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Mov.8 テンペスト2.0

2016.02.28 15:00

 夜の灰汁のごとき雲がたゆたうはるか下――うごめく闇を進む数多の光の筋がはかなげに、不安げに揺らめく。先導する新田たち、その後におっかなびっくり続く一群が呼びかけに応じた者たちを加えながら黒い海原――草原を歩き、底意地悪く起伏する丘陵をいくつか越えると、いかにも人工的な台地のシルエットがゆらあっと浮かび、その前に身を寄せ合うぼやけた光の集まりが見えた。

 その光へ逃げ込むように急ぎ、這いずる草を踏み続けると、水中を歩いているのに似た感覚が徐々に薄れ、テーブルマウンテン状にそびえる巨影に近付くほど感じられなくなった。集団の上で小さな満月のごとく光るワンが言った通り、この辺りは流動の影響を受けないパワースポットらしかった。

 やがて待ち兼ねていたグループと合流した若者たちは、間近から要塞のごとき威容――ビル5,6階ほどの高さ、粗削りでごつごつした巨石が雑に積み重ねられた石垣を見上げて圧倒され、波打つようにゆがんだ不ぞろいの石段が伸びる先、石垣の上でよどんでいる闇をうかがって身震いした。そして、しばらくの逡巡ののち、新田や佐伯がヘブンズ・アイズ上にモンスター反応が無いことを確かめながら石段を慎重にのぼり、しばらくして危険は無さそうだというコネクトを受けた待機者たちがぞろぞろ続く。その流れに連なり、つないだ手を暗闇に紛れさせながら石段に近付くユキトと潤は、StoreZのアプリショップ《あぷりこっと》から購入したライトンの光るブタ鼻を石垣に向け、その巨大さに感嘆した。

「……ホントにでかいな……世界史の授業のとき、ワールドで古代ギリシャの遺跡を見学したのを思い出すよ……」

「そうね」潤がうなずく。「ミケーネ文明の遺跡に、どことなく似ているわね」

 か細い光を当てられる石垣、それはあちこち崩れ、ひどいところだと土砂崩れを起こしたように巨石を荒野にぶちまけて斜面を作っていた。

「ほわぁ、いしのおしろみたいやわ」

 ぽんと背中にぶつかった声にユキトはハッと振り返り、自分たちに続く若者たち越しにジュリア、そしてその隣の紗季に気付くと、潤と視線を交わしてつないでいた手を放した。紗季の方は暗さと間に人がいたので手には気付いておらず、はにかんだユキトと目が合うと小首をかしげ、ジュリアを連れて人の間を縫って来た。

「――どうかしたの、斯波? 変な顔して」

「へ、変な顔なんかしてないよ! そ、それより、ヘブンズ・アイズで見ると、この遺跡ずいぶん広いみたいだよな」

「ん? まあね」

 紗季は、ほとんど未踏ゆえに遺跡の大部分があいまいに表示されるマップを見た。

「――確かに大きな町の二つ三つ、すっぽり入っちゃいそうよね」

「あのいし、ぜーんぶおかしやったらええのに」ジュリアが無邪気に願う。「うち、おなかすいたわ~」

「あたしもだよ。落ち着いたらStoreZで何か買って食べようね」

 姉のように振る舞う紗季――それを潤が自分の黒髪と右肩越しに一瞥する。群れに流されるユキトは紗季たちと歩を進め、前に続いてでこぼこした石段を一段一段数えながら踏み、百数十カウントしてようやくのぼり切ると、そこには無残に崩れた石造りの建物や土台――津波に襲われでもしたかのような遺構が闇の底に沈んでいた。先に到着していた者たちは、枯草の上にごろごろ転がっているコンクリートブロックよりも大きな石や組積造の遺構をライトンで照らしたり、巨石の土台に腰を下ろして休んだりしていて、さながら観光地にやって来た団体客のようだった。

「――ねぇ、よるはここでねるん?」

 ジュリアが物珍しそうにライトンであちこち照らすと、紗季が「まだ分からないけど、そうなりそうね」と返す。

「……モンスターはいないようだけど……」

 ライトンの光と目を左右の闇にやり、潤がユキトに焦点を合わせる。

「――本当に危険は無いのかしら?」

「うん……ヘブンズ・アイズで見る限りは……――あっ」

 石段の方から遅れてジョアンが現れ、うろうろする若者たちを避けながら右手を気さくに挙げる。その隣には淡い光をはらんだようなルルフがいて、ユキトの目を引いた。

「――やっと追い付いたよ~ それにしてもさ、かなりlargeだよな、この遺跡。――ねぇ、ルルりん?」

「ルルりん?」

 紗季が左の眉を曲げ、デレっとしたジョアンとその隣で微笑むルルフを見て瞬きする。

「ルルりんやて! ルルりん、ルルりん! りんりんりーん!」

「ちょっと、ジュリアちゃん……――ルルりんって、えっと……」

「ルルりんはルルりんだよ、サキ~――ねぇ~ ルルりーん」

「それがSeraphimでの愛称なんです」ルルフがいたずらっぽく肩をすくめる。「よかったら、皆さんもルルのこと、ルルりんって呼んで下さい」

 恥じらいながらルルフは言い、うっすら濡れた目で紗季たちをうかがい、ユキトと目を合わせた。その瞳は不思議な引力を持ち、存在全体からただようほのかな匂いが魂を誘引するようで、ふらっとそばへ踏み出しそうになったユキトは慌てて潤に「この遺跡、ずいぶん荒れているよね」と話しかけた。

「え? そうね、何だか津波に押し流されたみたいよね」

「うんうん、それにさ、人工物の割に全体が妙にwarpedだよな」ジョアンがマップを2Dに切り替える。「上から見ると、でこぼこしたgourdみたいだよ。この遺跡の形」

 ジョアンが例えたようにコンコルディ遺跡はいびつなひょうたん形をしており、石段を上がったユキトたちがいるのは遺跡の南端、ひょうたんの底付近だった。そこから少し北に行ったところ――ひょうたんの下半分のほぼ真ん中には、ほとんど土台を残すばかりの宮殿か何か大きな建物の遺構と学校のグラウンドくらいの広場、そして、それらを囲んでいた壁の土台が残っていることが、仲間たちが足を踏み入れたことに伴うマップの更新で分かるようになっていた。

「――darkなせいもあるけど、こんな風景見ていると不安になるなあ……いったい、どうしてこうシュールになったんだろう?」

『大流動の影響です』

「あっ、きんぴかタマやわ!」

「おわっ! ワン! 頭の上からsurpriseはやめろよ!」

 ジョアンの頭上にパッとワンが出現し、きらめきながら石垣や石段がゆがみ、建造物がほとんど崩れ去っているのは、大流動に襲われたからですと教えた。

「ちょっと待って。ルルの記憶だと、ここはフェイク・スイーツとかで、流動の影響を受けにくいんじゃなかった?」

『フェイス・スポットです、高峰ルルフ。それだけ大流動は超巨大なエネルギーを持っているのです。大流動にかかっては、この遺跡も大嵐で荒れ狂う海に浮かぶ小船に過ぎません』

「Seriously? なぁ、その大流動って、また起こるのか?」

『それは私の知るところではありません、ジョアン・シャルマ』

「ちぇっ、相変わらずcold‐heartedだなぁ」

『前兆で空間震が起こる場合もありますが、正確な予測はできません』

「えっ?」ユキトが顔色を変える。「それなら3、4時間前にあったじゃないか?」

「そっ、そうだよな! dangerなんじゃん?」

「ねぇ、なにかこわいことおこるん?――ねぇ、サキねぇちゃー?」

「落ち着いて、ジュリアちゃん。――どうなのよ、ワン?」

『必ずしも大流動の前触れとは限りません。仮に前兆だったとしても、発生するのは1時間後かもしれませんし、1年後、10年後かもしれません』

「はあ? 何よ、それ。ふざけてるの?」

『私は、事実を申し上げているだけです。それよりも、ようやくそろいましたよ』

「そろった? 何のことよ?」

『現在、この遺跡には生存確認できる全員がそろっています』

 その言葉に、ユキトたちはアドレスブックを開いた。自動承認するように設定されたアドレスブックには、遺跡前で待っていた者たちも含めてたくさんの新規が登録されていた。

「全部で663人……」潤が顔を上げ、ワンを見る。「強制転送されたのは、666人だったわよね? 残りは……」

『モンスターに襲われ、消滅しました』

「……死んだってことか……!」

 ユキトの脳裏に平瀬の最期がまざまざとよみがえり、背筋に冷たい電流が走る。目の当たりにさせられたアストラルの消滅――それはデモン・カーズに侵された自分の死を連想させ、ナックル・ガントレットの下の右手を、体をこわばらせた。

『正確に申し上げますと、人の精神そのものであるアストラルの消滅により、現実世界のリアルボディは魂を失った抜け殻になりました』

「ひどい……! 何でこんな……あたしたちをどうしようっての?」

『すべてはHALYの意思です、篠沢・エリサ・紗季。私は、それに従っているだけです』

「何が『従っているだけです』だ! 人がdiedなんだぞ!」

「そうよ! あんたたち、人の命を危険にさらしたり奪ったりして平気なの?」

『現実世界では日々事故、事件が起こり、死人も出ています。このゾーンは、形は違えどもそうした現実に準拠しているのです』

「もういいわよ!」

 紗季はワンをにらみつけ、不安顔のジュリアを抱き寄せると、怒りで涙ぐんだ目元を引き締めた。

(……ふざけるなッ!……)

 ワンをにらんだユキトは魔人の右手を隠したナックル・ガントレットをガチチ……と握り固め、デモン・カーズに侵されていく身を呪って密かに歯がみし、喉の奥を震わせた。

(……どうして僕が苦しみながら化け物に変わって、最後には死ななくちゃいけないんだ? 何のためにそんな設定にしたんだッ!……)

 だが、血走ったまなざしは3Dの光球をむなしく突き抜けるばかり。デモニック・バースト発動を知らせたときのように頭に声を響かせることもなく、高みで黄金色に光るだけのワンにユキトは憎悪を激しくたぎらせた。

「――ユキト?」

 横からのぞく潤に気付き、ユキトは鋼の右手で引きつった口元を隠し、目をそらした。

「……すごく怖い顔していたわよ、今」

「……ひど過ぎる話だからさ……許せない……!」

「とんでもないことになっちゃったな、ボクら……――ねぇ、ルルりん?」

「ん? あ、そうだね……」

 軽くうなずいたルルフが左肩にかかるサイドのブロンドを指でいじったとき、大遺構前の広場でオレンジ色の炎が派手に噴き上がり、皆の視線を一気にさらった。

「なんやの、あれ?」

「flames?」

「行ってみましょうか、ユキト」

「うん……」

 ユキトはうなずき、歩き出した周りに流されて明かりへ、炎の方へと移動した。転がる巨石を避け、土台を乗り越えて広場に足を踏み入れると、大遺構の前で炎をまぶしく燃え上がらせる井桁型に組まれた薪が、それに後ろから照らされて目立つ新田、佐伯と後藤、そしてその近くに影薄く立つエリーが見えた。

「すごーい、キレイやぁ~」

「そうだね」紗季が目を和らげる。「林間学校のキャンプファイヤーを思い出すな……でも、あんなもの、いつの間に作ったんだろ?」

「作ったんじゃないみたいよ」

 ルルフが店舗デザインのウインドウと、その前に浮かぶ3D少女ミセっちを指差す。

「え、どういうこと、高峰さん?」

「《Nature Dream》ってStoreZのアウトドアショップに売ってるわ。ほら、これ」

『本体は2000ポイント』ミセっちが緑髪の頭をポリポリかき、かったるそうに教える。『ちなみに、炎を燃やし続けるにはポイントが必要だかんね』

「へえ、greatだな。そんなものまで売ってるんだ?」

『前にも言ったじゃん。ドラッグとかを除けば、どんな物でも買えるよ。ポイントさえあればね』

「大した品ぞろえね。――ねぇ、あたしたちももっと前に行こうよ」

 紗季に促され、ユキトたちは炎に寄って行く若者たちと一緒に歩いて、焚き火を背にした新田とその右隣、左隣にそれぞれ数歩離れて立つ佐伯と後藤を前に弧を描いて立ち、ライトンを消した。火の粉を舞いのぼらせ、辺りを熱しながらくねって踊る焚き火には3D表示のゲージが付属していて、燃料――チャージされたポイントの残量を示している。炎の光背を得た新田は、何かを期待して待っている若者たちを陰影に染まった表情で眺めると、ドレスシャツの袖を肘の下までまくった腕を軽く左右に開いて、落ち着いた声で語りかけた。

「プロフに目を通している人も多いだろうけど、あらためて自己紹介をさせてもらいます。――」

 名乗った新田はワールドで商談中に強制転送されたと語り、これまで聞き取りしたところによると、ここにいる10代から20代の若者は同時刻に日本エリアから強制転送されたようだと言った。

「――ここはアストラルが傷付かないように設定されているまともなゲーム・ゾーンとは違う、非常に危険な世界だ。どうやったらここから出られるのか、ワンを何度も問いただしたが……」

 新田は張り詰めた顔を赤く照らされる若者たちの頭上――もやのような雲に封じられた夜空をバックに浮かぶワンをにらんで言葉を切り、視線を下に戻して話を続けた。

「……しかし、いくら聞いても『無い』と繰り返すばかり。誰か、どんなことでもいいから、何か気付いたことはないか?」

 問いかけに群れはざわつき、ユキトたちは顔を見合わせた。

「おい、サキ、what do you know?」

「知らないわよ。――斯波は?」

「そんなことを聞かれても分からないわよね、ユキト?」

「うん……」

 何かがずっと引っかかっているユキトの横で遠慮がちに紫ジャージの腕が上がり、挙手したルルフが衆目を集める。

「ええと……」新田はアドレスブックをチェックし、指差した。「高峰ルルフさん、何かある?」

「はい……ルルたちをここに強制転送させたのは、HALYってALなんですよね? うろ覚えなんですけど、テンペスト事件を起こしたALって、そんな名前じゃなかったでしたっけ……?」

 テンペスト事件――波紋はすぐさまどよめきの波に変わり、ユキトは海霧が晴れたような顔を左隣の潤に向けた。

「そうか! テンペスト事件を起こしたALの名前、そんなだったっけ……!」

「テンペスト事件って、2年前に起きたあれよね? テンペストってSRGを管理していたALが狂った……」

「そう! 保護設定が変えられ、モンスターに襲われたアストラルがダメージを受けて精神に障害を負う人がたくさん出た、あの事件だよっ!」

 当時、世間をそれなりに震撼させた事件だったが、ALの名前まで報道することが少なかったことと、その後に起きた様々な大事件、大事故のニュースに押し流されたため、今日人々の記憶にはほとんど残っていなかった。動揺し、不安定に波立つ群れ――その中心でルルフは唇を軽くなめ、背筋を伸ばしてよく通る甘い声を弾ませた。

「ルル、ちょっとだけプレイしたことがあるんです。空間は流れたりしなかったし、ポイントとかアプリとかってシステムも無かったですけど、モンスターのデザインは似てるかなって思います」

「へぇ、ルルりん、ゲームとかplayするんだ?」

「ちょっとだけだよ。ルルの趣味は、お菓子作りとかアンティーク・ショップ通いとかだから」

「そんなことより――」紗季が、浮かれ気味のルルフとジョアンをじろっと見る。「そのAL、ゲームと一緒にデリートされたんじゃなかった?」

「どうなんだ、ワン」腕組みをした佐伯が、新田の右隣からまなざしで刺す。「このゾーンは、テンペストと関係があるのか?」

『ございます。HALYはテンペストの元・管理者。このゾーンは、デリートを逃れたHALYがテンペストのデータをベースに造ったニューワールド《テンペスト2.0》です』

「テンペスト2.0……!」

 新田が右手の平で額をググッ……とこすり、アップバングの髪を前から後ろに強く撫で付ける。

「……それで、このゲームのクリア条件は何なんだ? どうすれば、このゾーンから出られるんだ?」

『何度も申し上げておりますように、このゾーンから出る方法は今のところございません。あなた方には、ずっとここで暮らしていただきます』

 ――ふっざけんなよッ! こんなところ、もう耐えられないんだよッ!――

 ――家に帰らせてよッ! みんなに会わせてェッ!――

 ――このままじゃ、リアルボディは抜け殻のままじゃないのッ! 何かされたらどうすんのォッ!――

 木で鼻をくくった物言いが暴発を呼び、ヒステリックな嘆きと怒りの火球がユキトたちの周りから次々投げつけられたが、ワンはすげなくきらめいて現実世界のことは忘れてしまうようにと返したので、燃料を投下された若者たちは焚き火のそれをしのぐ激情の炎を噴き上げ、火の粉をまき散らしてもだえさせた。

「みんな、落ち着け! 静かにッ!」

 新田が頭上で手をバンバン叩き、乱れる炎を背に声を張り上げる。

「――これだけ大勢が行方不明になっているんだ! ワールド・ポリスが捜査して助け出してくれるはずだ!」

『それは難しいでしょう』

「はっ?――な、なぜだ?」

「このゾーンは、痕跡を消しながらワールドの辺境を移動し続けています。それを見つけるのは、無限の宇宙のどこかを漂う小石を目視で捜すようなものです』

「……そんな……」

 マリッジリングをはめた左手で額を押さえ、首を絞められるような顔をする新田。その絶望を、人垣の最前列にいるエリーが胸を両手で押さえ、涙をこらえながら見つめていた。

「……いいかしら? 質問しても?」

 軽く腕を組む後藤が、ワンをメガネレンズの真ん中に映す。

『どうぞ、後藤アンジェラ』

「先ほど、このゾーンから出る方法は『現在のところ』無いと言っていたようだけれど?」

『はい、そのように申し上げました』

「だとすると、将来的には『ある』かもしれないと考えていいのかしら?」

『それは、私にはお答えできません。ここはHALYが管理する世界。設定が改変されるかどうかはHALY次第です』

「そう」

「――そ、そうか!」新田の顔がパッと輝く。「なら、そのうち道が開けるかもしれないってことだな!」

 血の気が戻った新田は胸にたまっていた息を吐き、両手を振って群衆に熱っぽく語りかけた。

「――みんなも聞いた通り、そのうち脱出ルートが示されるかもしれない! ワールド・ポリスが救出してくれる可能性だって、まったく無くはないだろう。ともかく、今は力を合わせてその時が来るのを待とうじゃないか!」

「分かっていませんね」

 皮肉っぽい声がユキトたちの右方向から聞こえる。新田の正面、弧の真ん中辺りにいるユキトが皆とそちらに目をやると、カーディガンを赤らめたクォン・ギュンジが最前列で腕組みして新田を見据えており、その陰に王生が小さくなって隠れていた。

「……クォン・ギュンジ君、何か言いたいことがあるのか?」

「ありますとも。ボクらの肉体――リアルボディは抜け殻のままなんですよ? なのに、ずいぶんとのん気ですよね。いくらワンが無いと言ったって、探せばどこかに脱出口があるかもしれないじゃないですか? ぼんやり待っているより行動した方が、道は開けるんじゃないですかね。そうは思いませんか?」

 クォンは狡猾そうなキツネ目を細めてこれ見よがしにあきれ顔をし、後ろにいる王生や敵意がこもる目をして並び立つ数人の男女を見ると、タクトを振るように両手を動かした。

「――放置されたリアルボディは脱水と栄養失調に陥り、やがて使い物にならなくなります。そうしたらどうなるか? アストラルはその人間のリアルボディとしか適合しませんから、ボクらは肉体という器を失った幽霊みたいになるんです。そして、残ったアストラルも時が経てば消滅してしまう。まぁ、消滅までの期間は、寿命と同じように数ヶ月から数年、あるいはそれ以上と個人差があるようですが、ともかくリアルボディはそれほど重要なんですよ。それくらい知っていますよねぇ?」

「もちろんだよ。だから、こういうときのために保険があるんじゃないか。発見されて医療機関に搬送されたリアルボディが受ける生命維持措置の費用は、一定期間保険から支払われるだろ。リアルボディがちゃんと保護されているのなら、モンスターがうろつく危険な世界を当てもなく歩き回ったりしないで助けを待っている方が賢明じゃないか?」

「はぁ……あなたは全っ然分かっていませんよ。困ったもんですね、世間知らずってのは……」

 やれやれという顔でクォンは肩をすくめ、ため息をついて首を左右に振った。

「――確かに保険に加入している人間は、半年、1年くらいお金の心配も何もしなくてもいいでしょうよ。でも、ボクみたいに貧しくて保険に加入する余裕が無かった者には、もろに金銭的負担がのしかかるんです。それを支払う能力が本人や家族に無さそうだと判断されたら、生命維持措置どころか医療機関に受け入れてもらうことさえできないかもしれません。そういう人間も世の中にはいるんですよ、新田さん。ご存じじゃないですか?」

「……それは、知っているけど……」

「でも、大して気にしてはいないんですよね? 恵まれた人間はぬくぬくと暮らしていけるから、貧しい人間のことを一時気に留めてもすぐ忘れてしまうんです。まったく、うらやましいもんですよ。でも、あなた方がいる世界の外に目を向ければ、純血日本人でも貧困にあえいでいる人間はいるんです。ああ、嫌だ、嫌だ、こういう無関心。はぁ……」

 くどく挑発的な物言い――口ごもる新田の横で佐伯が組んだ腕を抜刀するように解きかけたとき、その近くの人垣の最前列から怒声がクォンめがけて襲いかかった。

「そうなったのは、全部お前らイジンのせいだろうがッッ!」

 焚き火の炎で全身真っ赤に染め上げられた矢萩が、反対側に立つ同い年くらいのクォンを憤怒の形相でにらみつける。しわばんだ黒のロングパーカーが、ポケットの中で硬く膨れているこぶしに沿ってくっきりとしわを作っていた。

「……君は、ええと……」クォンはアドレスブックで検索し、「ふんふん、純血日本人の矢萩あすろ君ですか」と、軽侮する調子で言った。

「イジンの分際で『君』とか呼んでんなよッ! 身の程を知れ、クソイジンッ!」

 イジンという蔑称の繰り返しに移民やミックスの若者たちは不快げにざわついたが、燃え上がる矢萩はそれらをにらみ返して口から罵声の火を噴いた。

「お前らイジンが、俺たちから仕事を奪ったからだろ! お前らやお前らのクソ親どもが日本に来なきゃ、こんなことにはならなかったんだ!」

「あのですね、矢萩君、ボクらだって好きで移住したわけじゃないんですよ。少しでもマシな暮らしをするために仕方無くだったんです。それに、企業だって勤労意欲のあるボクらを重宝しているんですよ」

「ほざくな! お前らイジンは目障りなんだ! 全員どこかに消えちまえッ!」

「――ふざけたこと言ってんじゃないわよッ!」

 ユキトの横でキレた紗季がジョアンの制止を振り切って人を強引にかき分け、人垣の前に飛び出ると大股で矢萩に近付き、ポケットから慌てて出て胸の前に挙がったこぶしと対峙する。

「やっ、やるつもりか、イジン!」

「みんなに謝んなさいよ!」

「あぁ?」

「あの人が嫌味なのは分かるけどね!」紗季は左手でクォンをびしっと指差し、それから「自分と違う存在を差別して追い出そうなんて考え、正しいと思ってんのッ?」と唾を飛ばして矢萩を怒鳴りつけた。

「黙れ、イジンッ!」

 矢萩は右こぶしを振り上げたが、青筋立てた紗季の剣幕と彼女に味方する空気に振り下ろすことができず、めくれた唇の間から悔しげにかみ合わされた歯をのぞかせた。

「……青臭いガキのくせに! お前なんかに何が分かるんだッ!」

「あんただって、プロフによれば未成年じゃない。年齢を別にしたって、あんたが大人とは思えないけど!」

「生意気な……!」

「それくらいしないか!」新田が間に入り、紗季を背にして矢萩とぶつかる。「俺たちは、力を合わせて生き延びなければならないんだぞ!――クォン君、君たちのような立場を考えない発言は謝る。ともかく、これからどうしたらいいかを一緒に考え――」

 呼びかけがけたたましいアラームに――耳をつんざく大合唱に突然吹き飛ばされ、それぞれの前に出現した【WARNING】の赤い文字が息せき切ったように点滅する。突然のことに若者たちは何事かとうろたえ、おびえた目で辺りを見回しながら群れを崩し始めた。

『警告致します。モンスターがこちらに急接近中。大変危険です』

 ばらけていく663名の頭上で、ワンが平然と非常事態を告げた。