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霊性への旅

メガネ(1)★ヴィパッサナー瞑想合宿(2a)

2019.02.28 06:01

   2002/12/27(金)から2003/01/05 (日)まで、八王子で行われたグリーンヒル瞑想研究所の10日間瞑想合宿に参加した。この瞑想研究所での瞑想合宿参加は、今度で2度目になる。帰宅後ダイアリーに掲載して行ったものをここ にまとめて報告したい。

このレポートは、前回の合宿レポートを踏まえて書いているので読んでいない方は、まずそちらを読んでいただければ幸いである。→2001年・10日間瞑想合宿レポート Ⅰ

グリーンヒル瞑想研究所については、以下のURLをご覧いただきたい。 http://www.satisati.jp/

◆今回の学び  

今回もまたさまざまな意味でずしりと来る瞑想合宿だった。一方で大きな課題も背負った感じだ。  

今、10日間の余韻の中で、今後自分がどのような方向に向かっていくのか、手探 りの道の前にたっているのを感じる。  

グリーンヒル瞑想研究所の合宿がどんな風に行われるのかについては、前回のレポ ート、2001年・10日間瞑想合宿レポートを参照のこと。日程などは、ほとんどまったく同じに 行われた。  

最初に今回の合宿で学んだことを箇条書きにする。

1)ひたすら感覚(センセーション)に集中し、そこからはずれて思考・妄想をす れば、それはそれでサティし、身体と心のあるがままを10日間見続けようとするこ とが、人に気付きをもたらす可能性をどれだけ秘めているか、ずしりと実感した。

2)瞑想と食事との関係の大きさを実感をもって感じた。

3)しばらく地橋先生の指導を受けていなかったので、迷ったり、自己流に走ったり していた部分が多かった。定期的に指導を受けることの大切さを実感し、これからは そうしたいと思った。

4)私心や名利とは関係なく純粋にヴィパッサナー瞑想をひろげたいと願う地橋先生 の情熱に改めて強い印象を受けた。

5)私自身は、宇宙や存在の一切をあるがままに肯定する大乗仏教的な世界観をもっ ている。ヴィパサッナー瞑想の背景にある原始仏教、テーラワーダ仏教の存在否定的 な世界観に直面することをこれまで何となく避けてきたが、今回はこの問題を避けて 通れないことを実感した。  

もちろん、これに収まりきれない学びもいろいろあった。随時それにも触れるだろう。必ずしもこの順番に沿っては書かず、また今回は一日目から順に書くことも せず、いくつかのテーマごとに書いてみたい。

◆まずは1)について少し  

集中してひたすらあるがままの直接的なセンセーションを追求し続ける(身随観)。 散乱したら散乱したで自分の心のあるがままを観察する(心随観)。これを10日間続 けることの威力は大きい。  

しかも、身随観と心随観は別ものではなく、ラベリングによるサティという共通の方法によって無駄のない補完的な相互作用をする。その方法のみごとさにはいつも感 嘆する。  

8日目、9日目になって集中と観察を続けることのすごさが実感的に分かりはじめ た。最初から分かっていれば取り組む姿勢にかなり違いが出ていただろう。  

9日目、かなり必死になってセンセーションを追い、飛び出す思考・妄想にサティを入れていて感じた。この真剣さが10日間続くことは、自分の思考・妄想がほとんど一切気付かれるということだ。つまり、それを生み出す自我の正体がいやおうもなく露見するということだ。 実際は、前半かなりサティが甘く、思考・雑念がサティされることなくだらだら続 くことも多かったが。 

メガネ

◆メガネの錯覚  

合宿に入って2日目か3日目あたりからだろうか、非常に奇妙な錯覚にとらわれるようになった。現実にはかけていないメガネが、自分の眼の周囲に感じられるようになったのだ。  

鼻にメガネがあたるような感じ、眼の下にフレームがあたるような感じ。とにかくそこにメガネがあるような気がして仕方がない。  とくに座禅や歩行瞑想で眼を閉じているときに頻繁に感じられたが、眼を開けてい ても感じられることは多かった。時には、ずり落ちたメガネを上げようとして手を持 っていき、ハタと気がつくようなこともあった。眼をこするためメガネを外す動作を してしまい、思わず苦笑することもあった。  

私は近眼だが、メガネはその煩わしさがいやでここ5~6年かけていない。だから いつもかけている時のクセが思わず出てしまったという訳ではないのだ。  

眼の周囲にあるメガネの感覚は、時に忘れていることもあったが、一日のうちに何 時間も、そして何度も感じられ、この感覚は合宿中ずっとしつこく続いた。

◆解釈?  

私は、ふだん幻視とか幻聴とか錯覚などをしやすいタイプではない。だから余計に、 合宿に入ってすぐにこんな奇妙な錯覚に囚われたということが、何か象徴的なことに感じられた。  

すぐさま思ったのは、ヴィパサッナー瞑想の目指すことに対する現在の自分の現況 がメガネに仮託されているのではないか、ということだ。  

ヴィパサッナー瞑想は、あるがままの直接知覚をめざす。それに対して現実の自分 は、概念や言葉、文化的に共有されるものの見方、習慣的なものの見方にがんじがら めになっている。そんな現実の状況がメガネの錯覚を通して強く意識されるようにな ったのではないか。メガネをはずして裸の眼で直接見なさいと。  

メガネが、私の心の奥にあるものの投影であることは間違いなかった。しかし、い かなる概念もまじえないセンセーションを直接知覚するという合宿でのとりあえずの 目標は、私がまだその目標に至っていないという状況とともに充分意識されていた から、わざわざメガネの錯覚となって表現される必要もなかったはずだ。 だったらこの錯覚は何を意味するのか。面接での地橋先生の解釈は違っていた。

◆色眼鏡  

地橋先生の解釈は、私が梵我系、大乗仏教系の色眼鏡によってヴィパサッナー瞑想 の真実を歪め、真実を見ようとしないことの象徴ではないかというものであった。前 回の合宿の時から先生は、この点を重要視されており、テーラワーダ仏教への心理的 な抵抗があれば、私のヴィパサッナー瞑想そのものが深まらないと考えておられた。 『臨死体験研究読本』を読んでますます私の大乗的な背景に強い印象をもたれたようだ。  

私自身は、「確かにそういう面もあるかも知れないが、それだけに特化できないのではないか」という印象を抱いていた。

◆取れない、取りたくない  

6日目の夜座のとき心随観とは言えないが、試みに自分にこんな問いかけをした。  「こんなメガネはかんたんに取れるのだから取ってしまおう」  そして実際にメガネをとるイメージを描こうとした。ところが取れないのだ。それころか水中メガネのように顔面に食い込むようにくっついてくる。皮膚と一体となっているかのようだった。このメガネは一生取れないのではないかというかすかな恐 怖を感じた。 もう一度「メガネを取ろう」と呼びかけ、取ろうとする。すると今度は取るのは嫌 だと必死に抵抗する自分がいる。「なぜか」と問うと、「この左目のピクつきを隠し たいのだ」と答える。そしてメガネのフレームがいつもピクつくあたりにまで伸びた ような気がした。   

翌日の歩行瞑想中、また眼の周りにメガネを感じて、ふと思った。メガネで隠そう とした目のピクつきは、自分が見たくない自分の醜さの象徴。メガネは、自分の本当の姿を見たくないという思いの象徴なのかと。

◆真実を見ることへの抵抗  

いまは、こう思っている。メガネは、やはり真実を見たくないという心の抵抗の象徴だった。ただし、見たくない真実の内容は、かなり重層的な意味をもっていたので はないかと。 ヴィパサッナー瞑想は、いかなる概念的な枠付けにも染まらない、なまの直接的な 感覚に触れようとする。それを通して自我の虚構性を暴き、世界の真実の姿に迫ろう とする。

もちろん私もそれを目指して10日間の合宿に参加した。しかし、真実を見たいと いう私の自覚的な意志の背後には、真実をみたくないという必死の抵抗があったのだ。 自分でまったく気付いていなかった必死の抵抗の心が、眼の周りのメガネとして表れた。抵抗心の奥には恐れすらあったかも知れない。

◆基盤が揺らぐことへの恐れ  

真実を見るためには、今とりあえず安定した自我を一度破壊しなければならない。 安定した自我を通して認識される安定した日常的な世界を破壊しなければならない。 現在のかりそめの安定を犠牲にしなければ、真実に触れることはできない。自我はそ れに必死に抵抗する。真実を見ることへの恐れとは、いま自分が立っている基盤が揺 らぐことへの恐れなのだ。  

それは抑圧されていた醜い自分の姿を見たくないという抵抗だったかもしれない。愛着し慣れ親しんだ一切の概念認識を手放したくないという抵抗だったかもしれ ない。私自身の大乗仏教的な基盤を揺るがされたくないという抵抗もあったかもしれない。  

意識的な部分で瞑想に集中しようとすればするほど、心の奥では抵抗が生まれる。 メガネは、取りたいけど取れないし、取りたくないのだ。すっかり顔面に馴染んだ認 識のフレームを離すまいという心が、奇妙な錯覚を生んだに違いない。  

グリーンヒル瞑想研究所での10日間の集中的なヴィパサッナー瞑想は、人に変化 をもたらす強力な力をもっている。真剣に取り組めばそれを実感する。だからこそ、 変化への必死の抵抗も生まれるのだ。今でも、あの10日間を思い出すと胸のあたりにあの場の力のようなものを感じる。

壊滅智

◆「高慢ちき」「ピエロ」  

9日目の午前中、現実には存在しないメガネの感覚はまだ続いていた。歩行瞑想の 集中が切れたときだったかに、もういちどメガネの感じを確認すると、今までと少し 違う感じがした。大きな黒いメタルフレームのメガネという感じがした。  

なぜメガネのイメージが変ったのだろうと思った。そして、そのイメージから何が 連想されるか試してみた。すぐ浮かんできたのは、「高慢ちき」という言葉だった。 続いて「概念思考」「分析知」「学者」などの言葉が浮かんだ。次に「ピエロ」とい う言葉が浮かんだときメガネがピエロがつけるような派手なものに変化したような気 がした。最後に浮かんだのは「滑稽」という言葉だった。  

この場はそれで終わった。ありもしないメガネの感覚はその後も続いていた。しか し、夜の7時半ごろ、この合宿での瞑想もいよいよ大詰めに近づいたときに、ふと気 付いて歩行瞑想の足を止めると、しばらくメガネを意識していなかったと気付いた。 少し経ってもう一度確かめたが、やはりメガネがなくなっていた。

◆滑稽なピエロ  

黒いメタルフレームのメガネからの一連の連想は何を意味していたのだろうか。私 はささやかながら瞑想の実践もしているが、しかし私のアイデンティティの中心は、 やはり概念的思考をもとにしての理論的追求と自己表現とにある。 そこにしがみついている自分が、実は「高慢ちき」であり、滑稽なピエロであると いう思いが、連想された言葉に託されていたのだろう。

◆瞬間定  

そう感じた背景には、合宿中に地橋先生の生き様に間近に触れ、またダンマトーク や面接でうかがったお話から強い印象を受けたこともあった。先生は、人生のある時 期に根源的な苦(ドゥッカ=パーリ語)を見てしまい、その結果、権力や名利や富と いう虚しい世俗的な欲望の一切を捨てて修行生活に入ったという。

 「梵我系」のサマタ的な修行での並々ならぬ深い体験。その一端はダンマトークで もお聞きしたし、以下でも見ることができる。(覚醒・至高体験事例集>あえて分類 せずの場合>地橋秀雄氏)  原始仏教、テーラワーダ仏教の教えを知ったとき、これまで命をかけてきた修行や 信念を「死ぬ思いで」捨てざるを得なかったという。そしてタイ、ミャンマー、スリ ランカでヴィパサッナー瞑想に打ち込んでいく。その修行の深まりのなかで見たとい う真実は、常人に計り知れないものがある。

上に紹介した地橋先生の文章から引用する。

 「‥‥すると、瞑想者とその対象とが一つに融けあい、合一したかのように、主体 と客体とが未分化の状態になってしまう瞬間が訪れる。  観想し、瞑想している自分の意識が突然脱落し、瞑想対象だけが意識野に独存し、 照り映えているかのように…。 自分からコントロールする感じは全くなく、いきなり<それ>が襲来したかのよう な印象を受けるのが普通である。 これが「三昧」や「禅定」ともいわれる<サマーディ>の意識状態である。」 (中略)

「ヴィパッサナー瞑想の『瞬間定』とは、このサマ-ディの力をいわば分散し、生滅変化する事象と一瞬の合一を矢つぎ早にくりかえしている状態といえるだろう。」

◆壊滅智  

ダンマトークでは、このようにも語っておられた。 サティが一秒間に十数回という高速で繰り返される。「ガチガチガチガチ」と瞬間 瞬間にサマーディが起こる。その恐るべき生滅の無常性。その衝撃。「生滅智」とは この生滅の無常性への智だという。  

このように機関銃のようにサティが飛び出す状態で生滅の滅の瞬間に焦点があた ると、滅々々々々々と瞬滅の滅の状態がクリアに見えてくるという。これが「壊滅智」だ。  

先生は、これを見たとき発狂したのではないかと思ったという。世界の真実の姿への衝撃と恐れ。しかし修行がここまで来ると後戻りはせず、サティの力によって、さ らに進んでいくのだという。

◆利欲のなさ  

地橋先生が、ご自身の瞑想体験を積極的に語ることは少ない。しかし、上に触れた ような話からその一端を窺うことはできる。  感服するのは、尋常でないレベルの修行と瞑想の体験をお持ちであろう方が、それ を使って世に出ようとか、名利や富を得ようとかいう利欲に一切無頓着であるという ことだ。  

ご自身は、ヴィパサッナー瞑想の一「インストラクター」に徹しておられる。そし てヴィパサッナー瞑想を世にひろめることに命をかけている。合宿で間近に指導を受 けるとそれがよく分かる。  少なくとも私にとって、利欲がないということが「師」を選ぶときの大切な基準で ある。

◆メガネはなぜ消えたのか

さて、メガネの話に戻ろう。地橋先生の、こうした体験の深さ、人生の苦 (ドゥッカ)を見たその深さ、利欲のなさなどが、私の心の深いところを揺さぶっ ているのを感じていた。  それが「概念思考」や「分析知」に囚われた「高慢ちき」の、「ピエロ」のような「滑稽」さという自己理解に少なからず影響を与えていたと思う。  

しかし、それで私が、我執や煩悩から自由になれたという分けではない。揺さぶら れてはいても、やはり自分にしがみついていることには変わりなかった。  

では、なぜメガネは消えたのか。今はこう思っている。真実をみたいとの思いで修行に打ち込めば打ち込むほど、無意識の抵抗がメガネという幻影を作り出す。しかし 修行も大詰めを迎えた9日目の夜、結局今回もここまでかという思いが、意欲をだいぶ減退させていた。その減退に応じてメガネの幻影も消えていった。  

逆に言えば、この合宿はそんな幻影を生み出すほどに私の自我を追い詰めたのだ。  (続く)