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17文字に詠み込む無限の余白

2025.10.27 10:11

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/3858 【17文字に詠み込む無限の余白】より

恩田侑布子 (俳人)

故郷静岡で自然と生活が息づく俳句を詠み続けてきた。書きためた俳句評論集が昨年「ドゥマゴ文学賞」を受賞、注目される存在となった。現代にも生きる俳句の発信力を信じ、紡ぎ出す言葉で世界とまっすぐに向き合う。

深い自然に暮らす

 ビルが建ち並び、全国区のチェーン店の看板がそこかしこに掲げられた静岡駅から車で10分ほど離れると、いきなり風景が変わる。藁科川(わらしながわ)を渡ると、さっきまで都会と隣り合わせだった景色が、まるでいにしえとつながったような遠い懐かしさを帯びてくる。一気に時を遡っていく錯覚を覚えながら、さらに10分ほど山に向かって走ったあたりにひっそりたたずむ築180年の古民家。そこが2013年に『余白の祭』で「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」を受賞した恩田侑布子が俳句や評論を紡ぎ出す仕事場であり、生活の場であり、夫とともに守る志戸呂焼廣前心齋窯(しとろやきひろさきしんさいがま)の窯場でもある。

 パリのドゥマゴ賞は1933年、サンジェルマンの老舗カフェ・ドゥマゴの常連客だった13人の作家や画家たちが100フランずつ持ち寄って生まれた。その先進性と独創性を継承して、日本で90年に創設されたBunkamuraドゥマゴ文学賞は、既成の概念にとらわれることなく、小説、評論、戯曲、詩歌から毎年1人の選考委員が受賞作を選ぶ大変にユニークな文学賞である。

 『余白の祭』は、俳人の恩田が16年の年月をかけて書きためた俳句評論集で、そこに登場するのは山頭火、蛇笏(だこつ)、芭蕉、窓秋(そうしゅう)などの俳人ばかりか、ブッダ、荘子、志ん生、道元、ダンテなど100人近くに及ぶ。評論集というと、おおむね難解とセットだが、“余白”という自由なイメージと“祭”の解放感につられて手にすると、凝縮された17文字の余白にどれだけの世界とどれだけの時間が広がっているのか、はかり知れない俳句の力に圧倒される。

 選考委員の松本健一が、「自我に固執した自己表現にこだわるあまりに痩せてしまった近代文学を刷新する変革のエネルギーを秘めた作品」と評した恩田の現代芸術論は、深くてなお広さとやさしさをもっている。

受賞作で評論家としての恩田に最初に出会い、その読み込みの見事さから、思索を練り上げる理の勝った人物像が単純にも導き出されてしまっていた。が、恩田侑布子は、まるで少女のような雰囲気をまとって目の前に現れた。テーブルで待ち構えるツクシの甘露煮と、遠来の友と春を分け合うような打ち解けた物腰で、瞬く間に固い“理”の壁が崩され、ここでの恩田の暮らしが柔らかく立ちのぼってくる。

 「裏は山が迫っているので、ときどきイノシシが来るんですよ。どんなに忙しくても、この季節にはツクシを採ってきて甘露煮を作るんです。嫌いじゃない? よかったぁ」

 黒砂糖の甘味を突き破るようなツクシのほろ苦さに、冬枯れの野を割って春を切り拓くエネルギーが重なり、松本の選評の意味が味覚とともに腑に落ちるような気がした。

言葉を離れ言葉に還る

 「私は、感情主導の人間なんです。感情で突っ走る。自分の感情にのめり込んでグダグダになっちゃう。ギアをローに落としたくても落ちないの。俳句は頭の中に知識が入っていると一句もできない。頭も心も無にしていないと、向こうから語りかけてくるものがなくなる。風が吹き通るような心と身体でないとダメ。評論は全く違って、しっかり勉強した上で、自分の視点を加えて積み上げていく作業だから、頭を切り換えないとできないんです」

ギャラリーページへ

 今はきっと俳人の恩田がいるのだ。無心。空っぽの無ではなく、積み上げた知識を内に漉き込んでなお透明な無の心で、俳句に向かう。理性と感情、蓄積と無が、恩田の中で揺れて、その振幅が生み出す熱が、俳句と評論という異分野での創造力に結実しているのだろうか。ときには言葉の世界の外にまで振れて、20代の頃には陶芸家として生きようとした時期もあった。

受賞作で評論家としての恩田に最初に出会い、その読み込みの見事さから、思索を練り上げる理の勝った人物像が単純にも導き出されてしまっていた。が、恩田侑布子は、まるで少女のような雰囲気をまとって目の前に現れた。テーブルで待ち構えるツクシの甘露煮と、遠来の友と春を分け合うような打ち解けた物腰で、瞬く間に固い“理”の壁が崩され、ここでの恩田の暮らしが柔らかく立ちのぼってくる。

 「裏は山が迫っているので、ときどきイノシシが来るんですよ。どんなに忙しくても、この季節にはツクシを採ってきて甘露煮を作るんです。嫌いじゃない? よかったぁ」

 黒砂糖の甘味を突き破るようなツクシのほろ苦さに、冬枯れの野を割って春を切り拓くエネルギーが重なり、松本の選評の意味が味覚とともに腑に落ちるような気がした。

言葉を離れ言葉に還る

 「私は、感情主導の人間なんです。感情で突っ走る。自分の感情にのめり込んでグダグダになっちゃう。ギアをローに落としたくても落ちないの。俳句は頭の中に知識が入っていると一句もできない。頭も心も無にしていないと、向こうから語りかけてくるものがなくなる。風が吹き通るような心と身体でないとダメ。評論は全く違って、しっかり勉強した上で、自分の視点を加えて積み上げていく作業だから、頭を切り換えないとできないんです」

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 今はきっと俳人の恩田がいるのだ。無心。空っぽの無ではなく、積み上げた知識を内に漉き込んでなお透明な無の心で、俳句に向かう。理性と感情、蓄積と無が、恩田の中で揺れて、その振幅が生み出す熱が、俳句と評論という異分野での創造力に結実しているのだろうか。ときには言葉の世界の外にまで振れて、20代の頃には陶芸家として生きようとした時期もあった。

 「人間は罪業の深いものだという親鸞の説には共感できたんだけど、南無阿弥陀仏で救われるというのは全然受け入れられなかった。大学でも仏教青年会に即刻入って、釈尊の人間認識に共感はしたけれど、自分が明るく前向きに人を信頼するところまでは行けなかった。ずっとそこに行きたかった」

 あまりに切実な10代の日々、恩田の手は詩集や句集にも伸びていた。今、恩田は、俳人として確かな居場所を生きている。俳句という表現世界で、縦横無尽に生きている。末期の眼がとらえたさりげない日常の中の人間の美しさが恩田の命をつないだとしたら、人の心を切り裂く言葉の恐ろしさから言葉の光明へと誘う光を、俳句の中に見出したということになるのではないだろうか。そうだとするなら、それはどんな句だったのだろうか。

 「胸に飛び込んできたものがありました。中村草田男(くさたお)の『會(あ)へば兄弟(はらから)ひぐらしの聲(こえ)林立す』。今、自分は学校で明るくしてても、誰にも打ち明けられない悲しみを抱えてとっても苦しい。でもいつかそんな苦悩をわかってくれる同胞のような誰かに出会える時が来るかもしれない。きっとその時に、ひぐらしの声が苦悩や孤独を溶かしてくれるんじゃないか。ひぐらしの声が天上に向かって透き通った柱のように限りなく立っている。私にもそんな時があるのかって励ましを感じた。俳句ってこんな短いのに、一瞬にしてその世界に入っていける。面白いなあと思いましたね。夏の川原でいつも聞いていたひぐらしの声を、こんなふうに結晶させることができるんだと思った。私、癒しという言葉は嫌いだけれど、詩歌や文学って、本当に絶望している人に届くのが本物だと思う」

 絶望していた恩田に、17文字からの救いと希望が確かに届いたのだ。一字一句がまさに誰かの一大事に深くつながっていく。俳人としての原点までも、この瞬間にとらえていたということになる。

俳句で世界と向き合う

 一時は言葉のない陶芸の世界に居場所を求めた恩田が、俳人として生きる決意を固めたのは、土を練り腕に筋肉が付き始めた頃だったという。突如、慢性の重い腎臓病と診断された。2カ月の絶対安静の入院生活。5年ほどで透析生活を余儀なくされるかもしれない。そうなると、当時は最長でも15年しか生きられなかった。懸命に生きようとしていた生が一気に期限付きになった。が、恩田は今、透析をせずに普通の暮らしができている。おそらく誤診か、予後の判断ミスだったのだろうか。だが、28歳の恩田には、その宣告が大きな転換点になった。

「私って何て運が悪いんだろうって思った。でも、これまで両親との関係で自分が被害者的な位置づけをしてきたけど、自分の体の中に生じた病は誰のせいでもない。自分が自分で抱え込んだ困難だもの。陶芸はもうできない。入院した2カ月、しみじみ考えました。人間の根源的な悲しみや苦しみを自分のこととして引き受ける釈尊への尊敬の念がふつふつと湧いてきました。病の中で言葉と出会い直して、ベッドの上で俳句をやろうと決意しました」

 皮肉にも、病気が精神の立ち位置を変え、視点が動き、そこから外の困難と内の困難を突き抜ける通路が開いて、心の中にも川原が広がるきっかけになったのかもしれない。そんな出来事と並行するように、恩田は唯識(ゆいしき)という仏教の根底にある哲学を25年にわたって学び続けている。

 「ひとことで言うと、私が変わることが絶望から救われる唯一の道だということを教わったってことかな。今絶望しているのは、我執にとらわれた自分が絶望しているのであって、自分が変われば世の中も変わる。諸行無常、万物は流転する。でも自分こそが変わる。深層心理の中には深い生命の歴史が横たわっていて、罪悪も美も個を超えてつながっている。個で完結しているものではない。そういう認識に立てた時、厭世観がやっと消えました」

 恩田が半世紀もの時をかけて辿(たど)り着いた道のりの厳しさも深さも、表層でわずかに感じる力しか持ち合わせていない残念な私は、ただ目の前の恩田を抱きしめたくなる衝動を抑えながら、恩田の言葉を聞いていた。

 石抛(はふ)る石は吾(われ)なり天(あま)の川

 ドゥマゴ文学賞の贈呈式で恩田が朗読していた句がふと思い出された。石になりきった恩田。天の川になりきった恩田。石なのか天の川なのか自分なのかよくわからない恩田。この句の不思議な感覚に接した時、研ぎ澄まされた言葉の世界と、言葉を超えた世界の境目に自らの確かな居場所を見つけたのではないかという気がした。個と、個を超える命の蓄積の世界を自由に行き来できる境界の場所はまた、俳句の真髄にもつながっているようにも思える。

 しろがねの露の揉(も)みあふ三千大千世界(みちおほち)

 葉っぱの上の露とそれを包む無限の宇宙が戯れ合うようなイメージが浮かぶ。凄い句だなあと思う。でも、その中で気ままに心を遊ばせてもらえるのは面白そう……とも思う。

 「今は俳句を作っている時が一番幸せ」

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 別れ際に、独り言のように恩田がつぶやいた。“今”は、切り出された今ではなく、過去とも未来ともつながっている果てしない“今”と聞こえた。余白とは、のたうち回るような半生、言葉と命がけで差し違えるような日々を切に生きたからこそ生まれるものなのかもしれない。研ぎ、磨き、削いで、必死で描き出されたものがあるから、その外側に生まれる余白は誰をも自由に遊び戯れさせてくれる祭りの場になりうるのだろう。

 恩田自身の豊かな余白の祝祭空間の中で遊び戯れさせてもらったような余韻を味わいながら、吉津川、藁科川、安倍川と越えて再び静岡駅へ。夕暮れの静岡駅が、来た時よりもなぜか少し愛おしく感じられた。

恩田侑布子(おんだ ゆうこ)

1956年、静岡県生まれ。高校時代に俳句、短歌を始める。現在「豈(あに)」同人。現代俳句協会会員、国際俳句交流協会会員、日本文藝家協会会員。句集に『イワンの馬鹿の恋』(ふらんす堂)、『振り返る馬』(思潮社)など。2013年、俳句評論集『余白の祭』(深夜叢書社)で第23回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。パリ日本文化会館客員教授。