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霊性への旅

The Art of Attention(Ven.Pannyavaro)を読んで

2019.03.01 02:37

この本は、仏教関係のサイトとして中心的な役割を果たしている、Buddha Netの中に紹介されたEブックスの中から、ヴィパッサナー瞑想の上の日常的な修行に言及して論じているものということで選んで読んだ。あくまでも私の関心から興味深いと感じられたところを簡単に要約して紹介するものである。論旨を正確に要約するものではなく、印象に残った文章を、意訳したり短くしたりして紹介したものである。 


【瞑想という注意の技術】

◆ものの本性を洞察する智恵をもたらすのは、修練によって獲得された「瞑想的な注意」である。私たちはほとんどの場合、注意もせず焦点づけもなしに様々なことをし、すべてを表面的な経験にしてしまう。だからこそ私たちは、システマティックな方法にしたがって、散漫になりがちが注意を訓練する必要があるのだ。

◆ありのままを見る注意の技術とは、経験の中心になっている対象を、えり好みや干渉なしに、ただ心に受け止めることだ。それが、感覚であろうと音であろうと思考であろうと心の状態であろうと、ともあれリアクションなしに、変化する現象に気付くこと。

 訓練されていない心は、観察しているあいだにさまざまな反応を起こすだろう、その場合は、その反応に気付けばよい。

◆どんな姿勢や状況のなかにあっても、自分が現になしていることに注意を向け続けるのが「瞑想的な注意」である。それは、五感と第六感(心)へ意識的な方向付けをすることにより、自分のあらゆる活動に充分に気付いていくというやり方である。その時にいちばん優勢な知覚のドアに意識的に注意するという訓練だ。

【瞑想のテクニック】

◆今この瞬間に、自分の注意がどこにあるかをチェックしなさい。今、どの知覚の印象が優勢か? ページを追う目というドアか、音に引きつけられた耳のドアか、あるいは椅子に坐っている接触面の感触か。感覚のドアを選び、そこで起きていることに注意しなさい。どんな感情が伴うか、その感情の質は? 快か不快か、それともどちらでもないのか。どんな思考が伴うか。変化には特に注意せよ。

◆日常のルティーンのなかで自分をチェックする習慣が身につけば効果的だろう。たとえば「今私は、どの感覚のドアにいる? そこで何が起こっている? 出てきた感情には何が連想される?etc~

◆ 瞑想的な注意を助ける工夫として有効なのは、自分の体や心を観察している間にさまざまな対象にネーミングしたりラベリングしたりすることである。よく考えて使うなら、それは注意を焦点づけたり持続したりするのに非常に有効な道具である。たとえば、「聞いている」「聞いている」、「考えている」「考えている」「触っている」「触っている」等。これは、ありのままへの注意を確立することを助ける強力な助っ人である。

 ありのままへの注意によって自分の経験を見守る能力が獲得されたあとなら、注意が弱まったり、注意が失われたり、それを再確立する必要が生まれた場合以外は、心に書きとどめる(ネーミングやラベリング)ことへと帰ることは必要なくなるだろう。

◆覚醒を深めるためには、一日に少なくとも数時間は(注意を)継続していかなければならない。それが実践の弾みになる。日常のお決まりの仕事の最中に可能なかぎり、運動、行動、心の状態、その他何であれ、その時に優勢になっていることに、注意深く正確な注意を向けることで、継続性が生じる。

 もし難しいと思うなら、思い出すための引き金を利用することで、日常の中でのマインドフルネスの練習へと入っていきなさい。たとえば引き金として、水に触れるということを使うことができる。たとえば手を洗ったり、食器を洗ったり、庭の手入れをしたり、犬を新たりしているときに。もしたった一度でも充分な注意を払うことに成功すれば、それがマインドフルネスという習慣を確立するためのスタートとなるだろう。

◆家事、食事、歯磨きなど日常の活動に気付き続けるとき、何であれつまらぬものとして無視してはならない。繰り返し繰り返し一切の動きや活動に気付き続けること、日常のルーティンに気付き続けることが第二の本性になるほどに習慣化させるために。むろん、これを確立することは、それほどやさしいことではないし、忍耐が必要である。とくに絶えず忘れ続けることにイライラする場合には、自分自身に寛容であることが求めれられる。

  【感情への気づき】  

◆ブッダは、すべては感情に収束するといった。感情への気づきは、瞑想の重要な要素である。瞑想実践での困難の多くは、不快な感情への自覚されない反応に由来する。私たちは、快を増し、不快を避けるという絶え間ない努力に人生の大半を費やしている。もし、ある感情を自覚しないなら、それは滞留して、肯定的、否定的にかかわらず、私たちはある状態に凝り固まってしまう。しかし、感情が、対象のインパクトを単に快、不快、あるいはどちらでもないものとしてただ登録する(心に書きとどめる)だけなら、感情そのものは、最初の状態では、まったく中性である。何かが情動的に付加される場合にのみ、たとえば個人的な事情がからんでくる場合にのみ、恐れや嫌悪や不安が生じるのだ。感情と情動は、分離しうる。  もし、最初にその初期段階で感情を識別できないなら、自分自身にチェックのための質問をしたらよい。「今は、どんな気持ちか」と。こうしてあなたは、ほとんどいつも存在する混乱した感情のごたまぜをえり分けることができる。

◆“私”あるいは“私のもの”というほんのわずかな思考からさえも、感情を引き離すことがきわめて重要である。“私は感じる”というような表現による自我への言及はあってはならないし、感情の持ち主であるかのような思考はすべきではない。すなわち‘私は快く感じる、私は苦痛を感じる’というよりは‘快い感情がある’‘苦痛がある’というべきである。瞑想者は、自我に触れることなく感情に気づくことを通して、感情だけに焦点づけた注意を保つことができる。

 感情が沸き起こったとき、快、不快、あるいはどちらでもないものとして、それらを明確に識別して、感情への気づきを深めるべきである。注意を保っているなら、ごたまぜの感情などというものはない。特定の感情が続いているわずかの間も、それが終わるまで注意を保つべきである。

 ふつう感情には、思考や情動がきわめて規則的に続き、習慣的に結びついている。感情が不快なら否定的な反応が生じ、快いものなら執着が生じる。ところが、明確な識別が増すことで、感情が消滅するポイントがくりかえし観察されると、それらの結びつきを把握し、ついには止めることが容易になっていく。初期段階の感情を、後に情動を続かせずに感覚というドアのところで止めるなら、感情はそれ以上続かず、愛着や好悪は消え、物語は終わり、苦痛も終わる。~

◆“裸の”注意とは、反応なしに受容的な状態で感情を心に印すことだ。この注意が、湧き上がっては消える感情に向けられると、その感情に何か不浄なものが付け加えられる前に、波打ち際で抑えられ、それがより込み入ったものになるのを防ぐ。   きめの粗い感情は、しだいに弱められて、関心が失われる。それは、自然で努力なしの‘明渡し’だ。~

◆ブッダは、感情を泡にたとえる。もし感情の、泡のような、吹かれてはじけるような性質が洞察されるなら、執着へのつながりは、次第に弱められ、ついには断ち切られるであろう。こうした洞察によって、感情への一種の固定化である愛着は、うまく取り除かれる。これは、冷淡になったり情緒的に退行したりすることを意味しない。逆に、こころは、より開かれ、何かに熱狂的に固執することはなくなる。こうした洞察によって、より繊細な感情のための内的な空間ができる。すなわち、慈悲、同情、忍耐などのための。

【瞑想のバランス】  

◆瞑想においてバランスを保つということは、努力、集中、覚醒という三つの要素を調和させるということである。あまりに努力しすぎると心に安らぎがない、集中しすぎると覚醒は狭まり、注意を一点に限定してしまう。努力と注意は、能動的な要素であり、覚醒は受動的である。瞑想するときは、これら三つの要素の特徴に留意しなさい。これらを適切に用いるなら、あなたの瞑想実践をバランスよく調整し、調和させ、保つことが可能となるだろう。

◆瞑想のタイプの各々が、異なった集中の型を必要とする。静謐の瞑想(サマタ)では、瞑想者はひとつの対象に焦点をあて、その対象に専心するために他の対象を無視する。洞察の瞑想(ヴィパッサナー)は、特定対象への焦点付けをしないで、起こり来るさまざまな対象を一瞬一瞬知ることである。実のところ、洞察瞑想では、集中よりはむしろ、経験している中でもっとも優勢なことへの目覚めを強めることなのだ。だから、もしサマタからヴィパッサナーへと瞑想のモードを変えたいならば、一瞬一瞬の開かれた覚醒を可能にするために、ただひとつの対象だけに焦点をあてるのは止めなければならない。

◆~洞察瞑想(ヴィパッサナー)は、気付きの実践なので、集中をそれ自体として引き出す必要はない。気付きを持続しているなら、充分な集中が自然に起こるからである。気付きが多過ぎたとしても何も問題はないが、努力と集中については多すぎれば問題がある。気付きは、過剰なるようなものではなく、むしろ、努力と集中という各要素とのバランスを保つ上で、気付きが不十分であることの方が得てしてある。それで実際は、気付きとを保とうと努力することの方が大切である。注意の持続は、心の静けさと安らぎを生み出すが、それは集中瞑想によって得られる恩恵と同じである。~

【瞑想のバランスを保つための5つの方法】

☆自分のの経験をまのあたりに見る

経験していることは何であろうと、それを経験している時に、偏りなしにまのあたりに見る。

☆手放しにする

願望や刺激の満足を求めるよりは、見るための余地を作り出すため、少なくともある程度の手放しが必要である。

☆検閲機能の除去

あらゆる思考、感情、情動、感覚を、差別や選択なしに気づきにもたらすという態度

☆中立性という態度

肉体的、心理的な出来事を、それらへのごくわずかな構えや姿勢さえもとることなしに、中立的に心にとどめること。

☆受容的であること

瞑想は、経験から遠ざかり超然としていることではなく、観察していることに受容的な立場から目覚め、敏感になり、親密になることである。