巨大な入道雲とも異なる。高い空に刷毛でさっとはいたような切れ切れの白い雲は、何とも爽やかである。
秋の天気はうつろいやすく、雨や曇りも多いが、それもまたいい。秋陰との言葉もある。陰った空から降る雨は静かで、しっとりとしている。
〈蘆も鳴らぬ潟一面の秋ぐもり〉室生犀星。
暦を見れば、きょうはもう二十四節気の寒露である。辞書には、露が冷気にあたり、凍りそうな秋の深まりとある。ついこの前までは酷暑の夏だったのに、曼珠沙華も慌ただしく咲き散り、駆け足の秋に気づく。
辞書の同じページには、寒露と同音の甘露もあった。甘い味の液体で、中国古来の伝説では、為政者が善政をしくとき、天から降ると言われる。はて、次の雨の日には空を見上げ、舌でも出してみようか。
「人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ」とも芥川は書く。
「雲の光、竹のそよぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事のうちに無上の甘露味を感じなければならぬ」。
とるにたらない些細にこそ、美しいものはある。朝日新聞10月8日