南溟の夜
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/51281 【南溟の夜】より
南溟の夜 一幅 横山大観 紙本著色 八一・五×九〇・〇 昭和十九年(一九四四)
東京国立近代美術館
横山大観(一人六八〜一九五八) は、日本画改革運動を推進して、近代日本画壇に大きな影響力を持った画家である。東京美術学校第一期生として日本画を学び、卒業後同校助教授となるが、東京美術学校騒動の際岡倉天心に従い辞職。日本美術院創立に参加して意欲的に制作に励むが、大観らの試みた大胆な没線描法は朦朧体と酷評された。一九〇六年日本美術院の五浦移転に伴い同地に移り住んで研鑚を積む。一九一四年日本美術院を再興、以後その中心作家として活躍した。
本作品は戦争も最末期、南方から日本軍の悲報が次々に伝えられた頃に描かれた。南十字星が輝く夜空の下、黒く沈む南海の島が月明かりに浮かび上がる。美しい夜空に反して波は荒いうねりを見せ、不穏な時代を象徴する。南方戦線に散った人々への鎮魂の意が込められているのであろう。時代と共に生きた大観の心境を通して見た、美しく悲愴な風景である。
https://diamond.jp/articles/-/376132 【東条英機、石原莞爾、そして昭和天皇…戦時中の指導者たちは本当に戦争を止められなかったのか?】より
「日本は、本当は戦争を回避できたのではないか?」独裁者と呼ばれた首相やカリスマ軍人、憲法上の主権者たる天皇もいた中、彼ら指導者たちはなぜ“あの戦争”を止められなかったのか。戦後80年経った今、近現代史研究者が歴史のifを検証する。※本稿は、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
独裁者・東条英機なら戦争を止められたのでは?
あの戦争は止められたのではないか。その可能性を検証するため、何人かの指導者に焦点をあててみよう。個々の行動に注目することで、日本の構造的な問題もより具体的に浮かび上がってくるはずである。
大東亜戦争開戦時の首相だった東条英機は、当時大きな権限を持っていたことから「独裁者」と評されることもある。そんなかれでも戦争を止められなかったのだろうか。
結論からいえば、それは不可能だったといわざるをえない。
そもそも東条が首相に就任したのは1941年10月、開戦のわずか2カ月前のことだった。前任の近衛文麿が内閣を突然放り出すように辞任したため、東条は準備もないまま、急遽その後任に就かざるをえなかった。
それなのに東条が独裁的と語られる原因は、複数の重要ポストを兼任したからだろう。
たとえば、大東亜戦争の開戦時には首相、陸軍大臣、内務大臣を兼ねており、陸軍と警察という二大実力組織を掌握していた(ただし開戦後すぐ内務大臣は辞任)。
さらに戦局が悪化した1944(昭和19)年2月には、軍政と軍令を区別するという従来の慣例を破り、陸軍大臣と参謀総長を兼任するという異例の措置を取った。
もっとも、こうした兼任は権力欲のあらわれというより、制度の枠内で政治的な指導力を発揮しようとする苦肉の策だった。
ヒトラーやムッソリーニのような独裁者は、長らくみずからに権限を集中させており、戦時下の指導もスムーズだった。
だが、日本では制度上それが不可能だったため、東条は“脱法的”な兼任によって、擬似的な独裁体制をつくり出そうとしたのである。神経質なまでに規則にうるさかった、軍官僚・東条らしいふるまいだった。
天皇の意向を守るため戦争回避に奔走した
しかし、どれほどの要職を兼ねても、やはり限界があった。
開戦前の動きにもそれがよくあらわれていた。陸軍大臣としての東条は、もともと主戦派だった。だが、首相就任にあたって昭和天皇から「開戦を回避するように」との意向を受けると、自他ともに認める尊皇家だったかれは、その命を忠実に守ろうとした。
あまりに真剣に戦争回避に努めた結果、陸軍内部からは変節を疑われるほどだった。それでも、開戦を止めることはできなかった。
根っからの官僚型だった東条にとって、所定の手続きを踏んだ方針を覆すことはむずかしかった。同じ理由で、陸軍出身のかれは相対する海軍にまったく容喙できなかった。
そして1944年7月、サイパンが陥落すると、クーデターなどの混乱もなく、首相辞任に追い込まれた。他国の独裁者では考えにくいことだった。
戦後、東条は東京裁判でA級戦犯として裁かれ、処刑された。そのため、ヒトラーやムッソリーニと並んで語られることも多い。しかし、実像としての東条は、そうした独裁者とは程遠い存在だった。
型破りな軍人・石原莞爾なら歴史を変えられたのか?
それでは、東条に代わって“型破りな”軍人が指導者となっていれば、日本の歴史は変わったのだろうか。
その候補としてよく挙げられるひとりが石原莞爾である。
石原は陸軍士官学校で東条の4年後輩にあたり、「世界最終戦論」を唱えるなど、思想家型の独創的な軍人として知られていた。満洲事変当時には関東軍参謀を務め、その首謀者でもあった。
その石原が順調に出世し、陸軍を主導する立場に就いていれば歴史は変わった。そんな期待が語られることもある。
しかし、実際の歴史を振り返れば、陸軍内で誰が指導的地位に就いたとしても、大きな流れを止めることはむずかしかったことがわかる。
石原は、満洲事変を陸軍中央に無断で実行に移した。
独断専行的だったにもかかわらず、処罰されるどころか出世コースに乗った。これは、石原の行動がたんなる個人的な暴走ではなく、陸軍改革を目指していた中堅幕僚層の広範な問題意識と響き合っていたこともあっただろう。
結果的に、陸軍内には下剋上を黙認するような空気が広がることになった。だが、その空気はやがて石原自身に跳ね返ることになる。
日中戦争が起こったとき、石原は、参謀本部の作戦部長(正確には第一部長。以下、通称を用いる)という要職にあった。
トップの参謀総長・閑院宮載仁親王が皇族で事実上指揮を取らず、ナンバーツーの参謀次長・今井清が病臥中だったため、実質的に、石原が陸軍の軍令部門を統括していた。
そんな石原は、日中戦争の拡大には一貫して反対の立場だった。かれは、ソ連との戦争に備えて満洲国の育成に集中すべきという立場だったからだ。
ところが、中国に一撃を加えようと勢いづいた部下たちの暴走を止めることはできなかった。
石原の暴走を見た後輩が言うことを聞くわけがなかった
その予兆はすでにあった。石原は前年、参謀本部の戦争指導課長として、内蒙工作(内モンゴルを中国から切り離す工作。華北分離工作の内モンゴル版)に奔走する関東軍参謀の後輩たちに現地におもむいて自制をうながしたことがあった。
だが、現地で待っていたのは、思いもよらぬ“歓迎”だった。関東軍参謀のひとりだった武藤章は、つぎのように応じたのだ。
私はあなたが、満州事変で大活躍されました時分、この席におられる、今村(引用者註/均)副長といっしょに、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです。(『今村均回顧録』)
武藤がそう言い終えると、周囲にいた参謀たちは一斉に大声で笑ったという。
お前だって、満洲事変のときに中央の命令を無視して行動していたではないか。われわれはそれを内蒙でやっているだけだ――。石原は、この嫌味にたいして、何も言い返すことができなかった。
皮肉にも、この武藤は日中戦争開戦時に石原の直属の部下(作戦課長)となり、戦線拡大を主張して石原と対立している。
日中戦争の拡大については、中国側も上海で積極的に攻勢に出たため、石原にすべての責任を帰せられるわけではない。
ただ、結果的に思惑の外れた石原は陸軍内で孤立を深め、作戦部長の職を解かれ、京都の第一六師団長を最後に予備役に編入されることになった。
石原の評価は、しばしば東条の“逆張り”として語られる。つまり、官僚的で実務型の東条で戦争に失敗したのだから、思想的で異端児の石原であれば違った未来があったのではないか、と。本人やその周囲も、そうしたイメージを積極的に喧伝した。
だが、むしろ日中戦争前後の石原の行動には、そうした見立ての不可能性がすでにあらわれていたのではないだろうか。あの当時の陸軍という巨大かつ複雑な組織のなかでは、石原であれだれであれ、個人の意志を貫くことはきわめて困難だったのである。
主権者・昭和天皇なら戦争を防げたのか?
では、昭和天皇が開戦を止める可能性はなかったのだろうか。明治憲法のもとでは、天皇が主権者として位置づけられていたからである。
近年、昭和天皇にたいする理解は大きく変化している。
かつての通説では、天皇はみずからを立憲君主と位置づけており、政府と統帥部の一致した意見については反対できなかったとされていた。もちろん、天皇がみずからの強い意志を示したケースもいくつかあったものの、日米開戦という重大な決定についてそのようなことをすれば、国内の世論が沸騰し、クーデターが起こり、より破滅的な戦争論が支配的になっただろうと天皇自身が述懐していた。
このような見方の根拠となったのが、平成初期に公開された『昭和天皇独白録』だった。昭和天皇の肉声を記録したとされるこの史料は大きな反響を呼び、昭和天皇は抑制的な君主であったというイメージを定着させるにいたった。
しかし、その後の研究が指摘するように、この独白録は、東京裁判を意識して作成されたものだった。そのため、天皇が戦争責任を問われないよう、意図的に抑制的な君主として描かれた可能性が高いと考えられている。
実際、その後に公開された多数の史料により、昭和天皇がさまざまな局面で明確な意志を示していたことも次第に明らかになってきている。ときには個々の作戦の展開に細かく意見を述べた事例もあった。
戦争を止めようものなら暗殺されてもおかしくない
とはいえ、近年公開された史料のなかでも、天皇が当時、「内乱」を強く懸念していたことが語られている。
東条は、政治上の大きな見通しを誤つたといふ点はあつたかも知れぬし、強過ぎて部下がいふ事をきかなくなつた程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になつたかも知れず、又東条の辞職の頃はあのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争はあゝ一部の者の意見が大勢を制して了つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら。(『昭和天皇拝謁記』三巻、一九五二年五月二八日)
いささか読みにくいが、当時、下剋上の空気が蔓延しており、あの東条ですらそれを抑えることはできず、場合によっては暗殺された可能性もあったと天皇は述べている。
五・一五事件や二・二六事件では、首相や首相経験者、陸軍の要職者までもが暗殺されており、天皇の懸念はけっして空虚ではなかった。
また一部では、天皇自身が退位など「押し込め」を強制されるのではないかと恐れていたという指摘もある。
当時は男系男子の皇族が多数存在していたため、こうしたことは理論上、不可能ではなかった。
もちろん、こうした事情が天皇の責任をすべて不問にする根拠になるわけではない。明治憲法のもとで天皇は「無答責」とされ、政治的責任を問うのはむずかしかったが、それが道義的・歴史的責任からの免除まで意味するとは限らない。
そのいっぽうで、当時の制度的・政治的環境のなかで、天皇が実際に取り得た選択肢の狭さについても、われわれは理解しておく必要がある。
仮に天皇が個人的な意志で戦争への賛否を最終的に決定できたとすれば、それはそれでまた別の問題を孕んでいただろう。