「姫たちの落城」第9章 毛利家の人々ⅰ<戦国編>①
戦国時代元就によって中国地方120万石を領有した毛利家は、鎌倉幕府政所大江広元の4男で、相模国(神奈川県)を領した幕府御家人毛利季光(すえみつ)を先祖とする。季光は自分の領地が毛利荘であったため、これに因み姓を毛利と名乗るようになる。戦国時代になり梟雄毛利家12代当主元就は、安芸高田郡吉田荘(広島県安芸高田市)の「吉田郡山城」を拠点として、一国人領主から一代にして安芸、備後、周防、長門、岩見,出雲の6ヶ国を支配する。慶長5年(1600)元就の孫毛利輝元が「関ヶ原の戦い」で西軍に与し、防長2国に減封された。萩藩主となった毛利家は、幕末「薩長同盟」を結び、痛恨の268年を経た慶応4年(1868)戊辰戦争により徳川幕府を崩壊させ、明治維新を成し遂げた。家紋は一文字に三星「一文字三星」である。この家紋は毛利氏の祖「一品(いっぽん)親王」と呼ばれた、平安時代の安保親王の名を図案化したものとされている。
15th末期毛利元就は父弘元の次男として誕生した。西に大国「大内家」、東に新興国「尼子家」に挟まれた毛利家は、常に双方に従属を迫られた弱小大名の滅亡状態であった。毛利家に限らず安芸(広島県西部)備前(岡山県)岩見(広島県、島根県)の国人領主たちは、その都度主人を変えていき、生き延びていった。その中でも元就は両家を謀略で対抗、中国地方を支配する大大名に躍進していく。10歳で両親を失った元就は、所領猿掛城も家臣によって横領される始末であった。こうした状況を救ってくれたのが、父広元の側室であった「杉大方」であった。杉大方は養母として、元就の生活を支え養育してくれた。永正8年(1511)元服、杉大方や家来たちの働きによって、「船岡山合戦」を機に大内方の陣営から離脱、安芸国に帰還した。後年元就は彼女に大いに感謝し大事にした。大永3年(1523)になると、出雲国尼子経久が安芸国に出陣してきたのを機に、元就は尼子氏側の陣営に属した。この年補佐していた兄の子幸松丸が9歳で死去したため、元就が毛利家12代当主として継ぐことになる。この相続に不満を持つ家臣たちと、尼子氏の介入を受け入れがたかった元就は、再度大内氏側に帰属、戦国の時代を乗り切っていくことになる。宗家を相続した元就は、小規模であった「吉田郡山城」を山全体に拡大、尾根や谷に大小270段の曲輪を築造、城郭化していった。吉田郡山城は戦国時代中国地方最大の山城、城域は東西約1,1㌔、南北約0,9㌔である。元就は築城にあたり人柱にされそうな少女を救い、「百万一心」と刻んだ礎石を埋めた。この字を分解すると「一日、一力、一心」となり、力を合わせれば恐れるものはないと説いた。天文9年(1540)3万の尼子軍に攻め込まれた元就は、わずか3千の軍勢で籠城、大内氏の援軍などにより辛くも勝利した。この城は孫輝元が天正19年、広島城へ移転したため廃城となるが、城跡には元就など毛利家の墓所や、土塁の遺構が見ることができる。
天文10年(1541)元就3男隆景は、安芸竹原小早川氏の当主が死去したため、養子となり家督を継いだ。次いで同15年、次男元春が吉川氏を相続、これにより元就は安芸、岩見に勢力をもつ吉川氏と安芸、備後、瀬戸内海に勢力をもつ小早川家の勢力を取り込み、2人の息子を養子に出し結果的に両家を乗っ取っていく「毛利両川体制」を確立させ、領国支配を強固なものにしていった。一本の矢も束になれば強くなる。死の床についた元就が隆元、元春、隆景に書いた教訓状が毛利博物館(防府市)に残されている。しかしながら、元就が元亀2年(1511)75歳で死去する以前に、長男隆元は他界しているため、この教訓状は後世の創作とされる。
天文11年「第1次月山城富田城の戦い」勃発。大内義隆は元就らを従えて、尼子経久の跡を継いだ晴久の月山富田城を攻めた。晴久は大内氏を迎撃すべく全山を要塞化、義隆は富田城を攻めあぐみ惨敗、元就も尼子氏の所領奥地に入り込みしすぎたため、危機を感じ敗走したが、無事安芸に帰還している。月山富田城は出雲の戦国大名尼子氏の本拠で、戦国時代きっての巨大山城である。飯梨川の右岸月山(183m)に建造され、四方は急激な崖に囲まれた天然の要害で、元就も攻略に苦しんだ城である。尚、尼子氏は近江源氏、南北朝時代の京極氏が家祖である。室町時代になり幕府は京極氏を出雲の守護に下向させた。尼子氏が守護代として出雲に下向し、尼子経久が月山富田城を根拠地として因幡、伯耆、壱岐の他、安芸や備後などにも領土を拡げ、周防と長門の大内氏と並ぶ戦国大名に成長させた。一方の大内義隆は、周防(山口市)を京都のように碁盤の目のように組み合わせた条坊制の都市とし、戦乱から逃れた京の公家集団を匿い、寺社を保護、町は「西の京」と呼ばれた。その一方で宣教師フランシスコザビエルに布教の許可を与えて、日本初のキリスト教教会となる「大道寺」を建立している。
天文14年、元就は養母の杉大方(享年65歳)と正室妙玖(享年47歳)を相次いで亡くした。妙玖は安芸国の豪族、吉川国経の次女で19歳の時、21歳であった元就に嫁いで来た。元就は息子隆元に宛てた手紙に「この頃は何故か妙玖のことばかり思い出してならぬ」と書き送り、「内は母をもって治め、外をば父をもって治めよとの金言は少しも違わず」と述べ、家庭一切を妙玖に任せていた。夫婦仲は円満で多くの子供たちを設けた。元就はそうした妙玖にぞっこんで妻が存命中は側室を持たなかった。妻妙玖を亡くしたことを淋しく思っていた元就は、息子たちに「兄弟3人が一心同体となって、家のために尽くすこと(3本の矢の教え)が、母親妙玖への供養になる」と、息子たちに毛利家の結びつきを説くときに語られる妻妙玖は、毛利家の大切な結び目の母親であった。「チーム江戸」