ときに疑うこと
舞台「チ。ー地球の運動についてー」を観に行きました。
演劇というのは独特の緊張感があるものですね。すでに作り終えたものを観るのではなく、まさに目の前でいま作り上げられている場面を観るという体験。リアル、ライブ感、臨場感。そんな言葉しか思い浮かばないけど、とにかく面白く観ました。マンガ原作ファンからすると、よく3時間にまとめたなという感想を持ちましたが、マンガを読んでいないと難しいのかもということも気になりました。物語を知らない人が観たらどのように感じるのかなと。
舞台を観て改めて思ったのはこの物語の主人公は実はノヴァクなのかもしれないということでした。最初から最後まで出ているし、天動説と地動説の戦いの軸になり続けている。ノヴァク自身は最後には「私はこの物語の悪役だったのか」と述べていますが、悪とは何かという定義は難しい。森山未來さんの迫真の演技は目を見張るもので、原作を知っているのでセリフも分かっているのだけど、ノヴァクの嘆きや怒り、そして最期の祈りがありありと伝わってきて、やはり凄い俳優さんだなと感じました。
オクジー役の窪田正孝さんもやはり上手でした。しかし私がイメージしているオクジーとは少し違ったキャラクターになっているようにも感じました。これは考えさせられました。
私はこのキャラクターに自分の研究テーマを重ねて考えてきて、つまり「悩めなさ」を色濃く持つキャラクターとして捉えようとしていたわけですが、今回舞台のオクジーを見て、違った解釈もあり得るのかもしれないと感じました。すなわち、彼は星空を直視できないということに対する葛藤を十分に意識していたのではないかと。そうすると単純に一貫して悩みを悩めない人物であったとも言い難い。無論、悩めないときもあった、そこから変化したということがオクジ―を語るうえでは重要な気もしますが。
どちらが正しいキャラクター解釈なのかということではなく、違った見方もできるのかもしれないと思わされたことが自分にとっては大切でした。
自分が取り組みたい研究テーマだとか問いを見つけるということはある意味ラッキーな出会いだとも思います。問いを立てるまでが難しかったりするので。
しかしこれこそが自分の問いだ、理論だ、と思いすぎると視野狭窄になる可能性があるなとも思います。カウンセリングにおいても目の前のクライエントを自分の関心事や理論ありきで見てしまうと、それは恣意的なアセスメントと介入になってしまいかねないでしょう。
何か月か前に読んだ本に、恣意的な仮説の元に恣意的なデータをいくら積み上げてもそれは新しい知見とはいえない、というようなことが書いてあってなんだか委縮してしまったことがあります。厳しいことですがその通りだと思いました。
なるべく多くの事象に触れ、あえて結論を急がずに中立的な態度で考えていくこと。
ときに自分を疑うこと。それが私にとって、割と手前の方にある課題のひとつかもしれません。