和の文化
Facebook成願 義夫さん投稿記事 🔴『阿吽』
一対の鶴を描く場合はくちばしを閉じた鶴と開いた鶴を描くのが伝統的な決まりごとです。
それは『阿吽(あうん)』を表します。
伝統的なしきたりが伴う場面や用途、例えば、留袖のデザインや結婚式の引き出物のデザインなど、ただ単に「鶴を描けばおめでたい」と思うのは、「間違いではないが、残念」と言わざるをえません。
日本の伝統は型の伝承です。しかもそこには深い意味が込められています。
様式美として完成された美と図柄に込められた意味の奥深さを知ることが重要です。
このような日本のデザイン分野の『伝統的しきたり』や『型』を学べる場は極めて少ないです。
最近、呉服業界も「ユーザビリティーの追求」が浸透し、商品開発やデザイン企画に若い女性の活躍の場が増えてきました。
それはとても歓迎されることではありますが、その影響として、これまで日本人が継承してきた「しきたり」や「型」、さらに歴史的背景を無視するとんでもないデザインを時々目にすることがあります。
知識があっての型破りはイノベーションには必要ですが、無知故の発想は本当に痛々しいです。
例えば数年前、花札を散らした図柄の振袖を見ました。
花札は元々江戸時代の裏社会の資金調達の道具として生まれたもので、幕府の賭博禁止令を逃れるために、数字を描かない花の絵札として作られたものです。
そのような歴史と意味があるものを式服の祝い着の柄として相応しいかどうかは、いうまでも無いと思います。
消費者の無知は許されますが、作る人、売る人、サービスを提供する人の無知は許されません。
さらに上質な商品やサービスを生み出す為に必要なセンスは知識がなければ磨かれないことを知っていただきたいです。
コンセプター 伝統デザイン研究家 デザイナー 成願義夫
https://housenji-zen.jp/monosiri031/ 【阿吽(あうん)の呼吸】より
日常会話で「阿吽の呼吸」という言葉を聞いたことのある人は多いと思います。二人以上で何かをする時に、絶妙なタイミングで間合いがぴったりあい、お互いの呼吸があっている状態のことを言います。
ただ「阿吽の呼吸」の意味は知っていても、「阿吽」とは何かを意識して、この言葉を使っている人は少ないと思います。
「阿吽」とは、インドの古代の言葉であるサンスクリット語に由来があります。
「阿吽」の「阿」は、サンスクリット語における最初の文字であり、「吽」は最後の文字です。そのため、密教では、「阿吽」を、万物の始まりと終わりを象徴するものとされ、「阿吽」という言葉自体に霊力があり、唱えることで祈りが通じるとされてきました。
お寺の山門の左右に、仁王像が二体安置されていることがありますが、一方の仁王さまは口を開けた怒りの表情、もう一方の仁王さまは口を閉じて怒りを秘めた表情をしています。怒りの表情をしている仁王さまは「あ」という言葉を発している口の形をしていて、怒りを秘めた表情の仁王さまは「うん」という言葉を発している口の形をしています。
つまり二体の仁王さまが組で「阿吽」、すなわち万物の始まりと終わりを象徴すると考えられているのです。
そのため口を開けた仁王さまは「阿形像」、口を閉じた仁王さまは「吽形像」と呼ばれています。
二体の像の口が「阿吽」の形をしているのは、仁王像だけでなく、金剛力士像でもよく見られます。また神社の狛犬の口も阿吽の形をしていることが多く、仏教の影響が神道にまで浸透していることがわかります。
「阿吽の呼吸」という言葉は当初、息を吐く時に口が「阿」と言っている形になっていて、息を吸って口を閉じる時に口が「吽」と言っている形になっていることをから、息を吸って吐くことという意味で使われていました。
それが現在使われているような意味で使われるようになったのは、実際に、お互い息を吸って吐く呼吸をあわてタイミングをはかることが少なくないことからであります。例えば相撲の立ち会いでは、二人の力士が息を吐いた後、息を吸った状態で止めて、タイミングをあわせているそうです。
そうした状況でタイミングを合わせることことから、息のあった行動を「阿吽の呼吸」と言うようになったのです。
Facebook今野 華都子さん投稿記事【親との関係を癒す、量子的むすひ 】
私たちの心の奥には、過去の出来事の“残響”が、まるで消えぬ音のように響き続けていることがあります。たとえば親との関係。
子どもの頃に受けた厳しい言葉、理解してもらえなかった寂しさ、あるいは怒りや恐れで押し込めてきた感情。それらは時間が経っても消えることなく、私たちの無意識の中で「量子的なもつれ」のように今もなお、エネルギー的に繋がっています。
「量子のもつれ」は心の中にも起きている」
量子の世界では、ひとつの粒子が離れても、もう一方と“見えない絆”で結ばれ、どちらかが変化すれば、もう一方にも影響が及ぶといわれます。親との関係もこれによく似ています。
たとえ物理的には離れていても、意識のレベルでは常に影響し合っている。
だからこそ、「あの時の言葉」や「態度」が、今になっても心を揺らすのです。
それは「未完の対話」まだ終わっていない“魂の会話”が時を越えて続いている状態です。
対話が「観測」を変える
では、どうすればそのもつれをほどけるのでしょうか。
それは、相手と向き合うことでもあり、同時に自分の内なる声と対話することでもあります。
たとえばこんなふうに問いかけてみます。
「あの時の私は、何を感じていたのだろう?」
「あの時の親は、どんな不安を抱えていたのだろう?」
「今の私は、どんな視点からその出来事を見られるだろう?」
過去を新しい意識で「観測し直しみます。親もまだ未熟者で愛し方が分かってなかった。
量子論では「観測が現実を決める」と言われます。
同じように、私たちの意識が変わると、過去の出来事の「意味」そのものが変わるのです。
かつて「理解されない」と感じた体験が、親も子育てに不器用な愛だったのかもしれない」と見える瞬間、現実の周波数が変わり始めます。
もつれが「むすひ」へと変わるときそのとき、心の中で長年封じてきた怒りや悲しみが、
ようやく「抱きしめられる」ようになります。
「赦す」というより、自分の一部として取り戻す。
親の未熟さも、あの時の自分の涙も、すべてを包み込んで「それも私の一部」と受け入れる。
それは、断絶していた愛のエネルギーが再び流れ出す瞬間です。
まるで分かたれた粒子が再び重なり合うように、もつれが“むすび”へと転じる。
やまと言葉でいう「むすひ」『古事記』の世界では、天地のはじめに生まれた神のひとつが「タカミムスヒの神」。「むすひ」とは、相反するものが出会い、新しい命を生む力。
怒りと愛、悲しみと理解、過去と現在、その両極が結び合ったとき、私たちは「癒し」という新しい命を生み出します。それが「意識の統合(むすひ)」です。
親との関係の癒しとは、親を変えることではなく、自分の観測を変えること。
過去の痛みを消すのではなく、その痛みを抱いた自分を愛と共に見つめ直すことです。
その瞬間、量子的にも、霊的にも、「分離」だったものが「むすび」へと変わります。
💖 対話が観測を変え、もつれたエネルギーが再結合し、意識がむすひとなる。
そこにこそ、過去を癒し、新しい未来を創る力が宿っているのです。
全国古事記塾主宰 今野華都子記す
Facebook あいことばさん投稿記事
「とほかみえみための効果がすごい」と聞いたことはありませんか?
これは神様を拝むときに用いられる唱え言葉=祝詞(のりと)で、人生を好転させるような効果をもたらすそうです。
漢字では、吐普加美依身外米 と書くのですが、陰陽道などで用いられ、亀甲の上にト・ホ・カミ・エミ・タメの五部分の亀裂が入るよう祈って、占いにも使われました。 その意味ですが、前半の「とほかみ」は、遠津御祖神(とおつみおやのかみ)というそうです。
つまり、遠くにいる神様、もしくは、ご先祖様のこと。後半の「えみため」は「微笑んでください」ということです。つまり「とほかみえみため」とは、「神様・ご先祖様、どうか微笑んでください」という言葉です。
古代から日本では、祖霊が崇拝されました。ご先祖様から代々繋がれた命というものを感じ、先祖につながれば、神に繋がると考えられていたのです。
人間は例外なく両親から生まれます。
そして、両親もそれぞれの両親から生まれますので、先祖を辿っていくと、1代遡れば両親2人、2代遡れば両親と祖父母をあわせた6人、3代遡ると14人、4代遡ると30人、そうして10代で2046人、30代でなんと10億人を超えます。この内、一人でも欠けると今の自分は存在しません。
私たちの存在は、髪の毛の一本に至るまで、ご先祖さまや大自然の情報が詰まっているわけです。つまり、『“私”はその先祖の集合体である』という意識を持つこと。先祖と繋がることで、これまで眠っていたDNAを目覚めさせる。
そうすることで、先祖のパワーを自分に集めて、物事を成し遂げるための力を養う。
そのための祝詞が、この“とほかみえみため”であったようです。
神道というのは、おそらく縄文から続く原始宗教。
何千年も前から、こういう考えを持った日本人の倫理観。
これは、漁労採集民族に共通する考え方。
自然を従えるのではなく、自然の中で生かしてもらっているという考え方なのだそう。
世界中の古代文明は、砂漠化で滅んだが、
『縄文文明は自然との共生の中発展し、現在にも緑豊かな列島を残して続く文明である』
という安田喜憲先生の説。
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https://youtu.be/Sixu8Oz4ZXg?si=3dTVn3bVOmojOmPH