色なき風
https://www.umashi-bito.or.jp/column/735/ 【色なき風】より
―― 吹き来れば身にもしみける秋風を 色なきものと思ひけるかな(紀友則『古今六帖』)
身にしみる秋風を色なきものと歌った平安の歌人・紀友則。色艶やかに染まる錦の秋には、まるでそぐわない「色なき風」ですが、出どころは万物の成り立ちにありました。
天と地の間に流れる精気、木・火・土・金・水の陰陽五行説になぞらえると、秋は「金」、その配色は「白」、これを下敷きに秋の風を「色なき風」と歌ったのです。
一方、藤原朝臣敏行は白を色の遣いと見たようです。
――白露の色はひとつをいかにして 秋の木の葉をちぢに染むらむ(藤原敏行『古今和歌集』)
白露は白一色にもかかわらず、どうやって秋を錦に染め分けるのか。
白を色なき風と見る人もいれば、木の葉をさまざまな色に染めるのは白い露と見る人もいる。見方は人それぞれですが、色なき風も白露も、美しい色に魅せられたがゆえの思いなのかもしれませんね。
色のないところに色を見みるのは、なにもない白だからこそ。町も山も染め上げる色なき風に吹かれると、心の風景も美しく色づいてゆくような気がします。
https://fragie.exblog.jp/37008747/ 【大自然の循環の中に生きる全てのものへの祈りの心をもって作句していきたい。】より
(略)
新刊紹介をしたい。藺草慶子句集『雪日(せつじつ)』
四六判ハードカバー装帯あり 214頁 二句組 令和俳句叢書 初句索引 季語索引付き
俳人・藺草慶子(いぐさ・けいこ)さんの第5句集となる。前句集『櫻翳』では、星野立子賞を受賞しておられる。
「『雪日』は私の第五句集である。主に平成二十七年から令和六年までの三三八句を収める。」と「あとがき」にある。
平成27年(2015)から令和6年(2024)ということであれば、ちょうど10年間の句集である。この間、著者の藺草慶子さんは、師・斎藤夏風を失い、父を失い、敬愛する先輩俳人の黒田杏子を失った。本句集は、日本の伝統行事に取材しつつそれらを闊達に詠む一方、亡き人を追悼する句集ともなった。生き生きと作句の現場を活写する俳句にわたしたちは驚きつつ、一方愛する人たちとの別れなど生死の陰翳が詠まれた俳句にも心うたれる、そんな奥行のある句集である。
この句集を貫くものは、「大自然の循環の中に生きる全てのものへの祈りの心をもって作句していきたい。」と作者が「あとがき」で書いているように、人間の営みをふくめた万物すべてへの「祈りの心」であるのだと思う。
本句集の担当は、Pさん。
「残しておくべき伝統行事を丁寧に詠むことをライフワークとされ、また夏風先生やお父様との別れという悲しみを大切に詠まれた一集だと思います。」とPさん。
Pさんはたくさんの好きな句をあげてくれたが、抜粋して紹介したい。
沢蟹にいちまいの葉の流れ来る 吉野川鷹現れて影迅し
桃咲いてあつといふ間にお婆さん 菜の花や日暮れは母の匂ひして
弟はいつも弟さくらんぼ 水渡り来し一蝶や冬隣
相席の人に雨の香十二月 雪の夜の尿瓶にいのち響きけり
抱き起こす父は夏掛ほどの嵩 秋日傘骨の音してひらきけり
行事に取材した句も、藺草慶子という俳人の力量を感じさせるものが多いのだけど、ご家族を詠んだものをおもに選ばせてもらった。
この句集に収められている作品は、ふらんす堂webサイトで2023年に「俳句日記」をしていただいた時の作品も収録してあり、わたしも覚えている句も多い。
桃咲いてあつといふ間にお婆さん
この一句は、「俳句日記」で発表されたときに、よく覚えている。笑ってしまったけど、良い句だなあって思った。なんといっても「桃の花」がいい。藺草慶子さんは、わたしよりも若干(ということに)お若いけれど、こんな風な感慨を持つのかな、って一瞬思ったり。これって中7下5にかけての口語調がすごくいい。あっけらかんとして、老をこんなに明るく引き受けられるなんて、これは「桃の花」の季語のちからと勢いよく読み下された中7下5のテンポの良さであると思う。作者である藺草慶子さんの静かな清楚な佇まいを裏切るような一句であることもおおいに面白い。〈弟はいつも弟さくらんぼ〉も季語の斡旋の巧みさと叙法のうまさが際立つ一句だ。ちょっととぼけているようだけれど、さくらんぼの季語によって、弟への親身な愛情がかんじられる一句である。〈吾亦紅一人娘として老いて〉という句が後半にあるが、この句もまた作者の自画像か。家族に愛されて育った一人娘のわれ。こちらば「吾亦紅」の季語によってしみじみとした感慨がある。
雪の夜の尿瓶にいのち響きけり
衰弱し病む父を看取っているときの一句である。〈病む父の脚をさすれば雪の声〉という句が前におかれていて、数句、病む父を詠んだ句が続いていて心打たれる句がつづく。「尿瓶」に響くものが「いのち」であるということに驚く。確かに尿瓶にあふれていくものは、生きている人間から排出されていく人間のあたたかな尿である。その音は父が生きているからこそ父の命がたてる音なのだ。その音をダイレクトに「いのち」と捉えたところに詩が生まれた。夜の闇を背景にした雪の白さと冷たさ、命がたてる尿瓶の音。すべてが雪によって浄化されていくようである・病み衰えていく父を看取る作者に、雪は降り続いている。この日の雪は父への思いとともに忘れられないものとなった。
〈抱き起こす父は夏掛ほどの嵩〉も印象鮮烈な一句である。〈長き夜の認知症とは白き闇〉もお父さまを詠んだ句か。
大鷹の爪の押さへしもの動く
Pさんは、〈吉野川鷹現れて影迅し〉を好きな一句にあげていたが、おなじく鷹を詠んだ一句であり、わたしはこちらの方が好きかもしれない。鷹が獲物を捕獲した様子を詠んだ一句だ。どちらかというと「鷹」はその飛ぶ雄姿を詠まれることが多いけれど、こんな風に獲物をゲットした場面を一句にした句は、はじめてである。この一句のリアル感は、「押さへしもの動く」で、獲物がなにかと具体的に詠んでいないところである。大鷹は小動物を鳥からはじまって鼠やら兎やらを捕まえてその場で大方殺して巣にはこんだりする。まだ命があって動いているがその捕獲したもののが何であるか大きな爪に押さえれているのでよくわからない、ということもあるかもしれないが、あるいはここに栗鼠とか具体的なものを叙さない方が、大鷹がよく見えてくる。読者の目線がうごかず、大鷹のみに集中して迫力がある。あくまで大鷹を詠んだ一句なのだ。「動く」というこの一言のみで、もがき苦しんでいる動物のあわれな命がみえてくる」
集ひ来るみな花びらを靴につけ
この句もわたしの好きな一句である。桜を詠んだ一句である。 多くのことが省略され、ある一点のみを詠んだ一句であるが、たいへんリアルであり、よくわかる一句だ。「集ひ来る」のは何の為に、どこにということは詠まれていない。なにかの集会である。それは何の集会であってもいいのである。とにかくやって来たのだ。「みな」とあるので一人二人ではないだろう。「集ひ来る」のであるから、かなりの数だ。その人たちがやってきた。みれば皆それぞれの靴に花びらをくっつけている。桜も満開のころをすぎて風に散りやすくなっている頃か、桜吹雪のなかをやってきたのか。コートにもあるいはズボンにも花びらはついているのかもしれないが、「靴」というのがいい。大地をあるいてきた靴、泥もついているかもしれない靴である。そこに可憐なやわらかなうすピンクの花びらがついている。「靴」によって花びらの可憐なあわれさもみえてくる一句だ。
秋日傘骨の音してひらきけり
ふたたびPさんの好きな句に。日傘をつかう季節って、歳時記によると三シーズンか。「春日傘」「日傘」「秋日傘」と季語では詠みわける。この句は、「秋日傘」を詠んだものである。秋日濃き下で日傘をひらいた。すると「骨の音」がしたというのだ。「骨の音」とはいったいどんな音。想像してみて。それぞれの主観によるものだから同じ音とは言えないかもしれないけど、まあ、平たくいえば「ポキッ」かな。こういう軽快な硬質な音は秋の澄み渡った大気のなかでこそ耳に響いてくるものだ。春のやわらかな空気でもなく、夏のうだるような暑い熱気でもなく、まさに爽やかに「ポキッ」って音がした。「骨の音」うまいなあ。骨という語によって、傘の骨組みも感じさせ、さらに納得させてしまいそう。しかし、きっと作者は、その傘の構造によって発想したのではなくて、音がまさに骨の音に聞こえたんだと思う。傘の骨組みは後付けでそうとも考えられるってていうくらいにした方がしらけないかなあ。
二〇二〇年三月、十年にわたる父の自宅介護が終末期を迎えるにあたり教職を辞した。と同時に、コロナ禍が始まった。かつてないほどの時間を自宅で過ごす中で、高齢の両親との時間はかけがえのないものとなった。この年にしてようやく自らの依って立つ足もとを確かめることができた気がする。
本句集では、Ⅱ章に岩手県沢内での作品をまとめた。この章の句の制作年は前句集の作品を作った時期とも重なる。豪雪地帯である岩手県西和賀町沢内を初めて訪れたのは二十代の夏、碧祥寺に残されたこの地の民俗学的な資料に触れ、その風土に激しく心を揺さぶられた。その後、斎藤夏風先生が紹介してくださったのが現地の俳人小林輝子さんだった。輝子さんのご主人は木地師。こけし工房の斜向かいには湯田またぎの頭領(しかり)が住んでいた。失われようとしている風土の姿を、少しでも書き残せれば嬉しい。
「あとがき」を抜粋して紹介した。
(略)
水渡り来し一蝶や冬隣
今年は東大寺のお水取の前に、初めて若狭の水送り神事にも参加した。火と水と闇のせめぎあいに圧倒されながらもその底に流れる大いなる祈りの心を感じた。私も大自然の循環の中に生きる全てのものへの祈りの心をもって作句していきたい。(あとがき)
静かなひたむきな情熱を以て、俳句を作りつづけて来られた藺草慶子さんである。
第2句集『野の琴』からこの度の句集にいたるまで、ふらんす堂にご縁をいただいている。
わたしにとって、藺草慶子さんば、初めてお会いしたときからいまでにいたるまでずっと清楚な美しいお嬢さまという印象のままである。
だから、「桃咲いて」の一句には本当に驚いてしまった。
(いいぞって心で喝采をしたりして……。あっけらかんと歳をとりたいものです)
長いご縁をこころより感謝もうしあげつつ、さらなるさらなるご健吟を!
こんなこと申しあげるまでもなく、藺草慶子さんの心はすでにつぎの俳句の目標にむかわれておられると思います。
Facebookわたなべ こうさん投稿記事 『祈り』😊
近年、ハーバード大学やコロンビア大学など、アメリカの大学で「祈り」に関する研究が活発に行われています。
1980年代、全米120校ある医大のうち、祈りを研究していたのはわずか3校でした。
しかし今では「信仰と医療」をテーマに扱う大学は70校以上に増加。
さらに祈りの効果を科学的に検証した研究は1,200件を超えています。
主な研究例では、カリフォルニア大学(1988年)心臓病患者393人を「祈られるグループ」と「祈られないグループ」に分けた実験では、祈られた患者は人工呼吸器や抗生物質、透析の使用率が低い結果となりました。デューク大学(1986〜1992年)
65歳以上4,000人を調査した結果、毎日感謝の祈りを捧げている人は祈らない人より長寿である傾向が確認されました。
祈り方の違いも研究されています。
具体的な結果を求める「指示的な祈り」と、「神の御心に委ねる」無指示的な祈りでは、両方効果がありましたが、後者の方が約2倍の効果が見られました。
別の実験では、目の前で祈られる場合だけでなく、遠く離れた場所から祈られた場合でも効果が確認されています。
現代医学は「祈り」という一見スピリチュアルな領域にも関心を寄せ始めています。
病気の家族や友人、自分自身、困難な状況にある人々のために祈ることが、心や体に良い影響をもたらす可能性は、科学的にも少しずつ証明されつつあります。
私たちの『祈り(意識)』は病気を治したり、人生を変えたり、世界を変える力がありますね╰(*´︶`*)╯♡