結城市
https://hysd.my.coocan.jp/yuukitukuba.htm 【結城筑波の見える場所】より
筑波山は、富士山と対比して「西の富士、東の筑波」と称されています。
万葉集で富士山がうたわれたものが九首なのに対して筑波山は二十五首と圧倒的に多く、
万葉の時代から筑波山がいかに親しまれてきたかがわかります。
結城にゆかりの深い与謝蕪村も「ゆく春や むらさきさむる 筑波山」と詠んでいます。
(この句碑は城跡歴史公園にあります)
紫峰とも呼ばれる筑波山は、結城から見る容姿が最も美しいことで「結城筑波」と言われています。
「結城筑波」の見られる21ヶ所(92景)のビューポイントを紹介します。
中でもお勧めは、城跡歴史公園から見る「結城筑波」です。
城跡歴史公園の北東にある東屋の脇から南東の方角を見ると、林の上から「結城筑波」が顔をのぞかせます。
おおよそ650年くらい前にできたと思われる結城城跡から見る「結城筑波」は、代々の城主がいつも見ていた
「結城筑波」でありそれを思うとその美しい姿とともにロマンがあります。
ダイヤモンド結城筑波には月日が掲載されています。天気の良い日にその時その場所に行けば
ダイヤモンド結城筑波が見られます。
http://www.tsukubapress.com/yuki.html 【結城市】より
結城市は、茨城県の西部に位置する。鎌倉時代から続く歴史のある城下町。旧下総国の最北部に位置する。結城紬などで知られる。 JR水戸線と国道50号が市内を東西に横切っている。 つくば市からは、筑西市を挟んで西側にある。 人口は50,645人(2020年国勢調査、51,594人=2015年国勢調査)、面積は65.84平方km。
結城の歴史は古く、奈良時代の頃から、コウゾの繊維(木綿)である「ゆう」の産地として、ゆうきと呼ばれていた。 鎌倉時代初期に、有力御家人の結城氏が築城以来、北関東屈指の城下町として栄えた。
室町時代になると結城氏は、関東八屋形(かんとうはちやかた、関東八家)と呼ばれる有力大名となり、結城100万石などと呼ばれる繁栄をもたらした。 また、幕府と結城氏など関東の豪族の戦いである結城合戦(1440年)などが起きている。 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は、この結城合戦から物語が始まっている。
結城氏は戦国時代の終りに、徳川家康の二男、秀康を養子に迎え家督を継がせた。秀康は、1600(慶長5)年、越前に移封となり、結城氏の時代は終った。 江戸時代には、一時幕府領となったものの、その後の徳川氏の外戚でもある譜代大名の水野氏(水野宗家、結城水野家)が入り、1万8000石の城下町となった。 なお、一時期結城市内に領地を持っており、天保の改革で知られる水野忠邦を排出した水野氏(山川水野家)とは別。
1947(昭和22)年、1年限りではあるが国民野球連盟所属のプロ野球球団「結城ブレーブス」があった。監督は大阪タイガース第2代監督の石本秀一。のちに広島の初代監督になった。 1947(昭和22)年夏季リーグで優勝、秋季リーグでも2位になった。
1954(昭和29)年3月14日、結城郡結城町と山川村が合併して結城町、翌日の3月15日、結城町と絹川村、江川村、上山川村が合併して市制施行し結城市となった。
鬼怒川の河川、支流、橋などについては鬼怒川へ。
本場結城紬
結城紬は、結城市中心とするこの地方で作られている絹織物。わが国最古の歴史を持つとされ、 奈良時代、朝廷に上納され、正倉院に保管されている衣(あしぎぬ)は紬の原型とされる。 古くは「常陸紬」と呼ばれた。結城紬となったのは、この地を長く治めた結城氏によるところが大きいという。 江戸時代に出版されたいわゆる百科事典『和漢三才図会』にも高級絹織物としての紹介がある。
1956(昭和31)年、「国指定重要無形文化財」。 「糸つむぎ」(真綿からの手つむぎ)、「絣くくり」(絣縛り)、「機織り」(地機という原始的な織機による)の3工程が指定されている。 2010(平成22)年11月16日にはユネスコ無形文化遺産に登録されている。 国、ユネスコともに無形文化の指定、伝統技術に対する指定であり、結城紬という物に対してではない。
結城紬は、縮織と平織がある。縮織は撚りかけて糊付けした撚糸を使って製織したもので、平織は撚りのない糸を使う。 現在生産されているのは平織が主流となっている。 製品は、上記無形文化財の技術で作られたもののほか、刷り込み染色や高機(たかはた)織りなどさまざまなものがある。 いずれも一定の基準を満たしたものは本場結城紬とされる。
1974(昭和49)年のNHK、朝のテレビ小説「鳩子の海」で、結城紬の問屋が舞台の一部になった。
結城夏祭り
毎年7月第3日曜日から第4日曜日にかけて行われる結城市最大の祭り。市内の健田須賀神社の祭礼で正式には 「健田須賀神社夏季大祭」。祭りは、須賀神社が同地に鎮座した1242(仁治3)年以来続く伝統を持つ。
第3日曜日、神社で大発式を行い御神体を神輿に遷し、氏子地区26町を渡御する。 第4日曜日再び町内を神輿が渡御し神社に戻る。また中日夜(水曜日夜)に旧大神輿渡御、万燈神輿渡御、 子供神輿パレードなどが行われる。勇壮な神輿担ぎは「結城のあばれ神輿」として知られる。 上記3日間は夕方から夜にかけて駅前通りが歩行者天国となる。
(略)
結城家埋蔵金
日本3大埋蔵金伝説(他は徳川埋蔵金、豊臣埋蔵金)の一つ。 結城家ゆかりの金光寺の山門に謎めいた和歌が彫られており、意味不明のことから、埋蔵金の場所を記したものではないかとされている。
埋蔵金伝説は、結城朝光公が、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝公の命で、奥州藤原氏を討伐した際、大きな手柄をたてたため、 黄金文化で知られる奥州藤原氏の黄金、そのほとんどを褒美に貰ったとされる。 その黄金の量は、金の延べ棒5万本、砂金100樽、重量にして380tにもなるという説もある。 代々結城家に伝わっていたが、17代晴朝公の時、徳川家康が結城家の黄金を狙ったため領内に隠したとされる。 これまでに徳川家康や大岡越前守忠相らが、埋蔵金発掘を行っていることもその信憑性を高めているという。
金光寺山門和歌 金光寺山門の梁に彫られている和歌
金光寺の彼岸花 観音堂付近に多くの彼岸花が咲く。
(略)
結城城跡公園
結城城は、1183(永寿2)年、結城氏初代、結城朝光によって築城されたとされるが確実なことはわかっていない。 室町時代の結城合戦では、落城するも幕府側を相手に篭城し、1年間も持ちこたえた堅牢な城だった。 1601(慶長6)年、18代結城秀康の越前移封により一時廃城。その後能登から水野勝長が入り城も再建、幕末まで水野氏の居城だった。 台地の上に広がる平山城で、天守閣は当時からない。現在城跡は、市街地の東北部にあり、公園になっている。土塁の一部などが残るものの遺構は少ない。 桜の名所として知られる。
結城市結城2486-1。結城城跡公園の地図
(略)
https://shirobito.jp/article/274 【第3夜 【結城城】権力者たちが血眼で探した埋蔵金はどこに!?】より
全国のお城に伝わる伝説や奇譚を取り上げ、歴史をひもとく「城に眠る伝説と謎」。第3回目は奥州藤原氏の黄金が眠るといわれる結城城。徳川将軍も探したという結城氏の埋蔵金は果たして実在したのでしょうか…?
金光寺山門、結城城
金光寺山門(結城市提供)。門に刻まれた和歌の謎を解いたものは誰もいない…
山門に刻まれた3首の和歌が手がかり?
茨城県結城市にある金光寺。ここは13世紀ごろ、結城城主で下総結城氏の初代・結城朝光が建立した真言宗の寺院である。その山門には次の3首の和歌が刻まれているのだが、これがちょっと“いわくつき”なのだ。
きの苧 かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね
こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも
あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし
なんとこの和歌には、結城氏17代・晴朝が結城城(茨城県)のどこかに埋めたとされる埋蔵金のありかにつながるヒントが隠されているというのだ。いわゆる「結城埋蔵金」である。この埋蔵金伝説、今でもときどきテレビ番組などで発掘活動がおこなわれることがあるので、ご存じの人も多いだろう。
奥州藤原氏の黄金が結城城のどこかに!?
結城城は寿永2(1183)年、初代・朝光によって築かれ、現在は公園になっており、空堀や土塁などの一部が残されている。
朝光は、源頼朝の命で奥州藤原氏の討伐に参戦、その恩賞として藤原氏が保有していた黄金を大量に与えられたのだとか。それも砂金で数百樽とも竿金で数万本ともいわれている。平泉に象徴されるように、奥州藤原氏といえば黄金のイメージが強いが、本当だとすれば、朝光もウハウハだったに違いない。
結城晴朝肖像、埋蔵金
結城晴朝肖像(東京史料編纂所所蔵模写)。彼は一体どこに埋蔵金を隠したのだろうか
さて、時は下って17代・晴朝の時代。子のない晴朝は、徳川家康の次男・秀康を養子に迎えたが、跡継ぎにもかかわらず、秀康は松平姓にこだわったらしい。結局、秀康は越前に転封となり越前松平家の初代当主となる。先祖代々の地も家名も失う晴朝は当然おもしろくない。結城城は廃城となってしまうが、この地での結城家再興をもくろんだ晴朝は、初代から受け継いだ財宝をここに隠したとされるのだ。これが「結城埋蔵金」伝説の始まりである。
家康も吉宗も阿部正弘も探したが発見できず
この埋蔵金、かなりの信ぴょう性をもって語られていたようで、江戸時代以降、数度にわたって大規模な探索がおこなわれたようだ。徳川家康は結城城だけでなく、晴朝の隠居所の会之田城(栃木県)や越前の福井城(福井県)まで探し回ったそうで、その執念ぶりがうかがえる。しかも家康、実はこの埋蔵金の存在を知っていて、それで結城家を転封という形で体よく越前に追い払ったのではないかという説もあるようだ。息子の秀康を養子に送り込んだのも埋蔵金が狙いだったのかと思ってしまう。
8代将軍・徳川吉宗も大岡越前守に発掘を命じたらしいが発掘作業中に土砂崩れが起き、多くの犠牲者を出して中止したのだとか。それが晴朝の祟りだったら笑えない話である。
その後も、老中・阿部正弘や大正期には貴族院議員で旧結城藩主・水野家にゆかりのある水野直(なおし)も探したらしい。しかし、いまだに発見できていないところを見ると、みんな“骨折り損のくたびれ儲け”だったと言えそうだ。ちなみに幕末の安政期には「下総国結城在吉田村百姓五郎右衛門宅地ノ井戸普請ニ付あまたの棒金ヲ掘出し」と、結城城の城下町で結城の埋蔵金とおぼしき金塊が発見されたことを伝える瓦版まで発行されている。内容の真偽は定かでないが、権力者だけでなく庶民までもが埋蔵金伝説にロマンを感じていたのだろう。しかしこれだけ探しても見つからない埋蔵金。一体どこにあるのか。