ショパン、パリで今度は誰からの招待状?
ショパンは1835年の10月にライプツィヒでメンデルスゾーンの巨大なお屋敷でメンデルスゾーンの曲創りを手伝い、そして≪セント・パウルス≫を初演の前に試す演奏会でメンデルスゾーンと連弾した。このハードなスケジュールの後、その帰路でショパンは倒れて命からがらパリに帰ってから約半年が経っていた。
ある日のこと、ショパンとしてはあの悪夢のライプツィヒの日を思い出したくないと思っていたころ、メンデルスゾーンからショパンに招待状と呼べるかどうかわからない様子伺いのような便りが届いた。
メンデルスゾーンは、はじめて去年ショパンがライプチッヒに来た時に最後に話した新しい
シンフォニーの話から始まった。それは、この曲が完成したからショパンに来てくれと言っているわけでなく出来ていないからショパンに来てくれと言っているのか、そこをショパンにに察しろと言うのであろうか・・・
ともあれ、メンデルスゾーンは、ショパンに会いたがっていた。招待状のつもりで書いて来
たメンデルスゾーンだったようだ。
「私が来てくれと言えば君はすぐに来てくれると信じている」メンデルスゾーンは少々
どころか、これはショパンが断りにくくする言葉である。それとも命令であろうか。
そして、メンデルゾーンは「音楽家仲間から頼まれたからショパンはデュッセルドルフの
ラインラント音楽祭に来てくれますか」と訪ねてきたのである。
「ショパンが来てくれると思うと仲間に既に伝えてある」とメンデルスゾーンは、やや強引
に決めつけショパンに更に断りにくい状況を作り出している。
そして、1834年にショパンはこの音楽祭を聴いているから来てくれないと思うが
自分はショパンに会いたいと思っていて、またショパンと音楽を創りたい(自分の曲を手伝
ってほしいメンデルスゾーン)と考えていたメンデスゾーンのようであった。
音楽祭の内容は、ベートーヴェンの<第九シンフォニー>、へンデルの<プサルム>、ベートー
ヴェンの<序曲>、フィデリオの序曲の三番目、メンデルスゾーンの<セント•パウルス>
このようにメンデルスゾーンは案内して来たのだが、次の文脈にショパンも凍り付いたであろう。
「昨年、あなたがライプツィヒにおいでになったときに、私の<セント•パウルス>を
部分的に少々お聴きになった、あの曲でございます」こう書かれていたのである。
<セント•パウルス>をショパンとメンデルスゾーンの家で開かれた演奏会で連弾して演奏した
こともなかったことにしたいメンデルスゾーンだった。
そしてまだ文章は続いた「この招待は自分だけでなく熱心なショパンの演奏を
聴きたい人々の希望です」と話したメンデルスゾーン。
あの日、演奏会で<セント•パウルス>に時間が取られるため、ショパンは夜想曲を1曲演奏す
ることだけが予定だった。しかし、ショパンはそれでは、自分がわざわざ何のためにはるば
るライプツィヒに来たのか、芸術家としてメンデルスゾーンより自分は遥か下ですと甘んじ
て帰るわけにいかなかったのである。そこで休憩をとらないリスクを冒してまで、ショパン
は自作の曲をメンデルスゾーンに許可を得ないで休憩時間に演奏したのだ。そして、ライプ
ツィヒの聴衆はショパンの実力を目の当たりにしたのである。そのうえ、ショパンはパリで
は有名なだけでなく人気者であるようになってきていたため、メンデルスゾーンは自分の分
が悪くなっては困るので、ショパンに演奏をさせなかったことをごまかすために
急にいい人のふりをしたのである。
しかし、そこは駆け引きなのだろうか、演奏を今度はさせてもいいが、<セント•パウルス>の
ことは黙っておけよということであろうか。
そして、更に、「フランス語などは私は去年以来話していないのだよ。私はドイツ語のみの
生活であるのだよ。だから、私の下手くそなフランス語ですまないね、ショパン君、」とシ
ョパンに自分がゲバントハウスの指揮者の職にあることを案に言い、ショパンに
自分に従わせようとしているかのようにもとれるところにメンデルスゾーンの性格が見える
のだ。
これだけのことを、だらだらとしかも計算高く書くメンデルスゾーン、そして、
最後に、返事をショパンにほしいと言っているのだ。そして、終わるのかとおもえば、
はたまた、断られるのが不安なのか、自尊心が傷つきたくないのか、相手を責めているのか
わからないが、
「ショパン君からは、これまで一度も返事が来ていないことを私はわかっている」とメンデ
ルスゾーン。
弱気を見せたかと思うと、「君は、今なにを作曲しているか教えてくれ。
ヒラ―やリストはどうしているか宜しく伝えてほしい。
こんな自分をどうか忘れないで、あなたのメンデスゾーン」と結んでいる。
終わったかと思えば、シューマンが現れ追伸として、
「よろしくそしてラインラットに来てもらえるように
願っている」とメンデルスゾーンはシューマンの力を借りないとショパンに招待状が書けな
かったのである。何事も誰かに手伝ってもらわないと完成しないし自信がないメンデルスゾ
ーンだったのだ。
または、シューマンはメンデルゾーンに付いていともとれるのである。
ショパンの返事は、ハインリッヒ・パノフカ(ドイツ出身のバイオリニスト
ベルリオーズのもとで音楽会を開いた)にことずけてほしいと
締めくくったメンデスゾーン、ショパンが断りにくくする策をいろいろと
最後まで書いてあるのだ。
そのころショパンはというと、ヴォドジンスカ夫人が、この夏温泉場のマリエンバートに行
くことを父から連絡されてきたことに気を取られていたのだった。
リストはちょうどその頃、愛人のマリーダグー伯爵夫人とスイスにいたのだ。
リストは競争相手のタールベルグがパリで人気者になってきていたため、自分の地位が脅か
されかねないと急に焦ったリストは、愛人と遊んでいる場合ではないと慌ててパリに戻ると
ころであったのだった。
ショパンはメンデルスゾーンには返事はしなかった。
またしても、それぞれが、それぞれの思惑で欲望を通そうと我の張り合いをしているのであった。
ライプツィヒ歌劇場(19世紀頃)ドイツ・ライプツィヒにあるヨーロッパ最古の歌劇場
1693年創設。歌劇場専属のオーケストラを持たず、伝統的にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が演奏を担当する。1943年12月の大空襲により創設当初の建物は全壊したが、1960年に再建された。