人間性心理学と禅仏教 ─成長と悟りのあいだ─(3)
目次 (太字の部分を本ページに掲載、追ってページを分けて以下を掲載していきます。本論文は雑誌等には未発表です。)
はじめに
第1章 人間性心理学と自己理論
1 人間性心理学とは何か
2 成長する力
3 自己と経験の不一致
4 自己自身になるということ
第2章 十分に機能する人間
1「十分に機能する人間」とは?
2「十分に機能する人間」と「全機現」
3 「自己理論」は「悟りの理論」たり得るか
第2章 十分に機能する人間
1「十分に機能する人間」と自己
先に触れたように心理療法家としてのロジャーズの理論の中心は、自らのセラピーの経験やその意味をどう説明し、基礎づけるかという「セラピーの理論」と、その結果としてのパーソナリティーの変化やダイナミックスをどう理解するかという「パーソナリティーの理論」とから成り立つ。この二つを基礎にしながら、セラピーによる変化や成長の行き着く先には人間のどのような姿があるのか、「サイコセラピーが最大限に成功するならば、そこからどのような特徴をもった人間が生まれてくるか」(全集12巻、63頁)という問題に答えようとするのが、「十分に機能する人間についての理論」である。 この理論は、すでに見たパーソナリティー論ないし自己理論の延長線上にあり、そこから抽出された理論的な帰結という側面をもっている。もちろんこの理論も、臨床家としてのロジャーズが観察した人間の成長の事実を基礎にしているが、一方でこの理論は、そうした成長の究極の姿、あるいはセラピーの理論的な目標点を描くこと、「人間の有機体が最高に実現された状態」(全集8巻、243頁)を表現することを目指している。
ところで興味深いのは、ロジャーズが語る「十分に機能する人間(fully functioningperson)」のあり方が、禅仏教が理想として指し示す人間のあり方と深く共通する面をもっているということである。その共通性はおそらく、ロジャーズも禅もともに自己のあり方とのかかわりにおいて、人間の人格的な変容を問題にしているという点に根差している。 ロジャーズの自己理論はすでに見た通りだが、禅仏教の立場もまた「己事究明」という表現に示されるように、自己のあり方を追求するところにその独自性がある。とりあえずこの章では、ロジャーズの言う「十分に機能する人間」が、どれほど深く根底的な部分で禅の覚者のあり方と呼応しあうかを、いくつかの禅語を引き合いに出しながら確認し、そのとき自己はどのようなあり方をするのかを両者において比較てみたい。
まずは、ロジャーズ自身の言葉によって「十分に機能する人間」の姿をまとまった形で紹介しておこう。 「クライエント中心療法を理論的に考えて最大限に経験して生まれてくる人間は、十分に機能している人間のように思われる。彼はあらゆる感情や反応の一つ一つを十分に生きることができる。彼はできるだけ正確に内外の実存的状況を感じとるために、彼のあらゆる能力を使っているのである。彼は神経組織が提供するあらゆるデータを利用しているのであり、それを意識化しているが、彼の全有機体が彼の意識よりも賢明であるかもしれないし、実際に賢明であることを認識している。」(全集12巻、74頁)
「彼はすべての感情を経験することができるし、どのような感情をも恐れてはいない。彼自身が証拠のふるいわけをするが、しかしあらゆるところからくる証拠に開かれている。彼は自分自身であり、自分自身になろうとするプロセスに完全に没頭しており、かくて自分が健全でかつ現実的な意味で社会的であることを発見する。彼はこの瞬間に十分に生きているが、こうした生き方がいつまでも最も健全な生き方であることを学びとっている。彼は十分に機能している有機体であり、彼の経験を自由に反映する意識によって自由に機能している人間になるのである。」(同上)
繰り返すが、ロジャーズが「十分に機能する人間」という仮説を導き出し得たのは、自己構造の弛緩や崩壊とその再体制化による成長の過程を理論的に究極の姿まで追求することによってであった。つまりそれは、強固に体制化されていた自己構造が、かぎりなく柔軟で流動的な構造へと変化し、新しい経験にかぎりなく開かれていくプロセスの理論上の終着点であった。そのとき彼は、自己自身が「いのち」として経験していることのすべてを意識に受け入れて十分に生きることができるようになり、また瞬間瞬間を新しい状況として生きるようになる。つまりロジャーズの心理療法の実践と理論は、つねに自己のあり方を問い、自己構造が変容する過程に人間の心理的な成長を見たのである。
「十分に機能する人間」のあり方をさらに整理したかたちで示すと次のようになるだろう。ここでは自己構造との関係がより明確に示されている。
1)彼は自分の経験に開かれている。
2)そのためすべての経験を意識の上で気づく可能性がある。
3)彼の自己構造は経験と一致する。
4)彼の自己構造は流動的なゲシュタルトとなり、新しい経験を同化する過程で柔軟に変化する。 5)彼はいろいろな状況に出会って、そのときどきの新しさに対する独特の創造的な適応をしていく。(全集8巻、244頁) ☆
ところで禅仏教もまたひらすら自己を問う。その大きな特徴は、意識的かつ徹底的に自己を究明するところにある。もちろん禅に限らず仏教そのものが「転迷開悟」を標榜する以上、迷いの根源である自己をつねに何らかのしかたで問題する。しかし、禅の禅たるゆえんが何にもましてひたすら「己事究明」を実践することにあるのも確かだ。
もちろんここで言う「己事究明」は、自己を理論的に探求することでもなければ、閉鎖的になった自己意識が、果てしなく自己を問い続けて堂々巡りの悪循環に陥ることでもない。逆にそれは、狭い自己へのとらわれからも脱して、自身をその本来の、ありのままの姿において知ろうとする道を示す。日常的な小さな自己という殻を打ち破って自己の存在の本性、自己「本来の面目」を見通す道である。別の言い方をすれば、それは自己によって毒される以前の「生命の泉」からじかに水を飲むようなあり方であり、さらには、自己というレンズに曇らされずにものの真実の姿(如性)を覚知することである。
もちろんロジャーズのいう「自己」は、その理論の中心概念として学問的に厳密に規定されている。禅で語られる自己は、そのように学問的に概念規定されて用いられているわけではない。むしろ両者はまったく異なる文化的背景、異なる含意のもとに用いられているのかも知れない。しかし一方ロジャーズは、豊富な臨床経験のなかで多くのクライエントが変化していくのに接し、その変化のプロセスをもっとも適切に説明しうる理論として「自己」理論を打ち立てたのである。つまり彼の「自己」理論は、心理的不適応に陥った人間、すなわち迷える人間が変化し成長するという事実に根差し、「自己」はクライエントが迷いから少しでも自由になっていく過程を適切に説明するための概念だったのである。
そして、時代や文化を超えて人間が迷うという事実があり、その迷妄の根底に、もし自己への執着が横たわっているなら、ロジャーズが見ていた人間の迷いと、仏教でいう人間の迷いとは、それらの根差す根元は同じだったと言えるのではないか。ロジャーズも禅も、自己に執着するがゆえの人間の迷妄という同じ事実を見ていたのではないか。両者とも、迷妄の根源を自己に見、そして自己へのとらわれから自由になる方向に人間の成長を、あるいは悟りを見ていたのではないか。
とすれば、「自己」構造がかぎりなく柔軟化していく方向は、禅が「己事究明」によって自己の殻を打ち破り、「本来の面目」を徹見していく道とどこかで重なっていると言えるのではないか。 鎌倉仏教の代表者のひとりであり曹洞禅の創始者である道元に、「仏道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」(『正法眼蔵』「現成公案」)という有名な言葉がある。ここで道元がいう「自己を忘るる」という言葉を、ロジャーズのいう自己構造の柔軟化の過程と比較して考える見ることは、少なくとも無意味ではないだろう。
心理的不適応に陥っているかどうかは問わず、われわれ「普通の」人間は誰しも、程度の差はあれ自己構造が多かれ少なかれ強固に体制化されてしまっており、自己構造と対立したり矛盾したりする事実を何がしか無視したり歪曲したりして知覚し、そしてそれらに脅威を感じたり、攻撃的になったりして対応しているであろう。自己概念と経験との間にずれがあり、それに気づかぬまま自己を守ろうとするから、つねに多少とも不安で傷つきやすく、脅えているのである。そしてこれが、まさしく仏教でいう「凡夫」のあり方なのではないか。少なくともその一面であるとは言えるのではないか。
それに対し、自己構造がかぎりなく柔軟で流動的な構造へと変化し、かぎりなく経験に開かれていくとき、自己への執着はうすれていく。ロジャーズ自身の言葉を用いれば「あらゆる経験が自己との関係において同化されて自己構造の一部となるとき、個人の側における“自己意識”と呼ばれるところのものより少なくなるようである。」(全集8巻、113頁) そして“自己意識”がより少なくなる過程とは、固定化された自意識にしばられずに、自分の全体的、有機体的な反応により信頼を置くようになる過程である。ロジャーズの自己理論は、「自己」に縛りつけられて迷妄の淵に沈んでいる人間が「自己」から少しでも解放されて成長していく過程を、臨床的な実践に即して理論化したものだと言えよう。その過程は、道元の「自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」という言葉と、少なくともなにがしかの共通点も持っていると言えないだろうか。
2 「十分に機能する人間」と「全機現」
さて、宋代の禅師、圜悟克勤(えんごこくごん)は、「生也全機現、死也全機現」と説いたいう(圜悟語録十七)。「全機現」とは、「全機関現成」の略語である。すなわち生命の全機能をあげて十分に生きよ、自己本来の「いのちの働き」を十全に開花させて生きよ、ということであろう。 とすれば、禅語の「全機現」とロジャーズの「十分に機能する人間」とは、偶然にもまるで一方が他方の訳語であるかのように互いにぴったりと呼応しあう。また、この「全機現」に通ずる禅語に「全体作用(さゆう)」がある。小さな自己への囚われから自由になって、「真の自己」、真の主体として踊り出ることである。だとすれば、ロジャーズの「十分に機能する人間」と禅の「全機現」・「全体作用」とのあいだには言葉の上での類似だけではなく、両者が指し示す人間のあり方にも深く共通するものがあるとは言えないだろうか。
このような対応を念頭において、さらに「十分に機能する人間」のあり方を三つの側面にわけて見ながら、そのそれぞれが禅的人間のどのようなあり方と通じあうのかを検討していこう。
1.「十分に機能する人間」は、自分の経験に開かれている。それは防衛とは正反対の極にある。防衛とは、自己構造と矛盾していると知覚したり、潜在知覚(予感)したりしている経験に対する有機体の反応であった。そのように自己概念の修正をもたらすような脅威に対して人間は自己自身を防衛するのである。 逆に「自分の経験に開かれている人間の場合には、有機体内部にあるいは環境から起こってくるすべての刺激は防衛機制によって歪曲されることなく神経組織をつうじて自由に中継されるであろう。」(全集12巻、66頁) 彼は、自己のすべての経験や感情を率直に正確に意識し、「彼の自己の構造は流動的なゲシュタルトになり、新しい経験を同化する過程において柔軟に変化するであろう」、すなわち、自己構造は経験とかぎりなく一致していくのである(全集8巻、244頁)。
彼は、自分自身が「いのち」として経験していることのすべてを意識に受け入れて、十分に生きることができるようになるのだ。
この点は、禅者のどのようなあり方に対応するであろうか。江戸時代の禅師、至道無難の歌に、「主なくて、見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり」というのがある。「主なくて」とは、自己がない、エゴがないということ。その自己へのとらわれから自由な視点で一切を見聞きし、経験することができれば、そういう人をこそ「生き仏」という。禅師はまた、「主ありて、見聞覚知する人は、生き畜生とこれをいうなり」とも歌う。逆に、自己にとらわれ、我執にがんじがらめになって、自分中心にしか見れないものは、「生き畜生」といわれるのだ。維摩経入門109(4)
さらに禅師には次のような言葉もある。「おのれを以て、人を見るものなり。愚人の見るはおそろし。おのれに利欲あれば、人をもその心を以て見るなり。色ふかきは、色を以て見るなり。聖賢の人にあらざれば、見る事あやうし。」仏陀が見たもの112(5)
これは、自己が何かに囚われていたり防衛的であったりすると、その囚われを投影して相手を見てしまうということだろう。たとえば防衛が強く、他者に攻撃的な人は、他者の何げない言葉をも逆に自分への攻撃として受け止めてしまう。自己への囚われが強いと、すべてのそのフィルターで歪めてしまい、真実の姿が見えて来ないのだ。そして、ブッダ(目覚めたもの)とは、そうした自己への囚われから自由にすべてを真実の姿において見聞覚知することができるもののことなのだ。こうしたあり方は、禅にかぎらず、仏教の神髄に通ずるものといえよう。
だとすれば、ロジャーズのいう「十分に機能する人間」、「自分の経験に開かれた人間」、つまりは経験のすべてを自己防衛というレンズ(虚妄分別)で歪めずに、その真実の相(如性)において覚知できる人間は、かぎりなくブッダに近い人間であると言えないだろうか。
2、次に「十分に機能する人間」、すなわち自分の経験に十分開かれていて、防衛のない人間にとっては、「瞬間瞬間が新しい状況」(全集12巻、69頁)として生きられるだろう。彼は、それぞれの瞬間を十分に生きることができ、さらに「いろいろな状況に出会って、そのときどきの新しさに対する独特の創造的な順応をしていく」(全集8巻、244頁)ことができると考えられる。
今が、過去への囚われや後悔によって歪められず、また未来への不安や心配によって押しつぶされずに、一瞬一瞬がありのままの十全な姿において経験されるのである。「このように瞬間に生きるということは堅さや強固な組織や経験に構造をおしつけるということがないことを意味している。そうではなく、最大限の融通性とか、経験の中に構造を見つけるとか、自己とパーソナリティーの組織をたえず変化させていくことを意味しているのである。」(全集12巻、71頁) これはロジャーズ自身が言っていることではないが、自己概念とは結局、過去への囚われと未来へのはからいによって形作られているのではないか。人は、自分の特性や能力などを暗黙のうちに言語化することによって自己概念を形成する。
たとえば、「私は、意志が強い」「短気だ」「人望の厚い上司だ」「良き夫だ」等々というふうに。そして、もし自己概念が言語によって織り上げられた産物であるのなら、それは同時に「過去」と「未来」によって織り上げられた産物でもあるのだ。自己概念は、自分の「過去」のさまざまな経験や人間関係の蓄積をもとに世界と自分との関係を言語化することにっよって形成される。さらに、その自己を通して世界を見、「未来」への企てを試みる。それゆえ悩みとは、つねに「過去」と「未来」に関したものだ。
そして、自己という奇妙な織物を持った、人間という生き物だけが、「過去」の行いを嘆き、その「未来」の結果を恐れるのだ。言語を持たず、それゆえ自己概念をも持たない動物たちは、過去の自分の行為を恥じたり、将来の自分に不安を感じたりはしない。幼な子は「過去」も「未来」も知らない。
人は、自分が産みおとされた社会の人間関係なかで自己概念を織り上げる。そして、織り上げられた自己を通して、さらに「過去」と「未来」を織り上げる。自己概念がなければ、「過去」も「未来」も生じないし、来し方・行く末を思い悩むこともない。自己の織り上げ具合によっては、「過去」も「未来」もばけもののように肥大化して逆に自己を縛り、悩ます。自己というフィルターを通して現実はあれこれに規定されるが、それは同時に「過去」と「未来」というフィルターを通して現実をくまどるということだ。別の言い方をすれば、硬直化した自己概念から解き放たれない人間は、現実をそのままの姿において受容することはできず、「過去」や「未来」への自分なりの囚われを通して現実を歪曲してしまうのである。 では逆に自己概念が、かぎりなく柔軟に再体制化されていくと、どのような現実が出現するのか。世界を強度なレンズで歪めてしまっていた固い自己概念から解放され、それゆえ「過去」や「未来」の幻影からも自由になったとき、ひとは純粋な「いま」を生きることになるのだろう。瞬間瞬間が、過去にも未来にも毒されないつねに新しい状況として十全に生きられれば、現在の瞬間は時のない瞬間であり、時のない瞬間は過去も未来も、以前も以後も、昨日も明日も知らない「永遠の今」なのである。「永遠」とは、無限に連続する時間のことではない。「過去」や「未来」に犯されない純粋な「今」、絶対的な現在のことらしいのだ。十分に機能する人間は、このような瞬間を生きるのだろう。
以上のような生き方は、そのまま禅の覚者の生き方である。禅では、このような生き方を「前後截断」という。また「即今、目前、聴法底」(臨済禅師)ともいう。前後を截断して絶対現在になりきり、そこに全生命を最高に発揮する生き方。過去と未来を断ち切って、端的に今ここになりきる生き方。今ここという一点にこそ生命を全機現せよという生き方。
現代の優れた禅者の一人、大森曹玄は次のようにいう。「禅は過去という死んだ時の中に、生命の亡骸を反省することでもなければ、未来という幽霊の中に生命を模索することでもあるまい。即今・眼前、いま、ここに全生命を完全燃焼させて、時ぎり、場ぎりに全体作用するものが禅だとわたくしは信じている。しかも前後を截断した現在は、現在でありながら時を越えている。したがって、過去と未来を切って捨てるとき、かえっていわゆる『三世古今、始終当念を離れず』という言葉のように、対立を絶した永遠なるものに当面するのである。」(6)
3、最後に「十分に機能する人間」は、自分の意識的な思考よりも全体的、有機体的な反応や直感的な知恵をより信頼する人間である。全体的で有機体的な仕方で機能しているとき人間は、固定化された知識や自意識にしばりつけられていない。「この仮説上の人間は有機体が個々の実存的状況において最も満足すべき行動に到達するためには、自分の有機体が信頼すべき手段であることを発見するだろう。彼はまさにこの瞬間に“正しいと感じられた”ことをするであろうし、そうすることは一般的に行動を導く有能で信頼できるガイドであることに気づくであろう。」(全集12巻、71頁) そして、このうように意識だけではなく有機体の全体的反応を信頼するということは創造性と密接な関係がある、とロジャーズはいう。(全集12巻、96頁) ロジャーズは、自分の有機体的な反応を信頼する態度についてはとくに、道教や禅という東洋思想の核をなす英知に通ずるものがあると、自ら指摘している。「真の心は無心である」(the true mind is no mind)という東洋的な思想は、ロジャーズが言わんとすることと同じことを表現しているというのである。(全集12巻、97頁)
では、禅は「無心」をどう捉えるのだろうか。鈴木大拙は、沢庵和尚が柳生但馬守に送った書簡『不動智神妙録』に言及して、そこに語られる禅の精神を次のように説明する。
「この精神は、彼の心が生命それ自体の原則と完全に共鳴したときにのみ、すなわち『無心』として知られる『神秘的』な心理状態に達するときにのみ、把握される。‥‥‥無心はある点において、「無意識」の概念にあたると見てよい。心理的にいえば、この心の状態は絶対受動のもので、心が惜しみ無く他の『力』に身をゆだねるのである。この点で、人は意識に関するかぎりいわば自動人形なるのである。しかし、沢庵が説くように、それは木石などの非有機的な物質の無感覚性および頼りない受動性と混同してはならぬ。『無意識に意識すること』──この目もくらむばかりの逆説以外に、この心理状態を叙述する道はない。」 (7)
鈴木大拙はまた、別の箇所で次のようにもいう。 「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛から自由への道を指し示す。われわれ有限の存在は、つねにこの世の中でさまざまの束縛に苦しんでいるが、禅は、われわれに生命の泉からじかに水を飲むことを教えて、われわれを一切の束縛から解放する。あるいは、禅は、われわれ一人一人に本来そなわっているすべての力を解き放つのだということもできる。この力は普通の状況では、押さえられ歪められて、充分な働きを発揮する道を見いだし得ないでいる。」(8)
ここで鈴木大拙が「心が生命それ自体の原則と完全に共鳴した」状態と表現し、「生命の泉からじかに水を飲むこと」と表現するものは、ロジャーズが「全体的、有機的反応への信頼」と表現する状態ときわめて近いとは言えるだろう。また大拙は、束縛からの自由とは「われわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせること」(9)だと言い、何人の内にも隠されている神秘的な力を目覚まして、その創造力を発揮するのが参禅の目的だと語る(10)。 つまり、「無心」は創造性の源泉なのであり、この点もロジャーズが言う「十分に機能する人間」の特徴と共通する。
さて、以上で「十分に機能する人間」のあり方を三つの側面にわけて、そのそれぞれを禅的人間のあり方と比較した。全体的な印象として両者に深く通じあうものがあることは誰も否定できないだろう。 しかしだとすれば、ロジャーズが心理療法の極限に出現するはずのものとして描いた「十分に機能する人間」は、そのまま禅の覚者の姿、悟りを開いた者の姿であると言ってよいのか。禅は、ロジャーズの理論で説明尽くされるのか。この問題を問うのがわれわれの次の課題である。
注
(1) ロージャズ全集・第8巻 『パースナリテイィー理論』(伊藤博編訳、岩崎学術出 版社、 1967年)、 177頁。以下ロージャズ全集からの引用は、本文に以下の例のよ う略記する。(全集8巻、177頁)
(2) ロージャズ全集・第12巻 『人間論』(村山正治編訳、岩崎学術出版社、1967年)
(3) 『自己意識の心理学』(東京大学出版会) 63頁および81頁参照。
(4) 日本の禅語録・第15巻 『無難・正受』(市原豊太著、講談社、1979年) 214頁。
(5) 同上、60頁。
(6) 大森曹玄 『剣と禅』(春秋社、1973年) 22頁。
(7) 鈴木大拙 『禅と日本文化』 (岩波書店、1940年) 69~70頁。
(8) 鈴木大拙 『禅』 (筑摩書房、1965年) 42頁。
(9) 同上、 42頁。
(10) 前掲、 『禅と日本文化』 160頁。
(11) ロージャズ全集・第4巻 『サイコセラピーの過程』(伊藤博編訳、岩崎学術出版社、 1966年)、 119~120頁
(12) 前掲、 『禅と日本文化』 161頁。
(13) 久松真一「悟り(二)――後近代的人間像――」(『講座禅・第一巻・禅の立場』 西谷啓治編、筑摩書房、1967年所収) 01/03/11
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