ビスマルクとドイツ統一3 統一以前のドイツ③ウィーン会議
ナポレオンのロシア遠征の失敗を解放のチャンスととらえたシュタインらプロイセンの「愛国者」たちは、国王を動かしてロシアとの同盟を成立させ、1813年春、両国はフランスに宣戦する。しかし態勢を立て直したナポレオンを一気に破ることはできない。一旦休戦を結んだ両陣営は、互いに競ってオーストリアを味方にしようとする。オーストリアはどう動いたか?この時のオーストリアの外相はパワー・ポリティクスの権化メッテルニヒ。彼は、オーストリアの失った領土を回復しようと、ナポレオンにフランスを自然国境まで縮小する線での調停案を提示。メッテルニッヒの考えはこうだ。フランスが強大であるのは困るが、プロイセンとロシアが勝ちすぎ、フランスの力が小さくなりすぎるのも、パワー・バランスが崩れると懸念。プロイセンの勢力が旧神聖ローマ帝国内で強まると、バイエルン、ザクセンなどがプロイセンの領土に組み入れられる可能性が出てきてしまう。またポーランドに対するロシアの力が強大になると、ロシアがポーランドを併合する恐れが出てくる。しかし、ナポレオンは、メッテルニヒの調停案を拒否。みずから血を流すことは何ひとつせずに、失った領土を回復しようとするメッテルニヒの要求を頭ごなしに怒鳴りつけた。
こうしてオーストリアはフランスに宣戦布告することになる。それまでナポレオンにつき従ってきたライン連盟諸国も、ナポレオンの形勢不利を見て続々同盟側に乗り移ってきたが、それはメッテルニッヒの主導による。これら従来のナポレオン従属国の国家主権と領土を保証することで、これら諸国を味方につけたのだ。こうして連合国は「諸国民戦争」に勝利。戦争自体は確かにプロイセンが主導したが、外交の主導権はオーストリアが握っていたのだ。このことが、ウィーン会議におけるオーストリア主導につながってゆく。
ウィーン会議は、終始各国の利害調整に追われ「会議は踊る、されど進まず」といった状況だった。ロシアはポーランドを手に入れようとし、プロイセンはザクセンを狙ってた。イギリスとオーストリア、フランスがそれに介入し、各国の利害が入り乱れて収拾は絶望的にさえ見えた。結果として、フランスはドイツにおける支配地域をすべて放棄し、1792年当時の領域に戻った。またプロイセンはラインラント、ヴェストファーレン、ザクセン北部など経済的に豊かな領土を獲得し、オーストリアはネーデルラントと西南ドイツ所領を放棄する代わりに、ガリツィアや北イタリアの一部(ロンバルディア、ヴェネツィア、チロル)などを得て、国土を一円化した。
この会議で、領土問題以上に重要だったのは「ドイツ問題」。ここでは各邦国の国内状況が異なっているので、合意は非常に困難だったが、結局、プロイセン案(独立国家の連邦という形で、連邦国家の主権の制限を含む統一ドイツを目指す案)にオーストリアからの修正(メッテルニヒは、ヨーロッパのパワー・バランスのためには、ドイツは強力な統一国家などにならない方がよいと考えていた)を盛り込んだ両国共同案が、「ドイツ連邦規約」として1815年6月に調印。ここに39の邦国(35の諸侯国と4自由都市)からなる「ドイツ連邦」が成立した。
(ウィーン会議の風刺画)
(ウィーン会議)
(メッテルニヒ)
(ドイツ連邦) オーストリアは、ドイツ連邦の外にも多くの領土をかかえている