《月の祈りⅡ – 森と空》 ――旅人、森の魔女に出会う――
《月の祈りⅡ – 森と空》
――旅人、森の魔女に出会う――
夜の森は、月の光を吸い込みながら静かに息づいていた。
風が梢を渡り、葉の一枚いちまいが銀色にきらめく。
遠くでフクロウが低く鳴き、木々の影は、まるで眠る巨人のように連なっている。
旅人は、闇の中を歩いていた。
胸の奥にはまだ、人の世界の重さを抱えたまま。
――責任、後悔、小さな恐れに、ありとあらゆるもの・・・
どれも置いてくることができず、ただ静かな光を探していた。
「おやおや、夜の森で人間とは珍しい。」
背後から声がして、旅人は振り向いた。
月明かりの中に、小さな赤い帽子が揺れる。
「ずいぶん重たそうな荷物を背負ってるじゃないか。」
そう言って笑うのは、小さなおじいさん。
白いひげを撫でながら、まるで旅人の心を見透かすような目をしていた。
「……何も持っていないよ。」
「見えない荷物じゃよ」
こびとはぽんと手を打った。
「よし、ちょうどいい。森の魔女のところへ行こう。あの人は夜に絵を描く。いらないものを光に変えるのが得意なのさ。」
そう言うと、こびとはひょいひょいと森の奥へ進んでいく。
旅人は半信半疑のまま後を追った。
やがて、木々がひらけた。
月光の下に立つのは――黒を纏うスレンダーな女性。
頭のてっぺんで束ねられた長い髪には筆が刺さっている
手にはペインティングナイフに筆、筆、筆。
夜の空気をキャンバスに見立て、月明かりを掬って描いていた。
「やあ、今夜はお客さんを連れてきたよ。この人間、描きがいがあるじゃろう?」
こびとが言うと、魔女は筆を止めた。
「ずいぶんと大きな荷物だね。でも、氣づいてない様子ね」
低く、しかしやわらかな声。
その瞳は月よりも深く、どこか懐かしい光を宿している。
筆先が動いた。
月の雫が線となり、森の空気に色をつけていく。
緑が息づき、青が流れ、金が星のようにまたたく。
描かれるたびに、森が生きて動いていく。
「人の世界は、考えごとが多すぎるのよ。でもね、森はただ、生きているだけで十分。」
こびとは帽子を押さえて笑った。
「聞いたかい? ここでは“心配”も“正解”も禁止じゃよ。」
旅人は思わず笑い声を漏らした。
笑いと一緒に、胸の奥に詰まっていたものがほどけていく。
魔女は筆をくるりと回し、夜空にひとすじの光を描いた。
それは三日月と溶け合い、柔らかい風となって旅人を包み込む。
「もう大丈夫。月も、森も、あなたの中にいるわ。」
旅人は目を閉じ、その光を深く吸い込んだ。
風が頬を撫で、葉のざわめきが遠くで笑う。
そこに満ちていたのは――生きることの温度だった。
――生きるって、こんなにも軽やかで、美しい。
そして、世界は、思っているよりも、ずっとやさしい。
森が静かに呼吸を続ける中、
魔女は筆を空に向けた。
月の光が絵の具になり、
夜の空に無数の粒となって飛び散る。
「これは、あなたたちが手放した光。
悲しみも、迷いも、もう闇にはならない。」
旅人は空を見上げた。
星々がゆらめき、まるで誰かの記憶のように瞬いている。
それは、森で生まれた祈りのかけらだった。
いつかの星空に、
魔女が光に変えた想いが、静かに散りばめられていく。