毛利家の人々ⅰ <戦国編>➁
我が国において、戦国時代三大奇襲作戦に挙げられるのは以下である。①天文15年(1546)北条家2代目氏綱が上杉家の居城である川越城に侵攻した「川越夜戦」、結果北条氏は関東進出を果たし、敗れた扇谷上杉氏などは衰退していった。➁永禄3年(1560)小国尾張の織田信長が、西上する駿府の今川義元を田楽狭間で打ち破った「桶狭間の戦い」である。信長はこれを機に「天下布武」を目指していく。③今回の主人公毛利元就が、弘治元年(1555)安芸の厳島で陶晴賢軍に奇襲をかけ自滅させた「厳島の戦い」である。これにより元就は中国地方覇権へ向け、大きく踏み出すことになる。
天文年間(1532~54)毛利氏は安芸の一領主に過ぎなかった。中国地方覇権争いの主役は、周防の戦国大名大内氏と出雲の戦国大名尼子氏であった。天文20年、元就が従属していた大内義隆家臣陶晴賢が謀反を起こし主を殺害した。所謂「下剋上」である。元就は今まで協力関係にあった晴賢と対決状態になったが、戦力面では陶軍3万以上、対する毛利軍はその6分の1、4~5千人の軍勢であり、数の上では陶軍の圧倒的有利であった。天文22年(1553)9月21日、大内家の実権を握った陶晴賢は厳島の大浦湾に上陸、島北西部にある毛利の宮尾城を攻撃、わずか600の毛利勢の兵は良くこれをしのいだ。9月30日、島の対岸の草津城より出陣した毛利軍は、暴風雨の中で二手に分かれ、本隊は包ヶ浦から厳島に上陸した。一方、小早川隆景率いる毛利水軍とこれを助ける村上水軍は、迂回して厳島神社沖に集結した。更にこの日の夜の内に、3千の毛利軍が山頂に駆け上り、敵の背後に廻り、翌早朝に陶本隊に駆け下るという奇襲作戦を取った。10月1日早朝、毛利軍は山側、海側から陶軍を挟撃した。陶軍は4千以上の死傷者を出して総崩れとなり、晴賢は自害した。この戦いは下剋上を成し遂げた元就が大内氏を弱体化させ、58歳の元就が中国地方の覇者となる最大の要因となった。続いて元就は大内氏の当主義長を討ち大内氏を滅亡させた。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を奪取した。因みにこの戦いで毛利水軍に協力した村上水軍は、海運を担う一方で軍事、政治にも介入した海賊のような存在であった。因島、来島、能島の3家のうち、因島の村上定吉率いる村上水軍は毛利氏との関係が深く、この戦いや信長との「木津川口の戦い」などで活躍、戦局を大きく左右させた。
永禄6年(1563)元就嫡男隆元が不慮の死を遂げた。嫡子輝元が家督を相続したが、まだ11歳の若さであったため、祖父元就が後見人となり二頭体制が敷かれた。翌8年、元就は尼子晴久の死去を機に出雲に侵攻、月山富田城の攻略を開始した。しかし、月山の天険に阻まれて敗退、作戦を兵糧攻めに変えた。加えて、尼子軍の内部崩壊を誘うために離間策をめぐらした。これにより疑心暗鬼となった義久は重臣までも殺害、求心力を失い尼子軍の崩壊は加速していった。翌永禄9年、晴久の嫡男義久は降伏開城、戦国大名としての尼子軍は滅亡した。「第2次月山富田城の戦い」である。こうして元就は一代にして毛利氏を中国地方6ヶ国を支配する大大名に成長させた。しかしその後も尼子残党が出雲に侵入、毛利氏への抵抗は続いた。一方、同時代の中央では永禄11年、信長が足利将軍義昭を奉じて上洛を果たし、元亀元年(1570)6月「姉川の戦い」、同9月「石山合戦」、翌2年「叡山焼き打ち」と信長の「天下布武」は加速していった。その年の6月、西国の覇者、毛利元就は居城吉田郡山城で激しい腹痛を起こし他界した。老衰と食道癌とも云われる。享年75歳。代々、毛利家は酒に害されやすい体質であったため、元就は節酒してその延命効果を説いていたが、その当人が亡くなってしまった。元就の死に伴い当主輝元は、毛利両川体制を基盤とした新政を開始した。
元就は生前、尼子氏滅亡後は「天下を競望せず」と、自分の代でこれ以上の勢力拡大は望まないとした。この事柄を3男隆景を通じて、孫輝元の短慮を諌めるように度々言い聞かせた。この言葉は元就の遺訓として代々毛利家の人々に浸透していた筈であったが、関ヶ原の戦いにおいても、幕末においても、毛利家の人々の心境は変わっていった。次回毛利家の人々ⅱは、両川体制に支えられた輝元が取った「関ヶ原の戦い」と、養子に出た吉川元春、小早川隆景2人の生き様を追っていきます。 チーム江戸」しのつか でした。