誰かと私の物語
私は幼い頃から絵を描くのが好きでした。
高校生になっても、なぜか男性の目元だけをひたすらノートに描いていました。
周りからしたら上手かったらしい。
マンガで見たものの真似事でしかなかったのですが。
ちゃんと練習していればもっと上手くなったと思うし、
(今からでも遅くはないが)
もしかしたら漫画家を目指していたかもしれません。
でもきっと職業にするならば絵を描くのが好きなだけでもうまいだけでも足りなかったろうから、早々に諦めておいてよかったかもしれないとも思います。
マンガとの出会いはいつだっただろうか。
おそらく、「ドラえもん」ではないかと思われます。
ドラえもんといえばいわゆる1話完結なので、
どこから読んでもその世界に入れたので手軽でした。
1巻から順に買っていったのではなく、
本屋に行っては「あ、この表紙のはまだ持ってないな」と思ってバラバラにコミックスを集めていったのを覚えています。
ドラえもんはアニメも好きでしたが、
マンガで見るドラえもんや野比のび太はなんだかより一層“滑稽”に見えて、オチまでがあっという間で、単純な物語でした。
その単純さゆえに安心できる何かがあったのかなと思います。
次にワンピースに出会うわけですが、
これが私にとっての最初の〈物語〉ではないかと思われます。
(未だに終わっていないのが恐ろしいですが。いつ終わるの?(笑))
つまり登場人物の成長があって、流れがあって、伏線があって、マンガって1話完結ではないものもあるのだなと知りました。
ワンピースが入り口となり、中学、高校は少年ジャンプ作品が大好きでした。
NARUTOや銀魂、BLEACH、デスノート、ハンターハンター、アイシールド21はドンピシャ世代でしたし、ドラゴンボール、スラムダンク、幽遊白書も上の世代の作品でしたがちゃんとハマりました。
活字を読むのが得意ではなかったのか、小説は殆ど読めませんでした。だから私は〈物語〉はマンガに教えてもらったと思っています。
漫画家というたった1人の人間から複数のキャラクターが生まれてくる。しかもそのそれぞれのキャラクターがそこに本当に生きているかようにありありと感じられ、現実にはあり得ない設定なのに(腕が伸びるとか。影分身が使えるとか。)、
存在しない人たちなのに、感情移入してしまいます。
なぜ私たちはフィクション(虚構)に、こんなにも心を動かされるんだろうか。最近このことについて考えるようになりました。
それはやはり...
誰かの物語は自分の物語でもあるから、とでも言ってよいでしょうか。
もちろんマンガじゃなくてもいいんです。アクセスしやすい物語がそれぞれにあるはずで。小説が好きな人もいれぱ、映画、ドラマが好きな人もいる。あるいは、幼い頃に読み聞かせてもらった昔話であったり、多くの人の間で共有されている神話や聖書でも。
私の人生に何が起こったかなんて、他の人は知る由もない。
あのときあの人に言われたこと、それをどのように感じたのか。その場面を録画していたわけでもないし、自分でも鮮明に思い出せるわけでもない。
だから、きっと他の人には分からないんだろうと思ってしまう。でもそれも結構大事で、私には私だけの秘密があるんだということで自分の表面に覆いが作られて外から護られる面もある。
一方で...やはり自分のことは自分しか知らない、いや自分でもまだ知れてない、ということはどこか孤独なことだなとも思うわけです。というより、秘密を抱えすぎると孤独になる。
そんなとき、物語が孤独を癒してくれることがあります。
私はマンガや映画の鑑賞を通して、自分の苦しみや喜びを代わりに表現してもらえたような感覚になることがあります。
自分に起きた個別的な体験なんてその作家は知っているわけないのに、なにかまるで自分のために作られているのではないかと思ってしまうような作品と出会ったことは皆さんはないでしょうか。
誰かの物語は自分の物語。
私はカウンセラーなので人の過去の話を聞くことが多いわけですが、本音を言うと現実として何がその人に起こったのかを正確に再体験することはできません。
でも、例えばだけどその人が変化したとき、その変化を語ったとき、まるであの時観た映画のワンシーンだなと思ったりするのです。(あまりないのだけど、そういうのを掴めるカウンセラーでありたいなと思う)
それはそれでひとつの理解となる。
フィクションは無から生まれてくるわけではなくて、
人間が生み出している以上、実体験から着想を得た話かもしれないし、実体験したことでなくても作家の心の奥底にあったものがキャラクターとなり時空間となる。
それはフィクションだけど完全な“嘘”ではない。
河合(1987)は「マンガはユングのいう元型的な心像の断片化されたものの集積場ともいうことができる」と述べています。
漫画、だけでなくあらゆるフィクション作品には、
人が共通して持っているイメージが浮かび上がっているものです。
たった1人の作家が何人もの人格や出来事を描けるのはとても不思議なことだと今でも思うのですが、
きっと彼らも自分一人分の人生だけで物語を作り上げているわけではないと思うのです。
虚構と現実(実際に起きたこと、私たちが生きている社会)は全く別のものであると考えたり、
あくまで私たちは現実世界に暮らしているのだからフィクションはフィクションとして娯楽でしかないと杓子定規に考えたりする必要はないのかなとも思えてきました。
物語を作るというのは、漫画家や小説家など特別な人だけができる行為だと思ってしまいそうですが、
私たちは誰でも、今までもこれからも自分のことを言葉(時には身体)を使って物語ることができるはずです。
冒頭に戻ってみると、私は幼い頃から絵を描くのが好きだった。それのみではただの事実だけど、
本当はもっと続きがあって、
《自分の描いた絵や短いストーリーを見てもらって褒められるのが嬉しくて、一度は漫画家になるのを夢見て、でも根気がなくてやめてしまって、そんな自分の人生を悔やんでいるわけでなくて別の道で十分納得している。》
これは私の一つの物語です。
割と単純な物語だけど、理解してもらえると少し嬉しかったり救われたりするのです。
だから話を聴くとか誰かを理解するのには、
物語を知っておくことや、自分が好きな物語をなぜ好きなのか考えてみることが有効なのではないかと思います。
さてワンピースはいつ終わるのやら。
どんな結末が待っていて、私たちはそれをどう体験するのか。
物語を通して、いつか誰かとつながることが楽しみです。
そう思うと良い趣味になったなと。
職業にしなくたっていいんだよと、マンガを読み耽ってた青春時代の自分に言いたくなりました。
【引用文献】
河合 隼雄(1987)現代青年の感性―マンガを中心に 河合隼雄・作田啓一・多田道太郎・津金沢聡広・鶴見俊輔(共著)昭和マンガのヒーローたち 講談社