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展望

2025.10.21 06:18

Facebookあいことばさん投稿記事【人は、なぜ生まれてくるのか】

産婦人科医・医学博士、池川明氏の心に響く言葉より…

人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?

これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。

臨死体験をされた方々の複数の証言によると、死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、次の2つのことだけだとも言います。

1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)

2. 自分の人生を楽しんだか?

であるにも関わらず、私たちが「生きているのがつらい」と感じることが多いのは、なぜでしょうか?

私が、多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、たぶん、「自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。そしてつらい思いをしたからこそ、同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」からだろう、と思います。

つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、他人の心に寄りそえないし、魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。

つらさのただ中にある人は、実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、真剣には聞かないものです。

なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、苦労する必要があるのかな、とも思います。

実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。

着るものにも、食べるものにも困らない世界で、食べようと思えば、いくらでも食べられて、ダイエットの必要もない、すごく良いところなのだそうです。

ですので、この世に生まれてくる魂たちは、“非日常”を求めて…まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、この世に生まれてくるようなのです。

楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので…それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。

また、空の上と、この世とでは、どうも時間の流れも違うようです。

空の上は時間がすごくゆっくり流れていて、地上は速いのです。

私たちの100年と、赤ちゃんとして過ごした数週間とか数日間は、あちらの世界に戻るとそう変わらない、と多くの子が証言しています。

空の上では、時間という概念がないのだけれど、あえて言うと、時間がものすごくゆっくり流れている、と。

だから地上に生まれて来ると、魂の成長が、空の上にいるときよりもはるかに早まるのだそうです。

いわば、この世は、魂レベルの促成栽培地なのです。

空の上では、小学校1年~6年までに千年かかるのに、地上では6年で済むとか、そういった感覚で考えていただけると良さそうです。

ですから、お得なのです。だから、みんな、地上に来たがるわけです。

ですから、「早く魂を成長させたいな」という人が優先的に生まれて来ているとも言えます(実際は、そうした成長とは無関係に、この地上に、ただただ多くの刺激や体験を求めに来ている魂も少なくないようですが)。

『ぼくが生まれてきたわけ』KADOKAWA 池川氏はこう語る(同書より)。

『子どもが望む愛、注いでほしい愛って、何なのでしょうか?

これがけっこう難しいんですけど、長年調べてきてわかったのは、それはどうも「笑顔」のことのようなのです。お母さんの笑顔。

妊娠中にニコニコしていて、生まれたとき、赤ちゃんの顔を見てはニコッとして、その後、子どもが大きくなって「ねぇ、ねぇ、お母さん」って言ってきたら、「なあに?」ってニコッと笑う…これが愛情なのです。

愛情イコール、笑顔だったんですね。

でも、たいていのお母さんは、妊娠中からしかめっつらをしています。

病院で、これをやっちゃダメ、あれをやっちゃダメって言われますからね。

食事や行動も制限されて…具合は悪いし、旦那は理解に乏しいし。

そうして苦労して生んだ後は、赤ちゃんは泣きますし…さんざんなんですね。

そういうお母さんを、お子さんから見ると、お母さんは、いつも眉間にしわを寄せていて、つらそうな顔をしているんです。

子どもは、自分が生まれて、お母さんが笑顔になるのを期待しているのに、笑顔にならない。

すると、自分は生まれちゃいけなかったかな、と思うんです。それで、少し大きくなってくると、今度は怒られるわけです。

「あんたが、こんなことをするから!」「あんたさえいなけりゃ、お母さんは苦労しないのに!」とか。

そうしたら、「もう空に帰ろうかな」と思う子も出てくるのです』

人生はジェットコースターのようなものだという。山を乗り越えると、次は坂を猛スピードで下(くだ)る。すると、また次の山がある。

苦しいことも同じで、乗り越えたと思ったら、また次のイヤなことがやってくる。

しかし、何度も何度もその山や坂を越えていくと、だんだんとそのアップダウンの傾斜は緩やかになってくる。

我々は、そのジェットコースターに乗ることを、自ら選んで生まれてきた。

目の前に起こるできごとを、すべてそのように考えると不平や文句は言えなくなる。

陰徳を積み、笑顔で人生を楽しみたい。


FacebookSammaditthi Asakuraさん投稿記事

親切をしたときに期待通りの見返りが得られないと、「こんなにやってあげているのにどうして!」と見返りを求める心が怒りへと変わります。その怒りによって自分自身が苦しむことになります。釈尊は因果応報により善行善果、悪行悪果の法則を説かれています。親切をしても見返りを求める心は偽善ですので善果とはなりません。見返りを求める心が悪果を生みますので無償の善行が大切になります。


https://fragie.exblog.jp/30923228/ 【「俳句展望」(現代詩手帖 12月号より)】より

(略)

「現代詩手帖」12月号が届く。

俳人の外山一機さんが、「俳句展望」を書かれている。タイトルは「過去と未来のはざまで」。二段組8頁におよぶものであるが、ここではふらんす堂刊行書籍のものについて触れたい。

ただ、「Ⅰ句集」の最初の部分で話題の生駒大祐さんの句集について触れていて興味深く読んだのでそこはちょっと紹介したい。

今年は生駒大祐が第一句集『水界園丁』(港の人刊)を上梓した。上田信治は「プレテキストと複雑 生駒大祐『水界園丁』の方法について」(「週間俳句」2019・9・8〔前編〕、9・22〔後編〕で、「『水界園丁』には、先行句の存在を、思わせる句がある」とし、いくつかのパターンを紹介した後で、さらに「一見、書かれていないことが、先行句を借りて書き込まれている」として、〈渚にて金沢のこと菊のこと〉(田中裕明)を引きつつ生駒の〈覚えつつ渚の秋を遠くゆく〉について次のようにいう。

「渚」と「秋」というキーワードを通して、裕明の句の時空と、生駒の句の時空はつながっていて、この句の場合は、そのつながっているということ自体が、句の内容になっている。

先行句と応答するように綴られる生駒の句は、俳句史や俳句表現のアーカイブに遊ぶことの喜びを教えてくれる。しかし、その一方で、今日において俳句を書くということが、もはやこのようなメタ的で狭隘な営みとしてしか成り立ちえないほどの困難に突き当たっていることを思わせもする。

宮城正勝氏の句集『真昼の座礁』(ボーダーインク刊)をとりあげたあと、

ところで、自らの生死と戦中・戦後史とを交わせるように書くのは宮城だけではない。今年『俳句日記2018 そして、今』(ふらんす堂)の上梓を予定しながらその直前に亡くなった大牧広や、第十一句集『草木』(角川書店)を上梓した小原啄葉もそうした作家の一人である。

 昭和二十年五月の空は澄んでゐた   大牧 広

 いわし雲死者の数には及ばざる    小原啄葉

大牧も小原もこうした書きかたを長年続けてきた。彼らの生にもたらされた新しい状況と絶えずぶつかっていながら、昨日の自らの俳句を超えるような新しい俳句を書くことを志向するのではなく、昨日の繰り返しを敢えて選びとってきたのである。俳句を書くという習慣の創造だ。小原は『草木』のあとがきで「先に戦争体験の句を作り、続いて東日本大震災などにも触れてみたが、その後はもっぱら自然を対象に日常生活を詠ってきた」と書いているが、異なる記憶が幾重にも折り重なり、日々の暮らしのなかでふいに呼び起こされる――こうした意識の移ろいは小原においては自然なるものなのであろう。そして呼び起こされたそれらは、習慣としての句作のなかで表出されていく。いやむしろ、句作という習慣がこうした記憶を呼び起こすのかもしれない。とすれば、彼らにとって、句作とは、生の記憶と分かちがたく結びついているような、生の尊厳と関わる切実な営みなのではあるまいか。

昨年末に刊行された『新興俳句アンソロジー 何が新しかったか』(ふらんす堂)についてもふれておく。これは新興俳句運動に関わった四十四名の俳人の百句抄と評論に、新興俳句にまつわるコラムを付したものだ。執筆はいずれも若手俳人が担っている。新興俳句は、その論じかたの歴史的な変遷を思うならば、その扱い方に慎重さが求められるものだろう。このアンソロジーが出るやいなや複数の総合誌が新興俳句の特集を組んだのは、それ自体は喜ばしいことだが、こうした歴史的な文脈をどれほどふまえているのかやや疑問であった。

と書き、新興俳句運動とその後の俳句史を体験的に知る最後の作家としての伊丹三樹彦氏が亡くなったことを惜しんでいる。

ほかに全句集として『藤原月彦前句集』(六花書林刊)、『柿本多映俳句集成』(深夜叢書刊)、『寺田京子全句集』(現代俳句協会刊)高橋龍選句集『人形舎選句帖』(高橋人形舎刊)、『鈴木石夫句集集成 裏山に名前がなくて』などについても触れている。

ほかに神野紗希さんの「俳句」6から7月号の評論「ミューズすらいない世界で――俳句とジェンダー」について、

(略)神野の評論もまた、俳句表現そのものへの批評というよりも俳壇に対する批評というべきものだった。その意味では、神野の指摘を「文学的」な問いからは切り分けて受け取るべきだとする福田若之の認識は真っ当なものだ(〈文学的〉な問いを退けて神野紗希の時評から考える」「週間俳句」2019・7・21)ようするに神野は、俳句に関わる人間に、いますこし節度ある態度を求めていただけなのではなかったか。「俳壇」と呼ばれる場所は、俳句表現に対するフェミニズム批評が成立するにはほど遠い場所なのである。

と外山一機さんは記している。。。。

→〈文学的〉な問いを退けて 神野紗希の時評から考える  福田若之 (「週間俳句」 2019・7・21)

もっともっとたくさんの書籍が紹介されていたのだけれど、すっげえ省略してしまった。。。

興味のある方は、ぜひに「現代詩手帖」12月号をお読みくださいませ。

デジカメがとうとう壊れてしまった。

よく働いてくれたものである。

iPhoneがあるからいいじゃないっていう人間もいるのだが、iPhoneのあまりの鮮明さよりも、デジカメのもっている柔らかさがわたしは好きなのだ。

奥行きと言ってもいいかもしれないが。。

明日、仕事の合間に買いに行ってくるつもり。

実は今日行こうと思って忘れちゃったのだ。。。