【社長通信】あれから8年
この冬は厳しい冷え込みも少なく、過ごしやすかった。
我が家の裏庭にある満開の梅の花に見え隠れするメジロの姿に春を感じる。
そんな中で、小社を知る人びとから温かい声も届く。
市内外のあちらこちらでセフティワンの姿をよく目にするとのこと、その好意的な声の響きにも春を感じる。皆さんの仕事ぶりに深く感謝。
さて、2011年3月11日の地震発生から間もなく8年。
この時季になるとあの東日本大震災の記憶が蘇る。
あの日、息をのんではTVに釘付けになった。
迫りくる津波が家や木、船をはじめあらゆる物を押し流し、人や車をのみ込んでいく。TVを見る側からは全体の状況がわかるが画面の中の人々には押し寄せる津波が見えず、やきもきする。見ている方が思わず「早く逃げろ・・・」と声を上げるも、その姿は濁流にのまれ消えていく。なんとも凄惨な画像に多くの人が身震いした。
山形県生まれの私にとって、生家の方は特に被害はなかったとはいえ他人事とは思えない。
その年の秋、山口に住む東北出身者を中心に、東北に縁のある人々が集まって山口東北人会を立ち上げた。
被災したふる里の早い復興を願うとともに被災者へ寄り添い、物心両面での支援、そして震災の記憶を次世代に語り告ぐことが主旨。
会の活動のメインは、震災発生の3月11日前後に開催するチャリティーコンサートで、この3月で8回目。ここでの収益金に、有志からの寄付金を加えて被災地への支援を続けている。
特に未来を担う子ども達への支援として、保育園や幼稚園に遊具、玩具等を寄贈している。
その他に会員相互の意思の共有、ふる里への思いを発する場として会報も発行。秋には東北の風物詩・芋煮会を開催して親睦をはかる。
ささやかながら細くとも長く真の復興まで意を注ぎ続ける所存。
私が被災地を訪れたのは地震発生翌年の8月に宮城県の仙台、石巻と南三陸町。そして3年前の9月には福島県の南相馬と原発事故で帰還困難となった区域、宮城県の仙台、松島、石巻と気仙沼、昨年8月は岩手県の陸前高田へと3度足を運んだ。
最初に訪れた南三陸町は1年5か月後とはいえ生々しく残る惨状に息をのんだ。
災害対策庁舎は震災遺構として残すかどうか議論されている。
2度目は、原発事故が起った福島県、新幹線で福島駅に降り立つと「ようこそ、福島へ」の看板。マイクロバスに乗り込んで、語り部の声に耳を澄ます。車内から見るだけで下車は不可との説明を受けてバスは浪江町に入った。あちこちに設置されているモニタリングポストの線量計が不気味だった。
人っ子一人いない駅前。
民家の入り口には鍵のかかった柵、礎石のみが残り雑草の生い茂る住宅街、まさに死の町だった。
遠くに福島第一原発の排気塔が見える。
この先立ち入り禁止との看板があり、バリケードの先には警備員の姿があった。
昨年8月には奇跡の一本松で名の知れた陸前高田を訪れた。震災後の復興状況と伝統の気仙「けんか七夕」を見るためだった。
あの奇跡の一本松は10メートルもの防潮堤の外、海側に見えた。嵩上げされた町の中心部は道路や区画工事の真っ最中、工事現場そのものだった。カーナビも機能せず、ホテルにたどり着けずに苦労した。
嵩上げされた新たな土地で「けんか七夕」をみた。900年余り前、先祖の慰霊のために行われた祭り。太い欅の丸太を輪切りにしたものを車輪とし、その上にやぐらを組み竹割に赤や黄色に染めた和紙で飾った山車七夕に7~8人の若い衆が乗り込み、2本の曳き綱をそれぞれ200人ほどの祭り組曳手によって勇壮な笛や太鼓に合わせ、練り歩きながら山車と山車を豪快にぶつけ合う。「けんか七夕」と呼ばれる所以である。
祭りは人びとに土地の記憶を呼び覚まし、心の復興を促す。近年頻発する自然災害、この災害列島に暮らす私たちの覚悟が試されている。
代表取締役 加藤慶昭
(平成31年2月18日記す)