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瑞巌寺と雲巌寺

2025.11.19 07:21

https://ameblo.jp/ane4244/entry-12920551461.html 【瑞巌寺と雲巌寺 関係性を調べましたが何も出なかった話を書いてみたわけは】より

こんにちはアンです私が今年お参りをしましたお寺さんの中に 瑞巌寺(ずいがんじ宮城県)と雲巌寺(うんがんじ栃木県)がありまして、どちらのお寺さんも、臨済宗妙心寺派であったことから 私の古代の道を探すテーマの、北に向かう古代の道のような物が見えてくるのではないかな?と思って調べてみました。

全国のお寺さんの総数76000余のうちの、臨済宗妙心寺派のお寺さんは3300寺なので、23分の1である妙心寺派のお寺さんに当たる確率は低いと思いませんか?

ですから、何か関係性がある確率は高いかも。

これは、きっと何があるのではないかなと、ワクワクしながら調べてみました。

📿 臨済宗(りんざいしゅう)は、日本の仏教における禅宗(ぜんしゅう)の一派で、中国の唐代に栄えた禅僧「臨済義玄(りんざい ぎげん)」の教えを源流としています。

🧘‍♂️ 日本には栄西(ようさい)がこの教えを伝え、鎌倉時代以降、多くの武士たちの精神的支柱となりました。

臨済宗は、「坐禅」を通して自己の本質を見極めることを重視し、「公案(こうあん)」と呼ばれる問いによって師と弟子のやり取りがなされます。

🗾 現代でも、京都・鎌倉・東北地方などに多くの臨済宗の名刹が残されており、その一つが、伊達政宗ゆかりの伊達家菩提寺の瑞巌寺(ずいがんじ)です。

臨済宗は体験し、感じる仏教という宗派です。

🔹補足:武家による支援の意味 • 政治的正統性の強化→ 武家が仏教勢力を支援することで、民心を安定させ、支配の正当性を高めた。

• 禅宗の実学性→ 禅宗は形式より実践を重んじ、武士道と親和性が高かった(剣禅一如)。

• 外交・文芸の担い手としての禅僧→ 中国(元・明)との交渉・貿易や、文化人の育成に禅僧が活躍。武家がそれを重用した。

中は撮影禁止ですが、とても豪華で色彩豊かな造りの建造物でしたので、奥州藤原氏の古代の道を感じる事ができました。

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雲巌寺は栃木県大田原市にありまして、電車ですと、那須塩原からバス又は、水郡線(水戸↔郡山)の大子駅からバスという、山深い場所にあるお寺さんです。

私のいつか行きたい場所として、地図に印をつけていたものの、一生ご縁は結ばれないだろうなぁと思っていたお寺さんでしたが、袋田の滝へドライブに行った時に、ルートに入れて頂けた為、ご縁が結ばれました。

(想わなければ何も起きようもないので、どのような事でも願った方が良いですね。)

雲巌寺は、開山当時は筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで禅宗の日本四大道場のひとつでした。

◆ 雲巌寺と武家の関係

🔸中世~戦国期 • 雲巌寺は関東地方の禅宗の中心の一つとして知られました。

• 特に鎌倉・室町期にかけて、鎌倉公方や那須氏などの関東の武家大名の支援を受けたとされます。

• 那須氏は、下野国(栃木県)の守護的存在であり、雲巌寺の庇護者として堂宇の再建や修繕を行ったと伝えられています。

🔸江戸時代

• 江戸幕府によって、妙心寺派の地方拠点として整備され、幕府や烏山藩主(大久保氏など)による一定の保護を受けました。

• 臨済宗は徳川家康も信仰しており、妙心寺派もその庇護の一環として恩恵を受けています。

さて、二つの臨済宗妙心寺派のお寺さんですが、なんと!

「瑞巌寺(ずいがんじ)」と「雲巌寺(うんがんじ)」は、名前が似ていますが場所・宗派・歴史・武家との関係すべてが異なる禅寺で、

• 瑞巌寺は、伊達政宗による豪壮華麗な再建によって伊達家の象徴・文化拠点となった禅寺。

• 雲巌寺は、関東の山中に位置し、静寂な修行の場として、地域武士(那須氏)や烏山藩に支えられてきた禅寺。

⸻どちらも臨済宗妙心寺派に属しつつ、一方は豪華さと権威の象徴、他方は山林修行と静けさの象徴という対照的な性格を持っています。

という事で古代の道を繋ぐという観点では、全くご縁が結ばれませんでした🥲

しかも、雲巌寺さんは参拝をした前の週、令和7年5月20日付で臨済宗妙心寺派より単立しておりまして、だから、関係は無いんだってば、と神様にサラッと答えをいただいていたかのようでした。

では、何故、ブログにしたの?と思われるでしょう?調べに調べて関係性が無いとわかった時、これでは記事にならないなと思ったのですが、数日前、通勤中に渋滞していた時、FMラジオjwaveから、突然、京都妙心寺のお坊さんの説法が始まりまして、びっくりでしょう?普通、こんなピンポイントありますか?

妙心寺派を調べていた時に、妙心寺のお坊さんが話し出すなんて。

現代社会はすぐにできるというような無駄が無いということに重点が置かれておりますが、

一見無駄なように見えたとしても伏線をたくさん持つという事は、長い人生の間で回収する楽しみがあるのではないでしょうか。と一言説法が流れてきたので、より人生を面白く生きる為の禅ブログをアップしました。長々お読みくださいましてありがとうございました。


https://ameblo.jp/yonezu011/entry-11314843669.html 【伊達政宗の師 虎哉和尚】より

 伊達政宗の師 虎哉和尚(こさいおしょう)

陸奥(みちのく)の洲島(すじま)の里(さと)の夏刈は 畷(なわて)のすゝきに穂出(い)でざりけり   藤原為家(ためいえ)

陸奥の津島(つしま)の里の夏刈は 作る早苗(さなえ)もみのらざりけり 西行

 松川と鬼面川とが合流する所、川西町洲島と高畠町夏刈の地は、古く洲島の里、夏刈の里と呼ばれ、陸奥の歌枕の名所として知られたところでした。この川のほとり夏刈の地に、松吹く風にいにしえの名残りを止め、由緒ありげな五輪の塔が立ち並んでいます。

 ここは昔関東十刹(さつ)の一つとして有名な資福寺の跡なのです。

 資福寺は、謙倉時代弘安七年(1284)、長井時秀が創建し、その後、伊達氏が置賜を治めるようになってからは伊達氏の菩提寺となり、儀山政宗夫妻をはじめ、独眼龍政宗の父輝宗の墓などが今に残っているのです。

米沢の歴史を見える化

 伊達政宗に師匠として仕えた虎哉和尚が、伊達輝宗に招かれて、この資福寺の住職になったのは、今を去る三百九十三年の昔、元亀三年(1572)七月七日のことなのでした。

 虎哉和尚は、美濃の国、方県郡馬馳郷(うまはしりごう)に住む福地家に生まれ、幼名を虎千代と言いましたが、成人して宗乙(そういつ)と呼び、虎哉と号しました。

 虎千代は幼少の時から頗る慧敏(けいびん)で、隣の寺から聞えて来る読経の声を聴いて、全てこれを暗誦(あんしょう)したといわれ、仏教や学問にも関心をもっていたので、十一才の時に、父のすすめで美濃の国東光寺の岐秀(ぎしゅう)和尚に弟子入りをしたのでした。

 虎千代は、仏道の学が進むにつれて、自分から仏道にはいることを思い立ち、父の許しを得て仏門にはいりました。そして、日夜あらゆる苦難に堪えて苦行し、仏道の深奥を探り、儒学の研磨を績み、また、四方を歴巡して高僧の教えを受けるなど、その修業は並々ではありませんでした。特に「心頭滅却すれば火も亦涼し」の言葉を遺したので有名な快川和尚の門をたたいては非常な感銘を受けたのでした。こうして、虎哉と号した虎千代は齢僅かに二十余才で、その名が天下に聞え、世人は年の若い上人という意味で、少年上人とあがめる様になりました。その後、東北地方を巡歴した折に、この地夏刈の東昌寺を訪れ、ここに約五年の間寓居しましたが、京都妙心寺の岐秀和尚に招かれて妙心寺に住み、その後、美濃の東光寺や仏日山門照寺に移っていたのを、伊達政宗の父輝宗が、是非、伊達家の菩堤寺である夏刈の資福寺の住職に招いて政宗の師匠にしたいと考えたのでした。輝宗には叔父にあたる夏刈東昌専任職康甫(こうほ)を通じて懇請し、辞退されても尚懇願するという輝宗の熱望は、遂に虎哉和尚の心を打ち、この天下の名僧を夏刈の地に迎えることが出来たのでした。時に虎哉和尚は年四十三才、政宗は六才の夏でした。

 政宗は、両親の非常な期待の中に、永禄十年(1567)八月三日輝宗の第一子として米沢城に生まれました。母は山形城主最上義光(もがみよしあき)の妹、義姫で、亀岡文殊堂の傍に住む行者長海上人に命じて、文武の才と忠孝の誉れある男子の誕生を湯殿山に祈願させました。長海上人は、祈願の証拠として湯殿山の湯に浸した幣束(へいそく)を携さえて帰り、これを義姫の寝所の屋根に安置させました。その夜、白髪の老僧が幣束を義姫に授け、これを胎着せよと

いった夢を見て懐妊したので、政宗は幼名を梵天丸と名づけられました。

 然し、この梵天丸は無口で恥かしがりやで、家来たちはその将たるの器であるかどうかを疑い、はじめ大きな期待をよせた母も、梵天丸に愛情を注がず、殊に次男の竺丸が生まれてからは一層この傾向が強くなりました。また、梵天丸は幼少の時、痘瘡を病んで顔があばたになり、その毒が右の眼にはいって失明しましたので、恥らいの色が一層濃くなりました。

 然し、梵天九の非凡な才能を見抜いて母に代って養育したのは、片倉喜多子であり、これを助けたのは、その弟片倉小十郎景綱でした。

 梵天丸が六才にして迎えた師匠、虎哉和尚は、当時下野雲岩寺の大虫(だいちゅう)和尚と共に、天下の二大甘露門と称された名僧だけに、仏教の奥義をはじめ、儒学の教養を如何なく、この梵天丸の訓育にそそいだのでした。

 虎哉和尚が、夏刈に移って間もない頃でした。梵天丸がためらいながら和尚に尋ねました。

 「丸(まろ)の片方の目が見えないのは、どうしたのじゃ」虎哉は静かな口調でさとすのでした。「若殿の右の目は、龍がほしいというて、もらっていったのじゃ。龍はナ、雲を呼んで天に昇ることの出来るものなのじゃ。だからナ、龍はきっと若殿が強い大将におなりになるように守って居りましょう。若殿は誰も真似の出来ない偉いことをされたのじゃ。だから若殿は、片目でも、決して恥かしがることはないのじゃ。おわかりじゃのう」 梵天丸は大きくうなずくのでした。

 虎哉和尚の薫陶(くんとう)を受けて成長する梵天丸は次第にその天分を現わし、十一才で元服し、十三才で結婚、十五才で初陣してあっぱれな大将振りを示し、十八才で家督を継ぎました。 その翌年には、父輝宗が非業の死をとげましたが早速その仇を報いると共に、資福寺に手あつく葬り、また、その冥福を祈るために、遠山に覚範寺を建て、虎哉和尚を開山として、ここに居を移させ、常にその教誨(きょうかい)に接するのを喜びとして居りました。

 天正十七年(1889)、政宗二十三才の時、宿敵会津の芦名氏を滅ぼし、本拠を米沢から会津に移しました。翌十八年、豊臣秀吉が小田原参陣をせまってきました。

政宗は虎哉和尚に尋ねました。 「小田原参陣を決しました」「それは結構でござった」

 「して、参陣の心構えは」 「虚心。ただ虚心とお答え申そう」「しかし、もし、吾を害する気拝でありましたら、その時は」「ただ虚心でござる。こちらに敵意なしとさとれば、敢えて害するものがありましょうや」「よくわかりました」「しかと心得えて、その心構えをお忘れにならぬよう、お家の為 にお願い申しますぞ」

 こうして、米沢から越後、信濃を通って小田原についた政宗は、内に白装束をし、髪を水引で結んで秀吉に会い、激怒している秀吉の心をやわらげ、事なきを得たのでした。

 翌天正十九年(1591)、政宗二十五才にして、岩手山に移され、後に仙台を開きました。

 政宗の移る所に必ず覚範寺を建て、虎哉和尚を住まわせ、物に影が添うように政宗のいる所必ず虎哉和尚がいるのでした。

 文禄の役がおこると、二十七才で朝鮮にわたり、戦地から虎哉和尚に送った書翰や詩文を見ても、如何に師匠を慕っていたかが覗われ、また、彼の地から梅一株を特ち帰り、それに添えて賦した詩にも、いま松島瑞巌寺(ずいがんじ)に咲くこの梅の、ふくよかな花を見ても、師弟の愛情が偲ばれます。

 政宗が松島に瑞巌寺を建てて、虎哉にその住職をすすめましたが、弟子の雲居禅師を推して、自らは依然として北山の覚範寺の草院に陋居し、自分を祀ってはくれるなといって墓も作らせなかった事など、偉大な禅僧の面影がうかがわれます。

 政宗がその波乱に富んだ生涯を切り抜け、一世の英傑と仰がれた蔭には、虎哉の力が大きかったと申せましょう。

 青葉城には天守閣を設けず、日常は質素倹約を旨とし、いざとなると「流石は伊達だ」といわれる程に派手に振舞い、一方、心を民政に用い、また花鳥風月を楽しみました。特に、奥羽六十二万石の藩主として家臣の敬威を集めた政宗の廟所瑞鳳殿は、政宗の遺命によってつくられ、政宗の人柄を表現して余すところがありません三

十五万両の巨費を投じ、その床は鴬張り天井は鳴き龍の精巧な技巧をこらしながら、無造作な体裁をつくり、柱は欅の節無しの良材を用い、花鳥の彫刻を施し、その上に一糎の厚さに朱の漆を塗り、金箔をおき、最後に黒い漆で塗りつぶしてあります。実に綿を着て、薄物を蔽うという姿です。しかも、肝心な三つの扉のかんぬきは、どれも一分一厘の狂いも生じません。

 これ禅僧虎哉和尚の薫陶(くんとう)でなくて何でありましょう

今、仙台の北山、青葉神社の左隣にある覚範寺に、虎哉和尚の木像と、班寅集(はんいんしゅう)という六冊の遺著が伝えられ、ありし日の虎哉を物語っています。

 一世の英傑伊達政宗と名僧虎哉和尚をしてはじめてまみえさせた、夏刈の資福寺の跡は、陸奥の史跡として訪ねる人の心に、その精神を伝えて尽きないことでありましょう。  (39・7・4放送)


https://heiseibasho.com/kashima-kiko/ 【平成芭蕉の旅行術〜芭蕉さんの『鹿島詣』と根本寺の仏頂和尚】より

仏頂和尚に「禅の心」を学んだ芭蕉さん

故郷で仕えていた藤堂新七郎家の良忠が若くして亡くなり、武家奉公人としての将来に見切りをつけた芭蕉さんは、俳諧師として身を立てるべく、江戸に出て日本橋本舟町の名主であった小沢太郎兵衛のもとで生活を始めました。芭蕉さんは文字が書けて事務的な仕事もできたので、名主の業務を代行する一方で俳諧師として準備も進めていました。

やがて神田上水の浚渫(しゅんせつ)作業を請け負うほどの実務能力を発揮し、俳諧においても江戸を代表する俳人の一人となりました。しかし、延宝8年(1680)、順風満帆の人生を歩んでいた芭蕉さんも、俳句宗匠としての華やかな生活を捨て、日本橋から深川の草庵へ移りました。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれました。

庭に芭蕉が植えられた芭蕉庵『芭蕉翁絵詞伝』

庭に芭蕉が植えられた芭蕉庵『芭蕉翁絵詞伝』

その後、俳号も「桃青」から「芭蕉」に改め、この時期に芭蕉さんと交流があったのが仏頂和尚です。仏頂和尚は鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)の根本寺の第二十一世住職で、当時、鹿島神宮と寺領をめぐる争いの裁定を寺社奉行に仰ぐために、深川の臨川庵(現在の臨川寺)に滞在していました。

仏頂和尚ゆかりの臨川寺の碑

臨川庵のあった臨川寺に建つ「芭蕉由緒の碑」

この臨川庵は芭蕉さんの住んでいた芭蕉庵とは目と鼻の先であったため、芭蕉さんは仏頂和尚と出会い、禅の手ほどきを受けました。芭蕉さんの文学に多大な影響を与えた人は西行ですが、芭蕉さんの生き方に影響を与えた人は藤堂良忠と仏頂和尚です。

特に日本橋で面倒を見ていた甥の桃印と内縁の妻でもあった寿貞が去り、深川で寂しい生活をしていた芭蕉さんにとっては、仏頂和尚との出会いは光明であり、奈落の底に落ちた挫折から人生を達観した俳聖になる契機となったのです。

深川に移ってからの芭蕉さんは、日本橋時代の世俗的成功を求める姿勢は消えて、「なにものにも執着しない」という禅の境地の生き方になっています。この大きな変化の裏には仏頂和尚の影響があったことは間違いありません。

小名木川に隣接する芭蕉記念館の芭蕉像

また、芭蕉さんは『荘子』の思想を学んでいますが、これは臨済宗の教義と深く関わっており、相当高度な漢文の読解力が必要です。仏頂和尚は臨済宗の僧侶ですから、『荘子』についての理解も深く、芭蕉さんにも分かりやすく指導されたのではないでしょうか。

門人の曽良と宗波を伴って『鹿島詣』

『かしま紀行(鹿島詣)』は、鹿島の根本寺に戻ったその仏頂和尚から、「月を見にいらっしゃい」という誘いの手紙が届いたのがきっかけで、深川での生活を始めてから7年過ぎた貞亨4年(1687年)8月、門人の曾良と僧の宗波を伴い、月見をかねて鹿島の根本寺へ仏頂和尚を訪ねた記録です。

仏頂和尚ゆかりの根本寺

深川からは小名木川を舟で行徳へ、行徳からは、八幡、鎌ヶ谷を通って布佐(我孫子)まで歩き、布佐からは夜舟で鹿島の根本寺に到着しました。そして翌日、鹿島神宮に参拝した後、仏頂和尚を訪ねて月見、帰りは、潮来(茨城県)の古くからの知人で医師の本間自準宅を訪れて一泊しています。

鹿島詣の紀行地図

根本寺は鹿島氏の居城であった鹿島城二の丸跡(現在の鹿島高等学校)の隣地に建っており、寺伝によれば、推古天皇21年(613年)聖徳太子が勅を奉じて創建された勅願寺で、開祖は高麗の恵灌大僧正、始め三論宗、その後は法相宗、天台宗と変わり、南北朝時代の康永年間(1342~1344年)に臨済宗に改められました。

江戸時代に入ると、徳川幕府から寺領100石を給わるも、幕末期に水戸藩の尊王攘夷派らが起こした天狗党の乱で伽藍が全て焼失します。現在の本堂は昭和56年に再建されたものですが、境内には桓武天皇に始まる鹿島総大行事家(常陸平氏)の墓所もあります。

芭蕉さんがこの寺を訪れた様子は「かしま紀行」に記されており、次の2つの句碑が根本寺境内に立っています。

根本寺の芭蕉句碑①

根本寺の芭蕉句碑①

①「月はやし 梢は雨を 持ちながら」

(先ほどまで降っていた雨は上がった。雲間を走る月は早く、木々のこずえはまだ露を抱いている)

根本寺の芭蕉句碑②

根本寺の芭蕉句碑②

②「寺に寝て まこと顔なる 月見哉」

(禅寺の清楚な雰囲気の中で仲秋の名月を鑑賞すると、心はもとより顔までが引き締まった気がする)

*実際には雨が降っており、月見はできませんでしたが、禅寺の雰囲気が月見気分にしたと考えられます

再建された根本寺本堂

再建された根本寺本堂

『かしま紀行(鹿島詣)』は、仏頂和尚を訪ねて月見をすることが主目的でしたが、芭蕉さんは鹿島神宮にも参拝しています。

鹿島神宮と香取神宮

茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮は、千葉県香取市鎮座の香取神宮と並び、東国の大社であり、常陸国の一宮です。祭神は天孫降臨に先立ち、香取神宮の祭神であるフツヌシ神(経津主大神)とともに国土を平定、国譲りを実現させたタケミカヅチ神(武甕槌大神)です。

芭蕉さんも参拝した鹿島神宮

芭蕉さんも参拝した鹿島神宮

社伝によれば、神武東征の際に、この神が神武に霊剣を授けたことから神武即位元年に祀られたとされ、古来、『武の神』として信仰されています。

しかし、『常陸国風土記』では、天之大神(あめのおおかみ)社、坂戸(さかと)社、沼尾(ぬまお)社の三所を合わせ、総称して香島天之大神(かしまのあめのおおかみ)といい、これにより、名を香島郡と名付けたと記載されており、鹿島神宮の祭神は「香島大神」とあるだけで、タケミカヅチ神の名前は登場しません。

一方、タケミカヅチ神は5~6世紀に、物部氏がフツノミタマを奉じて東国へ遠征、東国の鎮守の神として関東平野の東の地、海上に上がる太陽が正面に見える鹿島の地に祀られたという説もあります。そして物部氏が蘇我氏に敗れて没落した後、この地は物部氏に代わって中臣氏が領有し、タケミカヅチ神はその中臣氏によって鹿島神宮に祀られるようになったと言われています。

中臣鎌足を祀る鎌足神社

実際、鹿島神宮の近くには中臣(藤原)鎌足を祀る鎌足神社があり、神武天皇の奉幣使として鹿島に派遣された天種子命(あめのたねこのみこと)は鎌足の先祖と伝わっています。

フツヌシ神(経津主大神)を祀る香取神宮は下総(しもうさ)国の一宮で、国家鎮護だけでなく、漁業・舟運の神としても信仰されました。

下総国の一の宮 香取神宮

下総国の一の宮 香取神宮

なぜならこの地域は中世まで「香取の海」と呼ばれる内海が存在し、カトリとは「楫(か)を取る」、すなわち船の航行をつかさどることに由来するとされたからです。

香取神宮の奥宮

社伝によると神武18年の創建とされていますが、東国の東端にある香取の地は、鹿島とともにヤマト政権における東国経営の拠点であり、フツヌシ神やタケミカヅチ神は、蝦夷征討の軍神として当地に祀られたと推察されます。

『鹿島詣』で芭蕉さんは鹿島神宮を参拝した折、次の印象的な句を詠んでいます。

「この松の みば(実生)へせし代や 神の秋」

(鹿島神宮の松の木の下に立つと、この松が実生から目を出した頃の神代の秋の気配が感じられる)

*「実生え」とは種子から発芽して育った樹木のこと。

鹿島神宮の芭蕉句碑

この句は現在の松の木に秘められた永遠性、「永遠の今」の思想をきわめて格調高く、しかも平易な形で象徴化しています。もともと天皇の存在は「天孫降臨」というはじめから、芭蕉さんが「天秤や京江戸かけて千代の春」と詠んだように「権威」を示す象徴的存在ですが、その天皇の「千代の春」を「神の秋」と対比しているのです。

芭蕉さんの鹿島紀行は短い旅ですが、道中で読まれた句にはやはり「風雅の誠」を感じます。

『日本書記』編纂1300年の節目に「東国三社」巡り

2020年は、天武天皇が日本という国の正統性を示すために編纂した日本初の歴史書『日本書紀』完成1300年であり、藤原不比等没後1300年という大きな節目です。

そこで、この機会に芭蕉さんの鹿島詣の足跡をたどりながら、国譲り神話の世界も旅してはいかがでしょうか。平成芭蕉も現在、禅について勉強しており、今年中に「関東のお伊勢参り」とも呼ばれた「東国三社」を巡る予定です。東国三社巡りとは、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、神栖市の息栖神社、千葉県香取市の香取神宮の3社を巡拝することをいいます。

国譲りで活躍したタケミカヅチ神(武甕槌大神)とフツヌシ神(経津主大神)が、それぞれ鹿島神宮と香取神宮の御祭神ですが、交渉の際には息栖神社の御祭神である天乃鳥船(あめのとりふね)も同行していたため、これらの3社が非常に結びつきの強い神社として東国三社として信仰されているのです。

東国三社の息栖神社

東国三社巡りは、地理的にもちょっとおもしろい位置にそれぞれの神社が鎮座しています。新型コロナウイルス感染の影響で、社会が変化しつつある今日、芭蕉さんのように禅の心を学んで、神社参拝をすれば多くの気付きが得られると思います。

平成芭蕉メッセージ ~「旅の質」が人生を変える

「小説が書かれ読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議」という言葉がありますが、私にとって旅することは、一度限りの人生を最大限に楽しむための創造活動なのです。そして私は、人生を楽しむために必要な「心のときめき」は、「知恵を伴う旅」を通じて得られると考えています。

そこでこの度、私はその知恵を伴う日本遺産や世界遺産の旅を紹介しつつ、平成芭蕉独自の旅の楽しみ方とテーマ旅行に関する企画アイデアノート、さらに著者が松尾芭蕉の旅から学んだ旅行術について紹介した『平成芭蕉の旅指南 人生が変わるオススメの旅 旅の質が人生を決める』と題した本を出版しました。このブログと合わせてご一読いただければ幸です。