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ヒルティ喫茶:虹息

わたしのくびきは心地よく、私の荷は軽いから

2019.02.25 13:31

私自身は、聖書によって命拾いし、これまでの人生を導かれ、いまも養われているクリスチャンです。 

 

大きな苦しみのときにヒルティの言葉は 一日一日命をつなぐために大きな支えになり 今も読み返したり、本ブログでも紹介したりしているのですが、 今は、もっともっと楽に過ごしながら、 霊魂の浄化を求めてゆけるんじゃないかなぁと感じています。 

試練と休息があざなえる縄のようにやってくるとしても その試練はそんなに大きなものではなくてもすむんじゃないかなぁと感じています。 


ヒルティの著作集を読んだときに、 ヒルティ自身も、 自分はけっして不幸にならない というひとつの確信が内に与えられていたことが書かれていました。 (そして、この道を進んでいったところに、 自分と同じ志で歩んだ人たちとの出会いがあるとも書かれていました。) 

でも、現実に起こったことだけを見ると、 

息子さんが若くして亡くなり、 

弁護士としての生業の中で、悪意の人からはいくつかの不利益を被り、 

著作を発表するようになってからは、 キリスト教会から非難され 

と、他の人から見ると、いろいろな「不運なこと」に見舞われているのです。  


ヒルティの言う人生は 


 正しい者には悩みが多い しかし主はそのすべてから救い出してくださる 


という詩篇の言葉に表されている人生です。 

でも、もっともっと弱い私たちには、 


すべて重荷を負って苦しんでいる者は私の下に来なさい。 

私が休ませてあげよう。 …わたしのくびきは心地よく、私の荷は軽いから 


と言われるその人生を期待して、歩んでいっていいのです (と思っています)。 

だって、魂の救いを求めての真理の道が 絶えざる試練、気を失うほどの剥奪の連続だと証しされたら、 それに続く人たちがいなくなってしまいます。 まして、続々と増えていくことなんて何千年経っても見ることができないのではないでしょうか。 

わたしたちの道は、時代を重ねるごとに、 先人の受けてくれた試練により、一番は、救い主なるイエスさまの大きな大きな十字架により、そして、それに続く主にならう聖徒たちが一人ひとりの負ってくれた十字架により、より軽く、より明るく、より受け入れやすいものに変換してきているのです。 


大テレジアの“完徳の道”や 

十字架のヨハネの“カルメル山登攀”は 

とても険しく、凄烈で怖気づきますが、 

小テレジアの“小さき道” 

さらに、 シスター・コンソラータの“愛の最も小さい道” は

より受け入れやすくなっています。 

そして、さらに ヒルティによって説明された人生の成り立ちは

 文明社会のわたしたちに明るい理解を与えてくれますし、 

その先(わたしにとっては)、 スエデンボルグにまでやってくると 

もっともっと楽しく、力を抜いて歩んでいいんだ。 こんな自分でも目指していいんだ 

と思わせてくれます。 

 わたしと同じように 感じてくれる人がひとりでもおられたら 幸甚です。