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杉並区 33 (21/05/25) 旧高井戸町 (高井戸村) 久ヶ山村

2025.05.22 07:53

久ヶ山村 (久我山村)

小名 札野

小字 下ノ原

小字 東原

小名 堂屋敷 (小字 鍛治屋敷)

小名 本村

小字 中屋敷

小字 宮下

小名 塚ノ腰

小字 三屋


今日は杉並区にあった村の一つの久ヶ山村 (久我山村)を散策する。これで杉並区にあった江戸時代の全ての村を訪問したことになる。


久ヶ山村 (久我山村)

久我山村は古い時代には久ヶ山村と記されている。久我山の地名由来については不明だが、「くが」は陸地や空閑地を意味し、「やま」は現在でいう山とは異なり、樹木の繁っているところを意味していた。このことから、雑木林の中の空地、武蔵野の森林を切り開いたところ、つまり武蔵野の新開地の意とする説がある。また、昔は「こがやま」と発音されていたのが、1933年 (昭和8年) に帝都電鉄 (現 井の頭線) が開通して、駅名に「くがやま」と振り仮名がつけられ、それが普及したとする話もある。

旧久我山村は現在の杉並区の南西部に位置し、北部は江戸時代の松庵村、中高井戸村、大宮前新田に、東部は上高井戸村に接していた。高井戸村の西部と南部の村境で、現在の三鷹市、武蔵野市、世田谷区に接している。

久我山村は江戸時代の正保年間 (1644 ~ 1648年) の頃から幕末までは天領だった。久我山村には堂屋敷、札野、本村、塚ノ腰の四つの小名があり、屋敷、中屋敷、屋敷添、屋敷際、寺ノ前、寺ノ脇、伊勢前、伊勢脇、札野境、下ノ原、東、森谷、関上、向原、堀際、堀向、鍛冶屋敷、満 (まま) の18の小字で構成されていた。(小字構成は時代によって変わっている)

1889年 (明治22年) に町村制が施行され、久我山村は他の5ケ村と統合され高井戸村が誕生している。この時に旧久我山村は大字久我山となり10の小字に分割されている。その後、1932年 (昭和7年)、更に1963~1965年 (昭和38~40年) の町名改正で下図の様に行政区が変遷している。

1896年 (明治29年) ~ 1909年 (明治42年) の地図を見ると、人見街道沿いに集落が集中し、それ以外は北と南の古道沿いにも小集落がみられる。戦前までは、集落が少し拡張しただけでほとんど変化はみられない。戦後、急速に住宅地が拡大し、ほぼ全域に広がっており、2000年以降は公共施設以外は、住宅地は飽和状態となっている。


久我山村の史跡、スポット



小名 札野

久我山村の北部は小名 札野だった。江戸時代、札野は武蔵野の原野開発のための札場で、ここに来て農業に励む者は、重罪者でも罪を許すとあったと伝わっている。小名 札野は1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、上高井戸村に含まれ大字 久我山となり、それまでの小名が廃止され、旧小名 札野は北ノ原、東ノ原、下ノ原、西ノ原の四つの小字に分かれている。


小字 下ノ原

小字 下ノ原は小名 札野にあった四つの小字の一つで、1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、上高井戸村に含まれ大字久我山小字下ノ原となっている。小字下ノ原は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 東原と共に久我山一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 下ノ原は小字 東原と共に久我山五丁目となり、西の一部は久我山四丁目に含まれ、現在に至っている。


久我山墓地 (光明寺跡)

旧小字 下ノ原の西の端程に久我山墓地がある。江戸時代にはこの南側に光明寺があった場所になる。案内板では明治時代に入って、廃仏毀釈で廃寺になり、光明寺内に安置されていた仏像は墓地に移されている。


六地蔵菩薩立像 (254番)

墓地の入口には小堂が1978年(昭和53年) に建てられており、堂内には、10基の供養仏が祀っていいる。もとは旧久我山村の各所にあったものを、この場所に移設している。堂宇に入ると左右に 3基ずつ1723年 (享保 8年) に造立された六地蔵菩薩立像 (254番) が置かれている。この六地蔵は、ここから少し南の上道 (後述) 沿いにあったが、戦後にこの地に移されている。

この六地蔵については言い伝えがある。

昔、光明寺が久我山稲荷神社の西側、元坊坂の坂上にあった江戸時代の中頃、住職が女好きの生臭坊主で、檀家の美しい後家さんに手をつけるというスキャンダルを起こしたため、ある晩、村の若者たちから袋叩きに遭い、気絶した。若者たちは死んだと思い、後難を恐れ、住職を神田川へ投げ込んで逃げ帰った。川の水の冷たさに息を吹き返した住職は、事の次第を代官所へ訴え出たため、たちまち六人の若者が捕らえられ、取り調べの結果、六人の若者たちは終身刑を言い渡され、皆獄中で亡くなり、また訴人の住職も非があるというので追放となり、寺は取り潰しとなった。村人は、非業の死を遂げた若者たちの霊を慰めるため、六地蔵を建立し、後に寺が現在地に再建された際、このお地蔵様もここへ移された。」という。

この言い伝えは多くの点で事実とは異なっている。一つ目は光明寺騒動については公事方御定書にその騒動の顛末と判決が残っており、それによれば、大宮前新田の弥五兵衛が久我山村の新六を証人に立て、立木を担保に、光明寺から金を借り、返済期日が過ぎても借金を返さないため、光明寺の住職が「金を返さないと立木を切るぞ」と催促に行ったところ、弥五兵衛、新六と口論となり、二人になぐられた。そこへ近所の三郎兵衛、久之丞、半六等がかけ集まって住職をなぐって気絶させ、死んだと思って稲荷神社の裏山へ遺棄したところ、住職が生き返り、事件が明るみに出て五人は捕らえられ、弥五兵衛は取調べ中牢死し、1746年 (延享3年) 11月に、新六は死罪、三郎兵衛、久之丞、半六の三人は所払いの罪が言い渡されたとある。二つ目は六地蔵を若者たちの霊を慰めるために造立したとあるが、六地蔵は、判決が下りた1746年 (延享3年) より23年前の1723年 (享保8年) に建立されている。三つ目はこの騒動で寺が取り潰しと伝わっている点で、実際には、江戸時代の半ば頃、稲荷神社下の空き地で行われたどんど焼きの火が光明寺へ飛火して全焼し、後に光明寺が共同墓地の南側に再建される迄の一時期、寺がなかった事が誤って伝えられている。


庚申塔 (257番)、 念仏供養塔 (258番)、地蔵菩薩立像 (256番)、聖観音菩薩立像 (255番)

正面には、向かって左には1665年 (寛文5年) 造立の舟型石塔の庚申塔 (257番) が置かれているが、庚申塔の初期にあたり、その後一般的になった青面金剛像ではなく、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。その右は1708年 (宝永5年) に念仏供養の為に造立された丸彫りの錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像 (258 番)、更に右には1719年 (享保4年) 銘の丸彫りの錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像 (256番) には茶・燈明料として土地を永代寄進したことが刻まれている。右端には1670年 (寛文10年) の舟型石柱の日待塔で、上部には梵字種字のसः (サク) が刻まれ、その下に聖観音菩薩立像 (255番) が浮き彫りされている。


馬頭観音

小字 下ノ原の南、小字 東原との村境の道がかつては上道と呼ばれており、道沿いの住宅街の中に「馬頭観世音」 と刻まれた自然石にが置かれている。裏側には明治三十六年 (1903年) と造立年が刻まれている。


はだか稲荷

馬頭観音の前の道を東に進むと、人見街道に出る。この道の角、小字 下ノ原と小字 東原の境に稲荷神社の祠が置かれている。江戸時代にはこの辺りには秦家 (秦野家) の一族が住んでいた。この祠はこれは秦家の屋敷神になる。はだか稲荷と呼ばれるようになった由来については、秦家 (はたけ) が訛って 「はだか」 になったという説や、祠の周辺は畑で木も生えていなかったので 「裸稲荷」となったという説がある。



小字 東原

小字 下ノ原の南に隣接しているのが小字 東原で、文字通り、小名 札野の東の端にあたる。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、上高井戸村に含まれ、大字久我山小字東原となっている。小字 東原は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 下ノ原と共に久我山一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 東原は小字 下ノ原と共に久我山五丁目となり、現在に至っている。


庚申塔 (259番)

小字 東原の北、小字 下ノ原との村境の旧人見街道 (江戸時代には久我山街道、府中道) の分岐点に1722年 (享保7年) に造立された庚申塔 (259番) が残っている。駒型石塔の上部に梵字種字のवं (バン) が刻まれ、その下左右に日月、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。庚申塔の側面には 「これよりみぎいのかしら三ち」「これよりひだりふちう三ち」と刻まれ、かつては井之頭弁財天への参詣者の道しるべとなっていた。 「ふちう三ち」は府中街道で下道とも呼ばれ、旧人見街道と重なっており、この先で、旧人見街道から別れ久我山稲荷神社の前を通り、神田川を南に越えて、再度、旧人見街道に重なっている。右に分岐するか「いのかしら三ち」は上道 (後には馬車道とも) と呼ばれていた。この庚申塔は杉並区内で最も古い道標付庚申塔だそうだ。


笠森坂、笠森稲荷社

庚申塔から人見街道を西に少し進む。この人見街道は江戸時代には久我山街道と呼ばれており、さらに時代を遡ると、鎌倉街道の一つだった。

庚申塔の所で分岐した井の頭道に向かって50m程のなだらかな登り坂がある。坂上に笠森稲荷と呼ばれた屋敷神があった事から、笠森坂と呼ばれている。

笠森稲荷社は元々は瘡守稲荷社と書かれていた。屋敷神で民家の庭に置かれているそうだが、民家内なので訪問はしていない。(写真は資料から) 社前に由来を記した石碑があり、それによると、ここの先祖で三代目が愛妻が流行風邪で亡くし、1751年 (宝暦元年) に妻の菩提を弔うため日本全国の神社仏閣を巡拝する回国修行に出掛け、三年後に回国修行を成し遂げ帰国した。回国の途中、摂津国芥川の瘡守神社の分神を屋敷内に祀って、「瘡守稲荷」と名づけ、瘡 (性病や皮膚病) の病人が願をかければ、必ず治ると言い広めた。瘡が治った人が何人も出て、評判が高まり、東は新宿、西は八王子辺の人も参詣に来たという。門前には豆腐、油揚げ、絵馬を売る茶店ができる程だったという。


不動明王像

人見街道を更に西に進むと、みちいの民家の間に火焰光背不動明王像が祀られている。足元には脇侍の制吒迦童子と矜羯羅童子も見られる。造立年は不詳だが、江戸時代に大磯の中島久萬吉邸内 (明治時代の政治家、古河電気工業社長) にあったものを移設したと伝えられている。



小名 堂屋敷 (小字 鍛治屋敷)

小名 札野の小字 東原の南側は現在の久我山駅と富士見ヶ丘駅の間に細長く伸びた小名 堂屋敷だった。地名の由来は分からなかったが、堂屋敷から鍛治屋敷に変わっているので、何かいわれがありそうだ。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、小名は廃止され、旧小名 堂屋敷は上高井戸村に含まれ、そのまま、大字久我山小字鍛治屋敷となっている。小字 鍛治屋敷は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に久我山一丁目の一部となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 鍛治屋敷は久我山二丁目に含まれ、現在に至っている。


交通安全地蔵菩薩像

久我山駅近くの踏切の手前に丸彫りの地蔵菩薩が置かれている。この踏切は「魔の踏切」と呼ばれ、事故が頻発し、犠牲者が出ていた。踏切の隣にある庄司石材店の5才だった息子さんが踏切事故で亡くなり、その子供を供養し、その踏切を通る歩行者の交通安全を加護するために、1974年 (昭和49年) に愛知県の仏師に息子さんの姿で地蔵を造立している。地蔵の正面には「交通安全」と刻まれており、賽銭箱が設置されている。毎年、店主は賽銭を集めて交通遺児育英会に寄付している。また、地蔵は帽子をかぶっているが、毎年地蔵の帽子は季節に応じて変更されているそうだ。


小名 本村

小名 札野の小字 北ノ原の南が小名本村で、江戸時代から明治時代にかけては久我山村の中心部だった。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、小名は廃止され、旧小名 本村は中屋敷と宮前の二つの小字に分割されている。


小字 中屋敷

旧小名 本村の北側が小字 中屋敷で、村の鎮守だった久我山稲荷神社がある。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、小名は廃止され、旧小名 本村は上高井戸村に含まれ、この地域は大字久我山小字中屋敷となっている。小字 中屋敷は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字北ノ原、西ノ原、宮下と共に久我山三丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 中屋敷は久我山三丁目と久我山四丁目にまたがり、現在に至っている。


久我山稲荷神社

小名 本村の小字 中屋敷内、神田川を見下ろす南斜面の高台に久我山稲荷神社が鎮座している。この稲荷神社は久我山村の鎮守で、祭神は保食命で、1907年 (明治40年) に字北原にあった天祖神社 (神明社) を合祀して、その祭神の大日孁貴神を相殿として祀っている。江戸時代には光明寺が別当だったが、光明寺は明治初年神仏分離令により廃仏毀釈が起こり廃寺となっている。


一の鳥居、庚申塔 (253番)

稲荷神社の前の道は府中街道で村では戦前迄は下道と呼ばれていた。この下道から石段を登る (文政2年) に寄進された一の鳥居があり、右手奥に小さな堂宇がありがあり、中には1703年 (元禄16年) に造立された駒型石塔があり、日月が刻まれ、合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。祭神は猿田彦大神で、神道系の庚申塔は猿田彦を祀り像が彫られているものもある。この庚申塔は 「西向きの庚申様」 と呼ばれ、砧の槌を納めて養蚕の豊作と家内繁栄を祈願していた。現在でも正月元旦には金銀の槌を授与して氏子の幸福を祈る習わしが残っている。


二ノ鳥居、三ノ鳥居

一の鳥居をくぐると、左右に常夜燈が置かれ、その先に石段があり、登ると1936年(昭和11年) に寄進された赤い木の二ノ鳥居、更に石造りの三の鳥居があり、境内に続いている。


手水舎、神輿庫、神楽殿、社務所

石鳥居をくぐり境内に入ると左手に手水舎と神輿庫、右手に1982年 (昭和57年) 新築された神楽殿/額堂 (写真下) と1988年 (昭和63年) 竣工の社務所が置かれている。


社殿

石畳の参道を進むと左右に、1895年 (明治28年) 奉献の神狐石像とその後ろに1857年(安政4年) と1853年 (嘉永6年) に奉献された常夜燈が各一対置かれている。石畳の先には1936年 (昭和11年) に改築された銅板茸の社殿が鎮座している。社殿は拝殿、その奥に本殿 (写真左下) となっている。本殿の裏側にも石造りの鳥居 (写真右下) があり、裏参道になっている。


境内未社 (八雲神社、天満天神)

拝殿の西側には石鳥居が建っており、その手前には1838年 (天保9年)奉納の手水鉢が置かれ、奥には境内末社の八雲神社 (祭神 大己貴神) と天満天神 (祭神 菅原道真) が祀られている。

八雲神社に祀られている大己貴神 (おおなむら) は大国主命の事で、医薬の神とされている。この稲荷神社では7月24日に疫病消滅を祈願する湯立神事が行われている。この日には境内で 「湯の花神楽」 が奉納されている。昔、久我山村に疫病が流行し、多くの人が亡くなった、この時に 「湯の花を以って、村人の罪けがれを祓え」 とのお告げがあり、村人は神前で神楽を奉納し、釜にお湯を沸かし、神主が榊の小枝で釜 の湯をかき回し、その榊で村人たちのお祓いをしたところ、疫病が退散したと伝わっている。日清戦争 (明治27 ~ 28年)の折、夏祭りを中止したところ、赤痢が流行し、夏祭りを再開し現在でも続けている。その模様を紹介している写真があったので掲載しておく。


人心同の石碑、力石

境内の東にも神社への入り口があり、赤鳥居が建っている。境内東の神楽殿の側にも神輿庫があり、その傍にの脇に、120キロの力石と 「人心同」と刻まれた石碑が置かれている。これは久我山出身で小笠原島で事業に成功し砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門が、ここに清朝末期のクーデターに失敗、日本に亡命し、小笠原に移されていた朝鮮の志士の金玉均 (キム・オッキュン 1851 ~ 94) と友好を深め、「故郷の久我山の老父へ親孝行もできない」 と互いの身の上で共感し、自身の不孝を後世への戒めとするため、石碑を建てることを金玉均に依頼し、金玉均は、明治21年7月に「人心同」の四文字と、その背景を記した漢文を書き贈ったもので、久我山の父に送った。この「人心同」を石碑としてこの稲荷神社に建立している。「人心同」は 「体は 離れていても心は同じ」 という意味で、碑文には

余至小笠原島与飯田作右衛門君
結識君天性至孝間里称之君嘗言我生幼而多病成童以来從事商務無一所出現寄寓干此島然有老父年踰七旬家住東京之武蔵国遠不能晨昏侍陪只切堂雪之私言念鞠育劬劳之恩吴天罔極思欲堅一碑於左父所居之地銘載吾不孝之罪以戒示子孫君其為我記之余賓感其言遂即席書此以贈
戊子七月上舞金玉均 印
明治二十一年書
和訳: 彼は若くして家を出て今は小笠原で商売を行っているため、武蔵国に住んでいる父親に親孝行ができないでいる。大きな親の恩のため、自分の不孝を記した石碑を建てて子孫への戒めにしたいからと碑文を頼まれ、その心根に打たれその場でこの文を書いて贈る」

と刻まれている。

金玉均 (キム・オッキュン 1851 ~ 94) は、朝鮮李朝末期の政治家で、1880年 (明治13年) に日本へ派遣され、明治維新後の日本の目覚ましい近代化を見て、朝鮮の改革には日本の援助が必要と考え、帰国後、開化独立党を組織し、李王朝第二十六代高宗の妃の閔妃一族の親清派の事大党と対立し、1884年 (明治17年) に、日本公使館護衛の軍隊の協力で王宮を占領し、事大党幹部を殺害して、独立党政権を樹立したが、三日後、袁世凱率いる清国軍の攻撃に敗れ、クーデーター (甲申政変) は失敗し、金氏等9人は日本へ亡命している。日本政府の金氏に対しては冷淡で、清国に遠慮して、1886年 (明治19年)に金氏を小笠原島へ移し幽閉している。その後、金氏は北海道へ移され、1891年 (明治24年)に自由の身となり、東京に戻っている。1894年 (明治27年) に朝鮮の、閔氏一派のスパイに誘い出され上海へ渡り、同地で刺客に狙撃され、43才で暗殺されている。塩漬けにされた死体は清国軍艦で朝鮮へ送られて、凌遅刑の後さらし首の極刑に処せられている。金玉均の暗殺事件は日清戦争のための日本国内の世論統合と対外的な名分獲得に利用され、この5ヶ月後に日清戦争が勃発する事になる。

韓国でのこの金玉均に対する評価については、昔は「親日の売国奴」 と「改革派愛国者」 と二分されていたが、近年では韓国の近代化への布石を残したという功績を再評価する傾向が強い。金玉均が登場する韓国ドラマも幾つかあり、その内、見たものでは、明成皇后(2001年) や 済衆院(2010年) では否定的には描かれていない。金の遺髪や衣服の一部は日本へ持ち帰り、犬養毅や頭山満らの支援で青山霊園に墓 (写真右下) が置かれている。



小字 宮下

小名 本村 小字 中屋敷の南に隣接しては小字 宮下だった。宮とは久我山稲荷神社の事なので、その下側にあった地域ということでこの地名になったのだろう。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、小名は廃止され、旧小名 本村は上高井戸村に含まれ、この地域は大字久我山小字宮下となっている。小字 宮下は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字北ノ原、西ノ原、中屋敷と共に久我山三丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 宮下は久我山三丁目の一部となり現在に至っている。


大熊坂、大熊稲荷

久我山稲荷神社の前の道は旧府中街道で、村では下道と呼ばれていた。この道を南に進み神田川にかかる宮下橋を渡ると緩やかな登り坂になる。この坂は大熊坂と呼ばれていた。

この坂を登った所、新府中街道 (人見街道) に合流している場所に大熊稲荷と呼ばれた屋敷神があったことから大熊坂と呼ばれていた。10年程前迄は、木が欝蒼と茂った200年ばかりの屋敷森だったが、その後、宅地開発で消滅し、面影は残っていない。江戸時代、神田川右岸のこの大地一帯は大熊家の土地で、この屋敷森の中に慶長年間 (1596 ~ 1615年) に大熊家が富士吉田口の富士浅間神社より分神を勧請して祀った小祠が安置されていたのだが、その後、供養が中絶し、大熊家の子孫が供養の為に1848年 (弘化5年) に石碑を建立したという。現在では住宅地となり、この石碑は先に訪れた久我山稲荷神社に移設されていた。角柱型石碑は二つあり、その一つは、1848年 (弘化5年) に建てられ、「富士仙元大菩薩」、「抑元来慶長年中富士山越 北口吉田ヨリ此処奉勧請置候処古段々中絶供養、以是来世為僧心印置申候」、「弘化五戊申正月吉日大熊氏」 と刻まれており浅間神社を祀っていたと思われる。もうひとつには8年後の1856年 (安政3年) に建てられ、 「正一位稲荷大明神 安政三内辰年二月吉日大熊氏講中」と刻まれているので、かつては富士山信仰と稲荷信仰の祠があった事がわかる。



小名 塚ノ腰

小名 本村の南、神田川の南側が小名 塚ノ腰で、1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、小名は廃止され、旧小名 塚ノ腰は三屋、向ノ原、堀向の三猿つの小字に分割されている。


小字 三屋

小名 塚ノ腰の西側は小字 三屋で、北の神田川と南の玉川上水に挟まれた地域になる。1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、小名は廃止され、旧小名 本村は上高井戸村に含まれ、この地域は大字久我山小字三屋となっている。小字 三屋は、1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に旧小名 塚ノ腰の残りの二つの小字と共に久我山二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) の町名改正で、旧小字 宮下は久我山三丁目の一部となり現在に至っている。


庚申塔 (252番)

小字 三屋の西端、三鷹市牟礼との境に小さな堂宇がある。東八道路の再整備、牟礼橋架け替えで、少しだけ移されて新しくされたもの。堂宇中には1700年 (元禄13年) に造立された駒型石塔の庚申塔 (252番) が安置されている。石塔上部に猿が一匹のみ浮き彫りされている。通常は三猿なのだが一猿は珍しい。石塔正面の右側には「奉供養庚申」、左側には 「元禄十三庚辰年十一月廿六日」 と刻まれ、一猿の下に寄進者25人の名が記されている。


牟礼橋 (どんどん橋)

庚申塔がある場所は玉川上水路畔で、庚申塔側に牟礼橋が架かっている。(この場所は三鷹市牟礼になる)  この橋は 「どんどん橋」 と呼ばれ、橋の傍には 「どんどんはし」 と刻まれた石塔が建っている。玉川上水がドンドンと水音を立てて流れていたのでこう呼ばれたという。少し左には1757年 (宝永7年) に建てられた隅丸角柱の石橋供養塔があり、「石橋建立供養之碑」と刻まれている。側面には再建年の寛政九年 (1797年)と嘉永二年 (1849年) と記されている。




これで33日間にわたった杉並区内の史跡、スポット巡りが終了。明日は羽田から沖縄那覇へ帰る。今回購入した新しい自転車も運ぶ。次回、東京訪問では中野区巡りを始める予定。



参考文献