次々、生まれ変えて
無趣味な僕の趣味の一つに、ムダ毛処理、というのがある。ムダ毛処理は奥が深い。例えば抜くとなっても、抜き方一つに幾千ものコツがある。例えば、毛先を摘んでから根元を刈るように指を動かすと高確率で抜くことができる、といった具合だ。一つだけ素人諸君に忠告しておくとすれば、力を入れた割に抜けなかった時が一番痛い、ということ。そして彼らは意地が悪く、力を入れた時の方がなぜか抜けない。給料日が密集する月末のガチャが全然当たらないのと同じである。
ここで少しだけ僕の陰毛クロニクルをおさらいしておこう。思えば、僕の下腹部から佐々木希のうなじのような、柔らかな毛たちが生え始めた中一の秋。あの頃は性知識がほとんど揃っておらず、その毛の存在もなにか僕が僕でなくなるような忌々しいものだと捉えた。いま思えば、冬に抗うようにどんどん色を濃くしていくさまはちょうど反抗期を迎えていた宿主によく似ていたかもしれない。
毛を抜くことに限らず、自分と不要物を引き裂く行為は快感を得られるようにできている。僕は自分の家のトイレで過ごす時間が一番好きだ。特に排尿は自分にとって細かいスパンでの脱皮であるように感じる。尿とともに喜怒哀楽が全て流れ落ちる喪失感と、いまの自分にできる唯一の社会参加を実現させる安心感。僕はトイレの電気、つけない派。暗闇の中で便器に座ると、乗り心地抜群のタイムマシンに乗っているようでなんだか楽しい。
余談だが、昔に比べて便を一度で拭き取れなくなってしまった。ろくなものを食べれば治ると信じたいが、まさか肛門を始点に自分の肉体が糞便化しているのだろうか。そんな疑念を抱えながらこの季節、夜のトイレに向かうのはなかなかに辛い。僕が好きなのは排尿であって、排便は未だに好きになれない。
そう考えると、リストカットが心地よいと思い始めている人は自分そのものを不要なものだと捉えているのではないか。そして、そんな邪念を信じられる人はどこか純粋で真剣に世界を見つめている人だと思う。弱い人間ほど誰かの心に寄り添うのに長けているが、それだけで生きられるほどこの世界にゆとりはない。自分は不要だという観念が頭を締め付けるときは、下半身に群生するムダ毛を着実に抜き集め、それをティッシュに並べてみると良い。いやいや、この薄体以上に不要なものがこの地上にあるだろうか?
ところで、僕の陰毛処理はperfumeと共にあった。よく『ナチュラルに恋して』を聴きながらカミソリを奔らせていた在りし日の僕。こんなに可愛くてオシャレな曲を、これほどムダ使いできるのも僕くらいだろうという、質量保存則完全無視の自信が湧いてきたものである。傷ついた心に染み入る笑いを提供することにおいて己の陰毛の右に出るものはないと、僕はいまでも信じてやまない。
そして大人になった今も、薄明かりの下、陰毛との百年戦争は続いている。年齢を重ねるにつれ、プレースタイルも少しずつ変わっていく。陰毛をブチブチと抜くのは、地元住民に愛されてきた野山を無理矢理ゴルフ場へと開発するようで気持ちが良い。あの乱雑なラフがフェアウェイの美しい芝生へと姿を変えるのは中毒性が強い。
まだ刈り取っていない毛はないかと目を光らせる。少し離れたところ、脇腹に近いところに力強い毛がぽつんと生えている。そんな時、突如として脳内会議が開かれる。これは陰毛なのか、いや、パンツで隠れない位置にあるから陽毛か・・・。結局はいつも陰毛自由主義者がパワープレイで決議を勝ち取る。ムダ毛から学ぶ交渉術もある。なんだかんだ最後には声量の大きい奴の意見が通るのだ。
暖房の効ききった部屋、全裸でうっとりと下腹部を眺める。姿見に映った僕が可笑しい。もうすぐ平成も終わるというのに、日本にこんな無防備な人間がいたなんて。ヒップダンスを鏡像の僕にお見舞い。その効果は抜群だ。やはり全裸にはメロメロに魅せられてしまう。気づけば時計の針は見たことない位置に移動していた。
どうなんだろう、みんなは裸が怖いのだろうか。一度台風の夜に全裸で庭に出たことがあるが、感情の昂りで鳴り響く雷鳴がひとつも鼓膜に届かない。あの夜の日本はとても静かだった。服はダサくても取っ替え引っ替えが利くが、裸を否定されてしまってはもはや今世の肉体からはドロップするしかない。そんな諦めもあっていいんじゃないか。
卑下以外の自己諦念のやり方を啓蒙する宗教が流行っていたなら、皆がもっと健康に日々を過ごせていたかもしれない。天衣無縫であり続けるのはとても難しい。自分を大きく見せるのも、自分を小さく見せるのも、どちらも精神的スケープゴートから距離を取れて平穏を保ちやすくなるからだ。常に等身大の自分を見せるのはとても危険な行為だが、儚さと安心感が同居したその人こそ、どの時代においてもスーパースターになりうる力を持つ人だ。
死ぬ前日に自分の手で丁寧に身体中のムダ毛を処理するのが僕のささやかな夢だ。火葬場の炎に頼ることなく、僕の陰毛には世界を旅してもらいたい。やがてそれが誰かの笑いの種になることを祈って。もう一度言う。結局は所在不明の縮れ毛が一番面白い。僕は一瞬でいいからスーパースターになってみたいのだ。
その一瞬が昏い日々によって支えられていることくらい、死に行く者共の武勇伝を聞かずともなんとなくわかる。空虚の中にこそ本質があって、本質というのは実は空虚なのかもしれない。なんにもない毎日が積み重なっていくけれど。上から見れば足踏みに見えて、実は螺旋階段を上っていたみたいな。そんなふうに、探しに行くから待っててよ。僕ら、星になれたなら。
きょうは月曜日、燃えるゴミの日だ。