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Kazu Bike Journey

Ride in Kyushu Day 72 (25/2/19) Kankon Kaikyo Chofu 関門海峡 長府

2019.02.26 09:35

Moji Port 門司港

Kankon Kaikyo 関門海峡

Chofu 長府

Kushizashi Castle Ruins 櫛崎城跡

Samurai Houses 侍屋敷

Former Chofu Mori Residence 長府毛利邸

今日が九州は最後の日になる。門司港まで行きそこから関門海峡をトンネルで本州山口の下関を目指す。

Moji Port 門司港

小倉から門司港までは10kmの距離なので、朝は遅めに出発し、ゆっくりと走行。門司港近くになると道路は高台を通り、港と向こうの方に山口が見えてきた。ここからだと本州はすぐそこだ。山口の海岸線の建物まではっきりと見える。

ここは門司港レトロと称して、明治 、大正、昭和初期の建物を観光の目玉として前面に出している。少し神戸や横浜の港町の雰囲気に似ているが、ゴミゴミしておらず、ゆっくりと見て回れる。

九州鉄道記念館 鉄ちゃんにはたまらない所

門司には博物館があり、通常は色々なテーマを展示しているのだが、耐震工事の為長期休館になっている。残念。

門司駅 ここもレトロっぽく作られている。

街の色々なレトロな建物と門司港、交番もレトロ調。

桜も咲いていた。このところ、九州は随分と暖かくなってきた。もう厚手のコートを着ている人は少なくなってきている。春はすぐそこまで来ている。

門司を暫く散策し、いよいよ関門海峡を渡る事になった。これで九州とはお別れ。

関門海峡トンネル 歩行者、自転車用。門司と下関の入り口でエレベーターで地下深く降りて750mのトンネルに入る。歩行者は無料、自転車は20円。自転車は走行出来ず、手押しになる。そうであれば歩行者で自転車という荷物になるのだが、なぜか料金がかかる。しまなみ海道も自転車は安い特別料金だが、そこには自転車専用のレーンがあり走行可能。このトンネルはどの様な考えで料金を設定したのか?ロジックが理解出来ない。

下関に出ると、大砲が目についた。幕末に、ここで下関戦争(馬関戦争)があった。攘夷一辺倒の長州と米国、英国、フランス、オランダ連合軍との戦争で、長州はコテンパンにやられ、西洋文化技術導入に舵を切った。薩摩と同様に戦争をして、攘夷思想を捨てるのだが、薩摩はそれ以前から西欧技術の導入には積極的であったが、長州はこの点は異なり、非常に保守的で西欧文化自体も否定して、軍備などは旧式のままであった。藩民性が出ている。この近くに 砲台跡がある。海岸線には多くの砲台が置かれていたが、ことごとく破壊された。武器の性能の違いが長州に大きな衝撃を与え、攘夷一辺倒の政策からの転換となった戦争であった。

関門海峡は一番狭いところで600mほど、当時の長州の大砲は青銅製で砲撃可能距離は300mほどで、連合軍のものは3kmで、射程距離に雲泥の差があった。翌日訪れた長府市歴史博物館に実物がフランスから借用展示してあった。長州が所有していた大砲の数が限られていたので、木製の大砲に大量の小石を詰め込み、上陸して来た敵に散弾銃の様に使った。ただこの木製は一度使うと壊れてしまうので、効果の程は疑問。第二次世界大戦で竹槍で戦おうとしていたのとよく似ている。日本人の性格なのか?

下関では平安時代にも戦いがあった。源平合戦で壇ノ浦の戦い。源氏が平家をここまで追い詰め滅ぼした地だ。ここに来て、以前から持っていた壇ノ浦合戦のイメージが変わった。こんなに狭い海幅なので、陸からも戦いがはっきりと見えたはず。海には、ひしめくほどの船が浮かんでいただろう。ここに古戦場跡の記念碑が建っている。

この下関は江戸時代は長州であったのだが、長州は実質上2つの藩に分かれていた。このいきさつは、関ヶ原の戦いで毛利輝元は総大将として西軍についたのだが、毛利は吉川、小早川の両川家も含め、東軍の徳川と寝返り、静観の話ができていた。しかし、その態度の優柔不断により、本領は減らされ、毛利輝元は安芸ほか8か国で112万石から減封され、周防・長門の2か国29万8千石となり、輝元の養子の毛利秀元には長府藩の支藩として長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)が与えられ、長府藩が立藩された。秀元は毛利元就の4男の穂井田元清の子であったが、元就の嫡男の死去で元就の養子となった。関ヶ原では実質上の毛利の総大将として戦地に赴き、吉川広家や安国寺恵瓊と共に南宮山に陣を敷いたが、吉川広家は東軍と静観で話がついており、参戦はしなかった。交戦を主張していた秀元も動けず、西軍敗戦後は大坂城に兵を引き、立花宗茂と共に籠城徹底抗戦を主張したが、毛利輝元は拒絶、長州に帰国となった。関ヶ原以降は、長州藩の実質経営はこの毛利秀元が主導した。本家の長州藩と支藩の長府藩の関係は複雑で、何度となく長府藩は長州藩からの独立を画策したが、実現されることはなかった。

Kushizashi Castle Ruins 櫛崎城跡

長府藩の藩庁が置かれた城。城の始まりは天慶3年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家が館を築いたと推定されている。戦国時代に大内氏の重臣内藤隆春が築城との記録が残っている。1600年の関ヶ原の戦いで毛利氏は防長二州に減封されたため、山口城に居を構えていた毛利秀元が支藩の長府藩の居城として改修し雄山城と称した。15年後の元和元年(1615年)の一国一城令によって取り壊され、隣接地に居館を置き、ここが勝山御殿に移るまでの約250年、長府藩の政庁であった。

幕末には櫛崎城跡は砲台と使用され、真鍮砲3門と木砲4門が配備されていた。遺構の石垣は城址公園だけでなく住宅地にまで残っており、その石垣に上に民家が建てられている。

藩庁が置かれた居館は櫛崎城のすぐ側にあり現在は高校になっている。高校の塀は昔ながらの白壁瓦葺きで古風な雰囲気を保っていた。

Samurai Houses 侍屋敷

長府は町をあげて、毛利分家時代の名残を残そうと努めているようだ。櫛崎城のあった海岸に近いところは広い国道が通り昔の面影は城の周りだけだが、内陸側に少し入ると車がやっと通れるぐらいの路地が張り巡らされて入りここに武家屋敷が集まっていた。まだ昔の門構えを残している家が多数あった。毛利屋敷を通って流れている風情ある小川の両脇に土塀で囲まれた侍屋敷地区があった。土塀だけ残っており、広い敷地は原っぱになっている。きっとここに何かを造ろうとしていると思われる感じがするが、特にPRしている様子は無い。市の中心部に近いところで多くの観光客が来るので放っておくのはもったいない。何か計画か、問題があり頓挫しているのかもしれない。

Former Chofu Mori Residence 長府毛利邸

風情ある小川に沿って少し登っていくと、長府毛利邸がある。歴史上は本家の長州藩が脚光を浴び長府毛利はあまり知られておらず地味な存在。しかし幕末期は萩より下関が歴史の舞台になる事が多かった。毛利邸はそれ程広くもなく、豪華とは言えないが、質素倹約の中でも渋い品のある屋敷だった。ちょうどひな祭りの季節なので雛壇に人形を飾り付けの最中だった。名のある人形師なのか取材にも来ていた。下関/長府は東京に帰る経由地で長く滞在が出来ず地元の人との交わりの機会が無かったので、次の旅では、もう一度来る予定だ。毛利本家があった萩に行く予定なので、比べて見ようと思う。長州人がどの様な人なのかに興味がある。

明日は飛行場のある宇部に行くが、距離がさほどでないので、今日見れなかった長府の町を散策しようと思う。