勝利を我らに
2019年2月17日
森下滋伝道師
哀歌5章19-22節
コロサイの信徒への手紙2章:6-15節
紀元前586年。エルサレム包囲からのバビロン捕囚。
悲しみの中にある民の叫び、うめき、祈りが込められた歌。
1963年08月28日、ワシントン大行進。
集まった会衆は歌った。
私たちは乗り越える、いつの日か。
困難の中にある者を神は捨ておくのか。
しかし、パウロはコロサイの教会がキリストに結ばれて歩むことを喜んでいる(6節)。
そして注意を喚起する。
実態の無い騙しごと、
それは流行りの哲学であり、諸霊に従う事であると。
キリストの内にこそ神の性質が体の形として充満している。
よって私たちはキリストの内において完成させられた。
充たされ続けている。
しかし私たちには肉の割礼ではなくキリストの割礼が求められている。
それは肉の体を脱ぎ捨てる事だ。
肉と体をどこで分けるのかは大変困難である。
しかしロマ書11:14でパウロが異邦人の救いに関して、
肉と表現している意味は、自分の同胞という事である。
キリストの割礼とは古い連帯から新しい連帯へと移行する事であると。
それは私たちがこよなく愛するこの世の肉の家族から
新たな神の家族へと移行する事である。
洗礼により古き連帯はキリストと共に死に、
新しい連帯へとキリストの復活の故に起き上がる。
私たちは古い割礼のみを受けて罪の中に死んでいた。
しかし新しい割礼と共に全ての罪は赦された。
キリストが自らを十字架の上でさらし者となり辱めを受けた事の故である。
そして大胆にさらし者となったキリストはこの世の支配者に公然と勝利された。
私たちは虚しい騙しごとを信じ、
肉の家族だけを愛して充たされてはいないであろうか。
信仰と聖霊の力により古い連帯から新しい連帯へと解放されよう。
その時この世の家族を真に愛する事が出来、
キリストのように愛を行いとして表現する事が出来る。
キリストの内にいる時、勝利は我らにある。