「心身一如」と教育観の変革
1.近代主義的教育観とその克服
端的に言って、現代日本の教育制度の暗黙の前提となっているのは、西欧の近代主義的な人間観であろう。そこでは精神と肉体とは二つに分断され、しかも人間の精神の働きは、理性的・知性的側面のみを極端に偏重するかたちで把えられている。そうした人間観と根を同じくするところ(デカルト的な精神-物質二元論)から近代科学が生まれ、巨大な成果をあげたが、同時に多くの「ひずみ」も生まれた。そうした「ひずみ」を生みだす根となる近代主義的な人間観の問題点を克服しようとする試みは、近年、当の西欧でも様々な分野で行われるようになった。
たとえば心理学の分野で言えば、アメリカの心理学者かつ思想家であるケン・ウィルバー等を中心として理論化されたトランスパーソナル心理学は、東洋の行法や宗教と西欧の心理学とを包括する形で近代主義的な人間観を乗り越 えようとする、極めてすぐれた試みであるといえよう。
たとえばまた医学の分野で言えば、近代主義的な人間観に立つ西洋医学は、人間の肉体を精神とは独立した生理-化学的なメカニズムとして把え、その病理を解明し、治療の技術を発達させた。その成果には驚くべきものがあるが、同時に各々の専門分野に限りなく細分化されて行く近代医学には、心をも含めた全体としての人間がますます見えにくくなっている。最近ようやく市民権を得つつある「心身医学」や、より広い視野に立つ「ホリスティック医学」は、そうした近代医学の欠陥を乗り越えようとする一つの試みであると言えよう。
心身医学やホリスティック医学、さらにはトランスパーソナル心理学などが、非西洋的な文明の伝統から多くを学びつつ、近代主義的な人間観を乗り越えようとしているのと同様の試みが、日本の教育界においてもなされるべきではないか。そうした試みの過程で根底から問い直さなければならないのは、心身を二元的に分断する人間観に立った教育制度、しかも「心身」のうちの「心」において、知的な能力のみを極端に重視する教育観に立脚した教育制度でり、カリキュラムであう。
近代主義的人間観の上に立つ教育には、人間の精神的成長を促す方法論の上で二重の欠陥が隠されている。一つは、知性を偏重するあまり単なる知性の枠をこえた精神の発達 を援助するための具体的方法論が決定的に欠けていること。もう一つは、心身を分離するあまり「心身一如」の立場から心の成長を促すような具体的訓練法がほとんど視野に入ってこないこと。もちろんこの二つの欠陥は、互いにほとんど表裏をなす関係にある。当面われわれに必要なことは、近代主義的な人間観のこうした欠陥を克服する新しい教育理論と成長理論、及び方法論を打ち立てることであろう。
2.東洋の行法と西洋の心理療法
その際、思い起こすべきなのは、現代日本の公教育のなかではほとんど無視され、忘れ去られてはいるが、われわれ自身の伝統に深く根差した人間観や方法論である。われわれ自身の伝統に根差した行法の代表的なものとしてはたとえば「座禅」が挙げられるが、こうした仏教の行法と同じ源流から生まれたインドの「ヨ-ガ」や中国の「気功法」にも多くの学ぶべきものがある。
これらの行法に共通しているのは、からだを調えること(調身)と心を調えること(調心)とが不可分に結び付いているという認識である。呼吸を調えつつ(調息)、からだを調えることが、人間の心の成長を促す行法にとって欠くことのできない前提となっているのである。
心身医学やトランスパーソナル心理学が開発した療法に は、こうした方法から多くを学び、さらにそれを現代人に受け入れられやすい形に発展させたものも多い。しかも、それらの多くは、心身両面を癒すばかりでなく、心の成長を促す力をも持っていると言われる。
たとえば、心身医学で用いる代表的なセルフコントロール法に自律訓練法がある。ドイツのシュルツがヨーガの行法にヒントを得て開発した、一種のリラクゼイション法である。言葉(ときにイメージ)による自己暗示(「手足が温かい」等)によりからだ(自律神経系を含む)をリラックスさせ、それによって心をリラックスさせ、結果的に自律神経系やホルモン系の働きを調整し、さらには自然治癒力を高めるという方法である。つまり心(言葉やイメージ)によってからだを、からだによって心を、相互にコントロールしつつ、心身の安定を導こうとするのだ。ストレスによる心身症等にも効果があるが、都内の小学校のあるクラスの生徒たちに一定期間この訓練を続けさせたところ精神が安定し、集中力が付き、成績も向上したというデータもある。
これは、座禅や気功でいう「調身」「調息」「調心」がきわめて実践しやすく体系化されたセルフコントロール法であり、一種の初歩的な瞑想法であろう。問題なのは、こうした例に見られるような、極めてすぐれた心身の訓練法が、学校教育の現場ではほとんど無視されているという現 実だ。
現在、東洋の行法と西欧の心理療法とを統合するようなかたちで、心身の成長や解放を援助するさまざまな療法( セラピー)が開発され、公教育の現場以外のところでは( 例えば企業内の研修や、商業化された「自己開発セミナー」等として、一部は歪んだかたちで)多くの人々の関心を集めている。今のところ、それらは玉石混交だろうが、人間の成長を援助する方法として無視できない大きな流れを作りつつある。公教育の世界が、こうした潮流にほとんど無関心なのは、教師たちが、近代主義的な人間観・教育観にしばりつけられ、そうした前提にたつ教育制度にがんじがらめになっているからだろうか。しかし、そのあいだにも、生徒たちの心は深いところで病み、不登校や無気力、そしてさまざまな非行や暴力が増えて行く。
トランスパーソナル心理学は、人間のこころの成長を一種のスペクトルとして把える。つまり、様々な精神病理的な状態から健全な自我の発達へ、さらには自我を超えた宗教的な覚醒へという心の成長が光のスペクトルになぞらえて理解され、そのそれぞれの段階に対応するものとして従来の様々なセラピーが位置付けられる。それらは、実存・人間性セラピー(来談者中心療法、ゲシュタルト・セラピー、バイオエナジェティックス等)から受け継いだものも多いが、古代から伝わる様々な宗教的修行を心理学の成果をとり入れつつ誰にでも体験できるように再編したものも多い。時に応じて座禅やヨーガ、大極拳なども行われる。
こうした新しい展開をみせる西洋の心理療法や、古来からの東洋の行法を、日本の公教育のなかでどのように活かすことが可能かという問題についての論功は別の機会に譲ろう。ここでは最近注目を浴びつつある「気功法」について心身の成長を促す方法という観点から簡単に触れて見たい。
3.「気」と「心身一如」の方法論
気功とヨーガの共通点として興味深いのは、いずれも一つの修行の体系のなかで健康法と精神的な修行法とが不可分に結びついていることだろう。ヨーガは一種の健康法であると同時に精神を深く安定させる作用をもつ。さらに精神的な覚醒をめざす高度の瞑想法もその体系のなかに含まれる。気功も日本では健康を高める効果のみが注目されるが、実はそれが最終的にめざすものは、仏教の空や道教の無と何ら変わらないと言われる。座禅は精神的な覚醒をめざす行法だが、健康法としての効果もある。いずれにせよ、近代主義的な人間観では一つに結びつくはずのない身体の治療と心の成長とが、ここでは一体となっている。それが人間の「自然」だからであろう。まさに「心身一如」の方法論なのである。
さらにヨーガ・気功・座禅のいずれにおいても、呼吸法が極めて重要なはたらきを担っている点は、やはり注目すべきだろう。呼吸法、すなわち「調息」の訓練は、「調身」と「調心」を結ぶ重要な役割を果す。呼吸は、通常は意識によるコントロールを離れて行われているが、意識によってコントロールすることもできる。それゆえ、心の訓練とからだの訓練を結びつけるための中心的な役割を果す。新しく開発された西洋の心理療法でも、呼吸法が極めて重要な役割を果すものがいくつかある(例えばホロトロピック・セラピー等)。
さて以上で、気功と他の東洋の行法との共通点をみた。これらの行法と、日本の学校で行われる「ラジオ体操」との違いを考えてほしい。「ラジオ体操」ほど、近代主義的な身体観によっ骨抜きにされた味気無い代物もない。単なる筋肉・関節の機械的運動と、呼吸・動作・心の持ち方が一体となった行法と‥‥。
さて次に、気功法が他の行法に比べて教育的にすぐれた点を見てみよう。気功法が他とくらべて際立っている点は、「気」という一種の生命エネルギ-を感じとったり、それを循環させたり、強めたりすることが、ごの行法のかなめになっていることだろう。
「気」とは何かという問題については、現在のところ諸説紛々で、研究者のあいだに共通の理解があるわけではな い。しかし、気をどのように理解するにせよ、人間の成長を促す方法という観点から貴重なのは、誰でもちょっとした訓練で比較的簡単に気を実感することが出来るということだ。この実感こそが、学ぶ者の大きな励みとなり、また修行の目安ともなる。自分の気が少しづつ強くなったり、質的に高まったりする、日々に新鮮な感覚を頼りにしながら、修行者は精神的な成長や覚醒へと導かれて行く。気功法が「インデックスつきの禅」と呼ばれる所以である。
気の感覚は、大人よりも 心が柔軟なだけ子供の方がつかみやすい。しかも行法に多くのバリエイションがあり、気軽に入りやすい。この点も教育的観点からすぐれた方法といえるだろう。
気は、ある種の物質的な実体感をもって両手の間を行き来したり、からだのなかを循環したりするが、同時に心の作用に強く影響される。それ自体が近代主義的な人間観や科学の枠組を越える性質を担っている。気によって「心身一如」が実感として体得される。また気の感覚が深まれば、自分の周囲のひとびとや樹木など、生きとし生けるすべていのちとの気の交流をすることが出来るようになる。それは、地球上のあらゆる生命や自然、さらには宇宙全体と「 ひとつらなり」である自分自身の発見にもつながって行く。
呼吸とからだと心が一つに結び付いた修行法を通じて解 放されるのは、心の奥底に抑圧されて窒息しそうになっていた諸々の感情であり、身体に生き生きと脈打っていた気の感触であり、気を通じて宇宙につらなる生命の感覚だろう。
しかし、こうした心身の解放と精神の成長を促す、すぐれた方法の数々が、現代日本の公教育のなかで受け入れられて行くためには、なお多くの努力が必要だろう。日本の教育制度が暗黙のうちに前提としてしまっている近代主義的人間観を切り崩して行く理論的な努力と、教育の現場で少しでも「心身一如」の教育観を実践的に検証して行く地道な努力とである。