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闘いは未だ終わらず

2025.11.17 05:25

https://news.yahoo.co.jp/articles/0932ec2fcf60dee6e2eec71db5f64455e7a0c7bb 【娘が語る谷川俊太郎 最期まで老いと死を見つめ、自身の言葉と向き合っていた父。詩人になった理由を尋ねると「詩を書かなければ家族を食べさせていけないから」と…】より

詩人の谷川俊太郎さんが、2024年11月に92歳で他界されました。その活動は多岐にわたり、詩作のほか、児童文学の翻訳、アニメ『鉄腕アトム』主題歌の作詞なども手がけ、作品は多くの人に親しまれています。娘の志野さんが親子の貴重な思い出を語りました。(構成:篠藤ゆり 撮影:洞澤佐智子)

【写真】映画『東京オリンピック』の撮影に参加した頃の俊太郎さんと、幼い志野さん

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◆「みんなが喜んでくれる詩を書きたい」

私は15歳からアメリカ暮らし。アメリカで「父は詩人です」と言うと、皆さん驚かれます。そして次に、異口同音に「生活はできてるの?」。やはり洋の東西を問わず、詩で食べていける人はそうそういませんから。

上の娘がニューヨークの友だちに頼まれて、俊太郎さんにインタビューをしたことがあって。私も同席したのですが、「どうして詩人になったの?」と娘が聞くと、「それしかできることがなくて、詩を書かなければ家族を食べさせていけないから」と答えたので、ちょっとびっくりしました。

詩人はもっとアーティスティックな内面からの欲求で詩を書くのかと思ったら、家族を食べさせるため、とは! 私は知りませんでしたが、兄にはよく「僕は職業詩人だから」と言っていたそうです。

父自身は裕福な家に育ち、苦労知らず。それでも一生、創作を続けたのは、みんなが喜んでくれる詩を書きたいという、ある種ショーマン的なところもあったと思います。サービス精神が旺盛なんでしょうね。

そんな父に老いが見え始めたのは、80代半ば頃でしょうか。普段はとても元気に動き回っていましたが、車を運転していて事故を起こしたのです。もう危ないから運転はやめたほうがいいと兄から言われ、86歳の時に免許を返納しました。

数年前の夏、近所に散歩に出かけた父が坂道で動けなくなり、地面に座り込んでしまったことがあって。気づいた近所の方が手助けして家に連れ帰ってくれたそうです。2020年頃から、足元がおぼつかなくなり、じきに車椅子生活になりました。

2024年に刊行された伊藤比呂美さんとの対談集『ららら星のかなた』の最後に、こんな父の言葉が記されていて。「今一番したいことはなんですか?/私は立ち上がって歩きたい!」。これを書いた時の父の気持ちを思うと、ちょっと切なくなります。

◆老いと死に向き合っていた父

兄は、現代詩を歌うグループ「DiVa(ディーヴァ)」の活動に、1996年頃から父を引き入れ、全国各地で音楽と朗読のコンサートを行っていました。父が高齢になっても、兄が近所に住んでいたのでなにかと安心でしたね。

私が時々帰国するたびに、父は「うれしい」と言ってくれて、好物の大根の煮物をつくると喜んでくれました。晩年にそうやって一緒の時間を過ごせてよかったと思います。

私は、父の仕事にはあまり目を通していなくて。詩も全部は読んでいませんが、「芝生」という詩は好きです。

芝生

そして私はいつか どこかから来て 不意にこの芝生の上に立っていた

なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた だから私は人間の形をし

幸せについて語りさえしたのだ

(出典:「芝生」『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』/青土社)

この詩が好きな理由をうまく言葉にはできないのですが、人間は地球に生まれる前に魂が宇宙のどこかにいて、地球で肉体が滅びた後、また宇宙に帰っていくのではないか、といったことを感じさせてくれるんです。

父が21歳の時に出した第一詩集『二十億光年の孤独』があります。そこに収録されている「ネロ—愛された小さな犬に」という、18歳の時に書いた詩も好き。私は猫を飼っていますが、犬も大好きですし、この詩を読んでいると生き物に対する愛情が伝わってきます。

俊太郎さんがいなくなり、さびしいと感じますが、一方でいつも一緒にいるという感覚もあって。肉体はなくても、魂が近くにいる気がするんです。2012年に亡くなった母も時々、鷺の姿で現れるし(笑)。ハドソン川の北のほうを訪れると、鷺が私のほうに飛んでくるので、「知子さん、こんにちは」なんて言ってみたりしています。

父が戻ってきてくれたらいいなぁと思うこともありますが、それは若くて、バリバリ仕事をしている60年代頃の姿であって、子どものわがままですよね(笑)。晩年の父は、本当に疲れているようで、かわいそうでした。自分でも「死を待っている」と言ったりしていましたし。

あれは亡くなる3ヵ月くらい前のこと。電話で「元気?」と聞いたら、「死にかけているよ」なんて言うんです。ユーモアのある口調でしたが、思わず「そんなこと言わないで」と返してしまいました。

でも、今思うと俊太郎さんらしいと言いますか、嘘がなく、ちょっと面白く死を迎えたいという気持ちもあったのでしょう。最期まで老いと死を見つめ、自身の言葉と向き合っていたのだと思います。

これまで父がつくった詩や作品を、たくさんの方が知っていて愛してくださっているのは不思議な感じでした。これからも俊太郎さんの言葉が読み継がれていくのは、とてもうれしいことだと思っています。(構成=篠藤ゆり、撮影=洞澤佐智子)


https://note.com/aloma/n/na34eb91ef4ce【デーケン先生】より

「死生学」という学問を日本で初めて講義した人だと思う。アルフォンス・デーケン

1932年ドイツ生まれ。上智大学で長年教鞭を取られていてお噂はよく伺っていた。実際にお会いしたことは一度もないけれど聞く話ではいつも「デーケン先生がね」「デーケン先生の本がね」という感じで、いつも「先生」がついていて、なんとなく今もわたしの中では「デーケン氏」というよりは「デーケン先生」である。

今まで先生の講演の一部だったり短いエッセイを読んだことはあったが、著書を読んだことがなかった。それで銀座の教文館で見かけた時、吸い寄せられるように手に取った本が、

「よく生きよく笑い良き死と出会う」

とても良かった。腑に落ちる、というか「そうそう!」と感じるところばかりでほぼ一気読み。

ドイツ人だが、ナチスに反旗を翻す父親のいる家庭で育ち、アメリカの大学で学び、そこで著作も発表しているデーケン先生がなぜ日本で教えようと思ったのか。幼い頃に読んだ日本の26聖人のひとり、ルドビコ茨木の言葉に感動したのだという。26聖人というのは豊臣秀吉の命令で1597年に長崎で処刑された26人のことで、ルドビコ茨木はその中でも最年少の12歳の少年だった。あまりにも幼いので不憫に思った役人が信仰を捨てれば自分の養子にしてあげようと、もちかけたところ「あなたさまがキリシタンになってわたくしと一緒に天国へ来てくださるといいのですが」と答えたという。デーケン先生はこの言葉に深い感動を覚えたという。そして「日本人は偉いなあ」と感じ入ったそうだ。

しかし70年代、先生が日本で死についての講義を開きたいと言った時、反対の声が多かったという。これはよくわかる。わたしが子どもの頃は「死」というものをみんな避けたい、というか、とにかく「縁起の悪いもの」として捉えていた。4という数字を使わないとか、飛ばして数えたり、とにかく忌避していた。

先生は言う。「死は誰にでも確実に訪れます。人間の死亡率は百パーセントです。

もし「死」という次元をないがしろにするなら、今日の人生、今ここに生きている人間を真に理解することも不可能」

死を考えることは今を生きるために重要である。だから「死生学」なのか、と合点がいった。

クロノスとカイロスも先生にとっては重要なテーマだったようで何度も出てくる。クロノスは目に見える時間の流れ。それに対してカイロスは永遠という時間。生きる上ではクロノスではなくカイロスを意識することが重要。これは大学の講義でも何度か聞いたが、わたしにとっても重要なテーマだ。

ユーモアについての先生の持論も良かった。どんな苦境でもユーモアの精神は大事。けれどユーモアとは誰かを貶めたり、からかったりするものではない。どちらかと言えば過去の自分の失敗談がもとになるのだと。なるほどこれなら誰も傷つけない、と感心した。

70年代は癌の告知を本人にしないことが多かった。家族にだけ告げて家族はそれを重大な秘密といて抱えながら看病した。しかしこれは自分にあとどれくらいの時間が残されているのかを知る権利を侵害しているし、その残された時間を自分らしく生きる権利をも奪ってしまっていた。これ本当に良くなかっと思う。

わたしが子どもの頃、近所で母が親しくしていた方の夫が癌で亡くなった。その方はとにかく最後まで夫に真実を告げなかった。けれど葬儀で「主人は全部知っていたと思います」と泣き崩れていたという。自分の体のことだ。きっとわかっていたけれど家族に気を遣って知らないふりをしたまま亡くなった。隠していた方もつらいし、知らないふりをする方もつらかっただろうと思う。両方が深く傷つくことになってしまった。

自殺のことを「自死」という言い方に変えたのもデーケン先生だったことも読んでいてわかった。一字だけでも変わるとずいぶん響きが柔らかくなる。それをドイツ人の先生が思いついたことには驚いた。

読み終えて本当に久しぶりに心が充足感で満たされた。その晩不思議な夢を見た。講演会かなにかの受付に行ったらデーケン先生がおられ、わたしは興奮して「先生、少しお話がしたいのですが」と言ったら「仕事があるのですが少しだけならいいですよ」と言って2人で個室に入り、わたしが先生の本に感銘を受けたことを話すと、胸に手を当てて「それはとても嬉しい」

とにっこり微笑んだ、という夢。

目が醒めてからも本当に先生にお目にかかれたような気がして幸せな気持ちになった。

デーケン先生は2020年に88歳でお亡くなりになっている。

先生のご冥福をお祈りすると共に、死生学をこれからも真剣に学んでいこうと改めて思った