明治天皇の「教育勅語」
明治維新には王政復古と文明開化という二つの大きな目標があり、それが調和したものが、明治元年(1868)3月14日に、明治天皇が京都御所の紫宸殿に、天地の神々を祭りお誓いになった「五箇条の御誓文」です。そこには「智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし」という一箇条があります。ここにいう「皇基」、皇国の基とは、教育勅語にある「天壌無窮の皇運」と同じ意味を持っているように思われます。世界中の知識や技術を採用して近代化、文明開化を目指すことは、一方で王政復古に象徴される、日本古来の正しい道の発展に資するものでなければならない。この「五箇条の御誓文」に示された「和魂洋才」の精神は、今なお尊ばれるべき明治維新の精神の基であり、「教育勅語」はこの明治維新の精神から出発していると思われます。
明治天皇は、明治5年より明治18年まで、6回にわたる地方巡幸によって、日本全国をつぶさにご視察になり、学校の授業もご覧になりました。明治12年(1879)には、側近の元田永孚(ながざね)に教育現場をご覧になった感想を述べられました(聖旨教学大旨)。日本の伝統的な教育の基本は仁義・忠孝といった道徳を学び、その上で知識や技能を身につけて、世のため人のために尽くすことにあるが、近年の状況は知識や技能の習得のみを尊び、道徳の教育が疎かにされているとして、将来のことを大変心配しておられます。
憲法発布の翌年、明治23年(1890)2月の地方官会議で徳育の問題が議論され、岩手県の石井省一郎知事らが提言を行いました。それをお聞きになった明治天皇は、時の文部大臣榎本武揚に、徳育に関する箴言(格言)案の作成を御下命になりました。同年5月に内閣の改造があり、文部大臣に芳川顕正が就任します。時の総理大臣は山縣有朋です。文部省の命により、最初に中村正直が6月に草案しました。忠孝の根源は敬天・敬神にあるという趣旨のものでした。これを受けて、法制局長官の井上毅が新に草稿したものを原案に、元田永孚が修正を加え、これを明治天皇にご覧に入れましたところ、元田永孚にもう少し吟味するように御下命があり、何度も推敲を重ねた末、明治天皇のご裁可を得て、教育勅語の成文が完成しております。
教育勅語は明治23年(1890)10月30日に渙発され、その一カ月後の11月29日には、帝国議会が開設されております。新しい立憲政治、議会政治に先立ち、国民教育の基本をお示しになったものであり、通常の詔勅とは異なり、内閣大臣の副署がなく、明治天皇が政府を経由せずに、直接国民一人一人に賜ることを意識したものといえます。
教育勅語の全文は次の通り、三百十五字の簡潔な文章です。(原文は句読点なし)
朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厥ノ美ヲ濟セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。
爾臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス、朕爾臣民ト倶ニ、拳々服膺シテ、咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。明治二十三年十月三十日
御名 御璽
第一段の「朕惟フニ」から「教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」までは建国の精神が述べられています。「朕」は、天皇御自ら「われ」と称されるお言葉であり、「惟フニ」は「思うに」と同じで、「考えてみるに」ということです。「朕惟フニ」は、下の「教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」までかかります。明治天皇が、ご自身の大御心を国民にお示しになるために、最初に「朕惟フニ」と仰せられたものです。「我カ」は「我等が」という親しみの意味がこめられています。「皇祖皇宗」は、皇室の御先祖のことです。我が国では古より天皇を「すめらみこと」と申し上げ、「すめ」はこの上もなく尊いという意味で、古典では皇祖を「みおや」と訓ませています。「祖」と「宗」とを分けるときには「皇祖」はその国を肇め造った第一代の君主をさし、「皇宗」は第二代以降の君主をさしますが、我が国は悠久の昔より一系の皇統がお続きになっています。明治時代の詔勅に「皇祖」と「皇宗」とを分けてある場合は、御歴代を遠く神代にまで遡り、皇祖はその始めの方を仰せられ、皇宗はその後の方を仰せられていますので、ある時代に限定して区別したものではなく、皇祖・皇宗併せて一つの意義をなし、祖宗列聖と仰せられたのと同じことになると思われます。「国」は「国家」のことで、ここでは万世一系の天皇が統治する皇国(日本の国家)のことです。「肇ムル」は、創め造るということ。とくに上古のある時代に限定せず、長く引き続いてのことを申します。「宏遠ニ」は、広大久遠の規模のことで、我が国の建国は太古にあり、かつ規模が宏大であることを説いたものです。「徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とは、皇祖皇宗が君徳を樹立し、我が国民の理想とすべき道徳を国中に深く厚くお布きになり、人倫の大道を示されたことを申します。「我カ臣民」は、皇祖皇宗以来、天皇に仕える歴代の国民を「我等が臣民」と親しんで仰せられたものです。
「克ク忠ニ克ク孝ニ」は、世々の国民が、よく誠の心をもって国家に奉仕し、誠の心をもって先祖と親に仕えたことを申します。「億兆心ヲ一ニシテ」は、多くの人々が心を同じくして。「世々厥ノ美ヲ済セルハ」は、代々その忠孝の(道徳的に)美しい風習を成就して来たのは、という意味です。「此レ」は「我カ皇祖皇宗」以下、「世々厥ノ美ヲ済セルハ」までを承けます。「我カ」は「我カ皇祖皇宗」の「我カ」と道義で、「我等が」「私たち日本人の」という親しみをこめられた表現です。「国体」は、日本の古典の伝承にもとづく建国の原理、ないしは国家の体制のこと。「精華」は、その最も純美なところという意味です。「我カ国体ノ精華」とは、由緒ある日本の国の特色の中で、最も純美な素晴らしい所ということです。「教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」については、「教育勅語」は国民に教育の根本を示されたもので、ここに「教育」とあるのは「国民教育」のことで、学校教育はもとより家庭教育、社会教育などすべてを含むものです。「淵源」は、基づくところ、国民教育の根本とし理想とするところ。「実ニ」はまことに、たしかにそうであると強調する語句です。「此ニ」は前の「此レ」と同じ事柄。「存ス」は「在る」ということです。「我カ国体ノ精華」は、すなわちまた我が国民教育の根本であり、理想たるものの存するところであると、意味を強く確かめて仰せられたものです。
次に、第二段の「爾臣民」から「又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」までは、国民が実践すべき徳目について、親しく仰せられたものです。「爾臣民」は、「汝ら臣民よ」と私たち国民一人々々に親しく呼びかけられたものです。「父母ニ孝ニ」は、父母に孝行の誠を尽くすこと。直接の父母に始まり、祖父母・曾祖父母・高祖父母、更に伯叔父母等、なお進んでは父母の子孫に対する道をも含めることができます。「兄弟ニ友ニ」は兄弟姉妹に友愛であれよと仰せられたものです。「夫婦相和シ」は、夫婦が互いに愛情の心を以て相和すことです。「朋友相信シ」は、友達は互いに正直でいつわりのない信をもって交わることです。「恭倹己レヲ持シ」は、恭倹の徳、すなわち我が心をひきしめ、行いを慎んで、事のよきほどを守り、道に外れたことをしないことを心がけて我が身を取り扱うことです。「博愛衆ニ及ホシ」の「博」は「広」、「愛」は思いやりの心から人のためになることをすること。「博愛」は偏りなく普く一切に行き渡る愛ということです。「衆」は多くの人々、すべての人類。「及ホシ」は「行きとどかす」の意味で、「施す」という意味とは違い、近きより遠きに行きとどかすことで、それには順序の差別があります。その差別はおおよそ縁の軽重や事の緩急によって決まります。この教えをおし広めて、愛情を動植物や地球の環境(禽獣草木等)にまで及ぼすべきである、と解釈することも出来ますが、それらは「博愛衆ニ及ホシ」の教えの応用とすべきものです。「学ヲ修メ行ヲ習ヒ」は、学業を修習しという意味で、修学と習業は別の二つの事ではないと思われます。「以テ智能ヲ啓発シ」は、学業の修習によって智識や才能を発展せしめることです。「徳器ヲ成就シ」は、人としての徳性(道徳的人格、道徳的品性)を修め養うこと。「進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ」の「進テ」は、学を修め業を習う立場から、更に世の中に進み出てということです。「公益」は社会・国家の共同のためになること。公共の利益のことです。「広メ」は発展せしめてその及ぶところを大いにすること。「世務」は社会・国家のためになる仕事。世間有用の務め。「開キ」は創造し発展せしめることです。「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」の「常ニ」はいつでも。「国憲」は国家の根本規則。ここでは皇室典範と帝国憲法のことです。「重シ」は尊び守ること。「国法」は国家の規則で、ここでは法律等のことです。「遵ヒ」は守り行うことです。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」は、もしも急な事変が起こったならば義勇(正しい勇気)を奮い起こして公共のために(国家社会に)奉仕せよという意味です。「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の「以テ」は「父母ニ孝ニ」より「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」までを承けます。「天壌無窮」は天地と共に窮まりのない、永遠ということ。「皇運」は日本の国の隆運。「扶翼」はたすけなすことです。「是ノ如キハ」は「父母ニ孝ニ」以下「皇運ヲ扶翼スヘシ」までを承けます。以上は我が国民の道であってこれをよく守り行うものは、という意味です。「独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス」は、ただ忠義順良の臣民であるのみならず。「又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」は、またこれによって、汝ら臣民の祖先が伝承してきた美風(麗しい風習)を十分に顕彰できるであろう、という意味です。なお、この一節は前段の「我カ臣民……世々厥ノ美ヲ済セルハ」に照応するものです。
教育勅語に仰せられている道徳の徳目は、大きく三種類に分けられます。ひとつは、「家族や友達との人間関係についての徳目」で、「孝行」、「友愛」、「夫婦の和」、「朋友の信」がこれにあたります。二つめに、「社会のなかで活動する個人の徳目」として、「謙遜」、「博愛」、「修学習業」、「智能啓発」、「徳器成就」があります。三つめに、国家・社会の一員としての行動についての徳目として、「公益世務」、「遵法」、「義勇」があります。さらに、日本人の道徳の根本理想としての「皇運扶翼」の道があります。
次に、第三段の「斯ノ道ハ」から「咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」までにおいて、明治天皇は先祖伝来の道を国民と共に実践しようとの大御心をお示しになっております。「斯ノ道ハ」は、この我等のまさに実践すべきことは、ということで「斯ノ道」というのは前段の「父母ニ孝ニ」以下「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」までのことです。「実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ」の「遺訓」は、のこし伝えた教えのことで、ここでは皇祖皇宗の遺し伝えられた御教えのことです。「子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」については、この道は実に我が皇祖皇宗の御遺訓であって、其の御子孫にまします天皇や皇族の御方々も、また国民及び国民の子孫も、皆斉しく永久に遵い守るべき所のものであると仰せられたものです。「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」の「之」は、「斯ノ道」のことです。「古今ニ通シテ」は、昔の時にも、今の時にも、何時でも。「謬ラス」は間違いがないこと。「中外ニ施シテ」は我が国で行っても、外国で行っても。「悖ラス」は逆にそむくことがないということ。「斯ノ道」は時からいえば「古今に通じて謬らず」、処からいえば「中外に施して悖らず」、すなわち宇宙に行き渡った真理であることを強く確信して仰せられたものです。「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」における、「拳々服膺」は慎んでこれを我が身に付けて自ら守り行うこと。慎んで奉戴実行することです。「咸」は皆と同じく、ことごとくの人ということ。「徳」は、これまで述べられてきた日本伝来の道徳のことです。朕は汝ら臣民と斉しく、つつしんでこれらの道徳を我が身につけて、自ら之を実践し、皆その徳を同一に、心を一つにすることをひたすら願い望むと仰せられたのであります。
教育勅語の精神を、今後の国づくり、社会づくり、人づくりに、どのように継承していくべきかについて、二つの提言を申し上げたいと思います。まず、教育勅語は、まさに「声に出して読みたい日本語」、素晴らしい文章です。これを読み、あるいは書き写す、あるいは内容等について勉強する機会を折々に設けて、理解、習得に努めていくべきだと思います。もうひとつは、私たちの身近にある昔話や民話、あるいは家庭、神社等での祭礼や、年中行事、しきたりなどの大切さを理解し、伝承発展させていくことが重要です。私たちの身近にある伝統文化の精神を再確認して、伝統文化の継承と発展に尽くすことは、教育勅語にある、私たちの祖先の遺風の顕彰に努めることに他ならないと思われます。