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Kazu Bike Journey

Ride in Kyushu Day 71 (24/2/19) Nakatsu Castle Ruins 中津城跡

2019.02.24 09:14

Nakatsu Castle Ruins 中津城跡

九州一周の旅もこの中津が最終訪問地で、その後は北九州まで行き一周ルートを完了させるまでになった。2月28日に大学の同級生と東京で会う約束が入ったが、それまでまだ数日あるので、それまではのんびりとやろう。中津は思っていたより小さな感じで高いビルなどはそれほどなく駅から数分も走るともう市という雰囲気ではなくなる。そのかわりに、古い町並みを残そうとしている。新しく建てた家屋も、古めかしく造っている。

もうすぐ3月になるので、九州の各地でひな祭りのイベントが催されている。ここでもやっていた。

Nakatsu Castle Ruins 中津城跡

この城は、黒田官兵衛孝高が豊臣秀吉より豊前国6郡12万石を与えられ、居城を中津に定め築城を開始した。

12万石はかなり少ない印象だ。黒田官兵衛が入封したことにより、城井鎮房 (宇都宮鎮房) は四国への移封を命じられたが拒否し、黒田と城井との間で争いが起こる。最後は和解と偽り、この中津城に城井を呼び出し殺害し、この地が名実ともに黒田家の支配下になる。城内には扇井神社があり、城井鎮房を祀っている。

築城は官兵衛が多忙で遅々と進まないまま、関ヶ原の戦いになる。官兵衛は中津城を拠点として、豊臣側についた九州大名を攻める。悉く勝利を収め、後は島津のみとなった時に、家康から九州征伐の中止命令で頓挫した。なぜ中止したか?官兵衛の勢力がこれ以上増大するのを防ぐ目的があったかもしれない。

この論功行賞で黒田家は関ヶ原での嫡子長政の貢献もあり、筑前52万石に加増で移封となった。結局、築城は完成せずに、細川忠興が中津に移封になって引き継がれ完成の運びとなる。現存する石垣は、黒田時代のものと細川時代のものが混在している。よく見れば違いが分かる。この後、黒田家は福岡に移封、細川家は熊本へ移封で、中津には小笠原長次がはいる。小笠原も小倉に移封となり、 奥平昌成が入封し、明治維新まで続く事になる。城内には奥村神社があった。結婚式用の撮影をやっていた。黒田神社は城内には無い。いまでこそ、黒田官兵衛ヶ有名だが、それまでは黒田がここにいたきksんは、宇都宮や奥平に比べ非常に短い。住民は黒田官兵衛をそれほど意識していなかったのだがと思う。それどころが、郷土の勇であった宇都宮を騙し討ちにした不人気の黒田ではなかったかと思う。

小倉、福岡、熊本も訪問したが、それなりの都市になっている。福岡などは大都市だ。もし、中津に黒田か細川が藩主を続けていれば、ここも小倉ぐらいにはなっていたかもしれない。

石垣は当時の遺構だが、建物はコンクリートの模擬天守や模擬櫓が建っている。それなりに渋い外観で、当時もこんなだったのかなと思う。

ここにも西南戦争に関するものがあった。この中津からも薩軍に参加した部隊があった。中津隊と呼ばれた。蜂起の際に、この城の松の御殿を襲撃し焼いてしまった。跡には中津神社が西南戦争の6年後の明治16年に建てられている。

朝は今日一日かけて中津を見ようと思ったが、それ程見たいところはなかった。昼食を近くの公園で済ませて、小倉に向かう事にする。

小倉にもうすぐのところに来た。これで九州一周の旅は出発点に戻った事になる。走行軌跡が繋がった。ただ九州はまだ明日、門司に行き、関門海峡を渡り山口県の下関に着いた時に終了となる。