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霊性への旅

メガネ(2)★ヴィパッサナー瞑想合宿(2b)

2019.02.28 06:43

瞑想と食事

◆小食過ぎた

 瞑想と食事の関係については前回のレポートでも触れたが、今回もさらにその密接でデリケートな関係を実感した。  

 前回の経験から食べ過ぎてしまえば眠気が来てよい瞑想ができないことは分かっていた。しかし今回は、最初の数日は小食になりすぎてエネルギー切れになった。

 食事は、朝と昼の二回。それぞれ玄米のおこわがお碗に4分の1から5分の1。そして味噌汁と工夫がこらされた何種類かのおかずが少々だ。それでもこの合宿の常連の人たちは、出されたものの半分は残すという。

  私も、2日目の朝は常連の平均より多めだったが、2日目の昼からは、かなり抑え始めた。玄米は3口ほど。つまり小さじに3杯ほどにした。おかずも出されたものをそれぞれ半分は残し、まったく手をつけないものもあった。それでも不思議と空腹感はなかった。

  ところがこれでも、あるパターンで眠気が襲った。4時に起床して身支度を整えてから朝食(5時10分)までの瞑想は、たいてい充実する。これは、前日、就寝前の補給(玄米粉末とココアに蜂蜜、黒砂糖などを加えたもの)によるエネルギーが残っているかららしい。

  が、小一時間の朝食が終わる6時ごろからの瞑想は、猛烈な眠気けが襲う。7時半から始まるダンマトーク(所長の講話)も前半は眠気との必死の戦いだった。ところが講話の途中から急に頭が冴え、眠気が吹き飛ぶ。このパターンが二日続いた。

◆適量  

  最初これば食べすぎによるのかと思ったが、事実は逆だった。同じ量を食べても昼食の後は眠気がこなかった。ダンマトークの途中で急に頭が冴え始めたのは、朝食で食べたものが腸にまわって吸収されはじめる時間と一致する。それ以前は、完全にエネルギー切れの状態で眠気に襲われていたのだ。

  その証拠に、4日目から起床間もなく蜂蜜入りの野菜ジュースを一杯半ほど補給した。すると朝食後からダンマトーク途中までの眠気がほぼ一掃されたのだ。  

  2日目の夜、猛烈な眠気が襲い瞑想にならなかったのも、補給が不十分でエネルギー不足の上に風呂に入り、さらにエネルギーを奪われたかららしかった。

  食事の量が少なすぎるのではないかという先生のアドバイスもあり、4日目からやや多めにした。玄米おこわは4口。おかずも多めに食べた。夕方や夜の補給も多めに取るようになった。  自分の適量がおおよそつかめ、瞑想も安定し始めた。

◆食事という条件  

 ここで瞑想と食事のことに触れたのは、瞑想を進めていく上で食事の調整が大きな影響をもち、それを抜きにしては充実した瞑想はできないと強く感じたからだ。2日目、3日目あたりまでは食事の調整がうまくいかず、眠気と戦う時間が多かった。

  4日目あたりからは、自分の適量をおおざっぱに掴むことができ、最低限の条件は整った。しかし、それはあくまでも眠気に襲われないための条件であって、高度の瞑想をするための食事の調整はさらにさらに奥深いものがあるようだった。

  地橋先生は、食事に関して100パーセント完璧ということはないとおっしゃっていた。どのような条件がどのように重なって充実した瞑想が可能になるのか、長年研究してきた地橋先生にも完全な答えは得られないとのことだった。

  いずれにせよ、瞑想と食事の関係についてこれほど実践的に研究を重ねてきた人も少ないのではないか。少なくとも私が読んだ瞑想関係の本の中で食事との関係に詳しく触れたものを知らない。ヨーガ関係では少し読んだ記憶があるが。

◆食事も瞑想だ

  ヴィパサッナー瞑想では、食事中の一挙手一投足、噛むという一回一回の動作までもが瞑想として行われる。 食事は、箸の上げ下ろしから、おかずを掴み口に運ぶ動き、お椀や湯飲み茶碗を掴んだり離したりする動き、食べ物を口に入れ、噛み、味わい、飲み込む行為など多様な動きがある。それら一つ一つを信じられないほどゆっくりとしたスピードで、しかも区切りを入れてラベリングしつつサティする。

  動作が多様なので、歩行瞑想よりもサティに集中しやすいかもしれない。前回この合宿に参加したときも食事の瞑想は好きだった。今回も張り切って臨んだ。

   一回一回の噛む動作にサティを入れる。途中から味に注意が移れば「味覚、味覚」とラベリングしながらサティする。そうしていると同じ食べ物でも噛むごとに味が変化していくのが克明に分かる。おかずと並んであったアーモンド二つをゆっくり噛んでいるいく過程での味の変化!味噌汁などを飲み込んだ時の食道から胃に至るセンセーションのサティ。一刻一刻が新鮮だった。  

  ただ、合宿も半ばを過ぎると食事の瞑想もやや新鮮味がなくなる。ある朝眼を閉じて噛んでいるときに気付かずに雑念を追っていた。その日、個人ではなく全体に対してだが、食事のサティがたるんでいるとお叱りを受けた。

歩行瞑想

◆歩行瞑想に集中できず

 上にも触れたように、合宿の前半ではまだ食事の量の調整が充分でなく、エネルギー切れで眠気に襲われたりした。5日目ごろからは眠気も少なくなり、腹の筋肉の動きへの集中もぐっと高まった。 腹の動きへの集中が高まったひとつの理由は、腹の「気」への感覚が高まったからだと思われる。 この合宿では、日を追うごとに「気」の感覚も鋭敏になり、面白い発見もしたのだが、ヴィパッサナー瞑想とは少し別の話なので、これについてはあとでまとめて書きたい。

  問題は、歩行瞑想での集中がなかなか出来なかったことだ。先生のお話では、腹の筋肉には集中できるのに足の裏の感覚に集中できないことは、「理論上はありえない」とのこと。センセーションへの集中度は、部位がどこであろうと同じはずだ。 もし歩行瞑想だけがとくに集中できないのなら、それなりの理由があるからだろう。

  足の裏が床から離れ、移動し、床に触れ、そして足裏が全面的に床に着き体重がかかっていくまでのセンセーションの変化を、「離れた」→「移動」→「触れた」→「圧」などとラベリングしながら追っていく。

  グリーンヒル瞑想研究所では、観察を徹底させるため、一つン動作が終わったあとにラベリングするよう指導させるが、私はその辺が不徹底で動作しながらラベリングしたり、動作の終了後にラベリングしたりが、入り混じっていた。

  先生に、観察することが大切なヴィパッサナー瞑想で、動作と同時にラベリングをしていたら観察にならないではないか、と言われた。足を移動させる途中でふらつくかも知れないのに、動作中から「移動」と言っていたら、それは観察したことのラベリングではなくなってしまうではないか、といわれて納得した。

 集中できない理由のひとつがここにあるのかも知れないということで、ラベリングを観察の後にすることを徹底して行った。もっと早くこれを徹底しているべきだった。

◆バイブレーション  

 翌朝、歩行瞑想に集中していて、気ががつくと低音の強いバイブレーションが頭に響いていた。座禅の時には3日目あたりからこのバイブレーションが響いていた。ある程度の瞑想状態になると強くなるらしい。

 歩行者瞑想中も強い脳内バイブレーションが響くようになったということは、歩行瞑想にそれだけ集中できるようになったということだ。 

◆足裏の感覚  

 瞑想合宿の前半は、座禅に意欲が向かい、歩行瞑想はおろそかになっていた。歩行瞑想がうまくいかないという理由もあった。 歩行瞑想の方法について、その一動作ごとに先生にきわめて具体的なアドバイスをもらい、また歩行瞑想こそヴィパッサナー瞑想の醍醐味だと発破をかけられ、後半は歩行瞑想中心の組み立てになっていった。  (ちなみにこうした歩行瞑想の最中にメガネの錯覚をさかんに感じていた。)

 雑念・妄想の類は多いのだが、足裏の感覚は非常に鋭くなっていった。  じゅうたんから足の指先が離れるときのホワッとした感じ、その余韻。足をゆっくりと移動させるときの空気の抵抗感のような感覚。(あるいは足が動くに伴う気の動きや抵抗にも感じられた。)  足が止まったときの感覚は、停止と同時に何かがズズッと少し前へ動く感じ。まるで急ブレーキとともに体が前へつんのめるかのように何かが「つんのめる」感覚が、かすかに足先にあるのだ。

  じゅうたんに触れる一瞬の感触。そして体重ゼロの状態から足裏に全体重がかかっていくまでの変化。その変化の大きさにびっくりする。足を移動するごとに何という重さが足裏にかかるのか。  

  歩行瞑想は、こういう足裏の感覚を感じ取ることの連続だ。 おそらく、先生がこんなふうに感じられるだろうと言った感覚はすべて感じたといってよい。  

洞察なきセンセーション

◆洞察なきセンセーション  

  しかし私は、この先にもっと何かがあるのだろうと感じていた。これだけじゃない、これだけだったら何と言うこともない。そう思ってけんめいに歩行瞑想を続けた。

 面接で、自分が感じたことを報告した。先生によれば、センセーションとしてはそれでよいということであった。

 私は「えッ」と思った。こんな程度ではなく、もっともっと鋭い感覚の変化のようなものが訪れるのかと思っていた。これだけでいったい何が変ったというのか。

 そんな私に先生は、「センセーションはよくとれているが、洞察がない」とおっしゃった。  私は、この言葉の意味が充分に分かったわけではなかったが、とくに質問をしなかった。あえてしなかったというのではないと思う。洞察は、自分が修行のなかで得ていくほかないと、無意識のうちに思ったのかも知れない。

 「洞察なきセンセーション」の意味は、翌日(8日目)のダンマトークを聞いていたときに、自分なりに明確になった。

◆洞察  

 地橋先生のダンマトークの中で次のような話を聞き、強い感銘を受けた。

 ある人が、非常に心にひっかかる人物について心随観をしていた。やがてその人物への囚われから解放されたと感じ、やっと「一人になれた」という感慨をもった。心の中の同居人から解放されたのだ。自分の心への洞察を得て一つの問題が解決された。一人になれたら妄想が激減した。鋭いサティが飛び出すようになった。歩く瞑想でも、センセーションの生滅変化がクリアに見え、無常性がわかるようになった。

 歩く瞑想で集中が高まると、妄想に対する見方も変化し、レベルアップした。緻密にセンセーションが感じとれるようになれば、妄想に対してもクリアなサティが入るようになる。妄想が出た瞬間にサティが入る。

 妄想をつかまないから、妄想の持ち主がいないという印象があった。つかめば、私が妄想しているというエゴイリュージョンが出てくる。妄想をそのつど手放しに出来れば、かってに妄想が現われては消えていく感じになる。思考が出た瞬間に対象化してしまえば、妄想している「私」というイリュージョンが入り込む余地はない。一瞬一瞬のサティを厳密にやっていくと、エゴの感覚の入りようがない。  だいたいこんなお話だった。歩行瞑想や腹の動きへの集中による身随観が狙っていることは、こういうことなのだと思った。そして、これが「洞察」なのだ。エゴがイリュージョンでしかないことの洞察!!

◆サマーディから程遠い

 ではなぜ私に洞察がないのか。センセーションは緻密になっているのに、何も変化がないのか。

 私にとって答えは実感的に明らかだった。相変わらずエゴにしがみついているのだ。メガネのイリュージョンにしがみついて必死に抵抗している。妄想も多いし、集中も足りない。サマーディからは程遠い瞑想であることは、自分がいちばんよく分かっていた。

 確かに足の裏の感覚は敏感になっているが、ダンマトークのお話から想像されるような、ひとつひとつのセンセーションが向こうから飛び込んでくるクリアさがない。「瞬間定」のレベルからはほど遠いのだ。

  エゴを手放さぬまま、ある対象のセンセーションを、ある程度鋭くしていくことは可能だろう。しかしそのままでは、エゴによる編集以前のなまの知覚に触れることは出来ない。 合宿中の私は、エゴを手放すことを恐怖し必死に抵抗していたようだ。

◆位置感覚が薄れる

  グリーンヒル瞑想研究所での合宿では、参加者全員が毎日40分前後の面接を受ける。全員を行うと午後2時半から9時前後までが面接に費やされることになる。先生の労力たるや並大抵のものではないが、参加者はほとんどマンツーマンの指導をしてもらったような充実感がある。

   面接でどんな指導を受けたかは、前回参加の際のレポートも含めて折に触れて語ったのでここでは繰り返さない。 順番は一日ごとにずれていくので2時半から面接が始まるときもあるし、8時過ぎになることもある。合宿8日目の私の面接は、8時半近くから始まったと記憶する。

  問題は、面接が終わったあとだった。脳のバイブレーションがこれまでになく強いのだ。バイブレーションの大きなうねりのようなものを脳内に感じていた。これはよい瞑想ができそうだと思い、すぐ座った。

  座禅を始めるとバイブレーションはますます強まり、集中も高まった。からだが硬直したかのように微動だにしない。そして意識は非常にクリアになった。

 意識ははっきりしているのだが、自分の胴体がどこにあるのか位置感覚がなくなっていく。その不思議な感覚のなかで試しに手を少し動かしたら、硬直などしていず自由に動かせた。しかし瞑想に戻ると、身体はやはり微動だにせず、また体の位置感覚が失われていく感じだった。

   自己意識はしっかりあって、雑念もあった。しかし、雑念はそのつどしっかりとサティされていた。  こんな状態が少し続いたあと、9時半で就寝準備の鐘がなった。

  翌朝の起床後、4時半ぐらいから朝食までの瞑想も同じような状態だった。強力に概念思考する自我はあり、妄想も湧き上がるが、意識はクリアでサティは確実に入っていく感じだった。

◆思考の兆候へのサティ  

 合宿9日目の朝食以降はほとんど歩行瞑想に費やした。足裏のセンセーションは相変わらずよく取れていた。しかし思考は多かった。ほんのわずかな思考の動きにすら非常に厳密にサティを入れた。

 ときには、思考が浮かびそうになる瞬間にサティが入ることもあった。何か思考しようとしていたという漠然たる感じや情感は残るが、それが何であるかはわからなかった。

  形になる前の思考へのかすかな兆候にすらサティが入るほど厳密にサティしていると、自分の思考のエゴ的な性格がいやというほど分かった。足裏のセンセーションを中心対象にして、そこからはずれて妄想すればそれにもサティという方法だからこそ、自分の妄想の実態がよく見えてくるのだと思った。

 しかし、それらが地橋先生のいう「洞察」に至っていないのはよく分かった。何か新しい視界が開けて、見方に大きな変化が生じるような「発見」はなかった。自分の集中力の不足も感じていた。

思いが定まった

◆意欲の激しい減退

 歩行瞑想を繰り返していた午後2時か3時ごろに、突如として激しい意欲の減退に襲われた。いくら続けて大きな「変化」の起きない状態に、つくづく飽きが来た。今回の合宿は、この程度でで終わりかというあきらめもあった。

 ただ、その後も歩行瞑想を続けていたのは、歩行中の「衛気」の変化への感受性が増し、そちらへの興味が持続していたからかも知れない。

  以上のことを夜の面接で地橋先生にレポートすると、意欲が減退したり、飽きが来たりしたときにこそ自分の気持ちをサティするのだと指摘された。

   この10日間、一心に取り組んできたことへの飽きであり、あきらめだから自分ではその事実を認めたくない。認めたくないからサティを入れるのは難しい。しかし、そんな時にこそ心随観が大切なのだ。「飽きた」「意欲の減退」などラベリングし、その時の自分の状態を客観視できれば、そこから何かが崩れて新たな視界が開けるかも知れないのだ。

   にもかかわらず、そういうありのままの自分への気づきを忘れて、新たな気の感覚に遊んでしまったのだ。足裏のセンセーションにひたすら集中すべき瞑想なのに、気の感覚に逃げてしまった、と先生に鋭く突かれた。この言葉で、自分の集中がいかにいい加減なものであったかを痛感した。

 ともあれ、こうした意欲の減退の中で、あのメガネの幻覚は消えていったのだ。

◆思いが定まった

 今回のヴィパッサナー瞑想合宿での自分の瞑想プロセスについてはこれまでに書いた通りだが、それ以外にまだ書き留めておきたいことがいくつかある。

 今回の合宿が私に与えた影響の大切なひとつは、今後出来る限りとことんヴィパッサナー瞑想を追求していこうという思いが定まったことである。もちろん今までもそういう思いはあったのだが、今回の合宿参加で決定的になった。 どうしてそう思ったのか。自分のなかで明確になっているわけではないが、あえて整理を試みる。

1)自分でやっているとどうしても、生活のなかで中心対象を設定しないで行うサティが中心になる。合宿では座禅や方向瞑想で中心対象を設定して行うサティが中心になる。後者の大切さをも改めて確認する。と同時に心随観の重要性も再確認する。これらがすべて一体となって作用するヴィパッサナー瞑想の重層的な瞑想効果の意味を改めて感じた。

2)合宿で10日間サティを続けることの重みと可能性を改めて深く感じた。時間さえ許せば、今年の夏もぜひ合宿に参加しいと思った。

3)自分のような下根のものでも、続けていけばそれなりに瞑想を深めていけそうだという実感が持てた。 これで充分表現しえたような気はしないのだが、今、言葉にできるのはこの程度のようだ。

◆日常生活でのサティ  

 合宿に再び参加して、これまでの自分の日常生活での瞑想について、これでいいのかともう一度検討しなおす必要を感じた。  地橋先生は、このダイアリーに書いているような取り組みについて「ヴィパッサナー瞑想のシステムを踏まえず、自分の直感に頼って試行錯誤している」と指摘された。私がいろいろ試みているようなことは、たとえばスリランカ・システムによって適切なステップを踏むことで効果的に実践が出来るという。ヴィパッサナー瞑想を続けていくある段階で、スリランカ・システムによるご指導を受ける機会もあるだろう。

 とりあえず今の私は、日常活動のなかでの中心対象を設けないサティと、一日何十分かの座禅や歩行瞑想・立禅と、心随観とを、どれかに偏らず続けていくことが大切だと思っている。