仏頂尊修行の地
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%A0%82%E5%B0%8A 【仏頂尊】より
仏頂尊 (ぶっちょうそん)、梵名ブッドーシュニーシャ (梵:बुद्धोष्णीष [buddhoṣṇīṣa])、あるいは単にウシュニーシャ (梵:उष्णीष [uṣṇīṣa])は、仏教、特に密教で信仰される仏の一種。 如来の肉髻(頭頂部にある盛り上がり)を独立した仏として神格化したもの、及びそれと同じ神通力を持つ呪文を神格化したもの。
概説
真理の体得者である如来にはさまざまな身体的特徴があるが、中でも頭頂部には特に神秘的な力が宿るとされた。これが仏頂尊である。また、如来の優れた頭脳、人々を救済する知性を神格化したものとも解釈される。
また、仏頂尊の特徴として呪文信仰と強く結びついていることが挙げられる。仏頂尊に捧げられた陀羅尼や種子を唱えることで、死者の魂を救済し、様々な災厄から逃れ(除災)、悪神を調伏する等の霊験があるとされる。それは、一般に仏頂尊を説く経典の物語が以下のような内容となっているためである。
ある日、ある天人に、自分の死がまもなく訪れること、そしてその後に地獄に生まれ変わって苦しむことが啓示される。天人は神々の王である帝釈天に助けを求めるが彼にも手だてがなく、釈迦に助けを求める。釈迦は頭頂部から光を放ち、その神通力で天人を救う。その後釈迦は、自分が入滅した後に同じような苦しみを受けた者のために呪文を説くのである。自分の肉体が滅んだ後はこの呪文を唱えなさい、そうすれば自分の頭頂部の光と同じ神通力が発揮される、と。
すなわち、仏滅後はこの呪文がそのまま釈迦の仏頂であるとして同一視され、神格化された。仏頂尊の各種の呪文は、特に破悪趣、つまり死者の魂を苦しみの世界から救うことに霊験があるとして、葬礼時に多く唱えられる。
一般的に、仏頂尊は装身具を身に纏った菩薩と同じような姿で表される。あるいは「転輪聖王のごとし」とも言われる。ただ普通の菩薩などとは異なり、肉髻の上に更に髪を結い上げた「重髻」をしているのが特徴とされ、尊勝仏頂や白傘蓋仏頂などは、この姿で表される。ただし、中には一字金輪仏頂(釈迦金輪)や熾盛光仏頂のように如来の姿をしたものもある。
https://4travel.jp/travelogue/10591920 【奥の細道を訪ねて[第5回]①仏頂和尚の山居跡「雲厳寺」】より
当旅行企画会社配布の資料によると、昔当寺の境内に”千丈岩”と云われる巨岩が有り、”雲厳寺塔(虎丘塔)”と呼ばれた中国・蘇州の”虎丘山”に似ていることから「雲厳寺」と名付けられたとの事。
その後臨済宗妙心寺派の禅宗の寺院となり、禅宗日本4大道場の一つと云われようにる。
赤い欄干の太鼓橋「瓜(か)てつ橋」を渡り、その名声通りの立派な山門を登ると、正面に見える「仏殿」の端正な姿が目に留まる。
仏殿の屋根越しに鬱蒼とした森を背負った「方丈」、その右手には「書院」の建て物が控える。山門の右手に「鐘楼」が建ち、左手に「経臓」が望める。
更にその左手の木陰に、仏頂和尚の歌と芭蕉の句を併彫した碑が建っていた。
竪横の五尺に足らぬ草の庵(いお) 結ぶもくやし雨なかりせば 仏頂
啄木鳥(きつつき)も庵(いお)を破らず夏木立 芭蕉
(案内の先生から芭蕉の句に関し次の様な解説あり
”540~550年頃、仏教伝来に反対し寺や仏像を焼き払った物部守屋を、崇仏派の曽我馬子が殺害した。物部守屋の霊は啄木鳥(きつつき)となり、寺でらをつつき破るようになる。
仏頂和尚の庵はその啄木鳥でさえその徳を敬しつつき破らない)
仏頂和尚は鹿島根本寺の住職で、江戸深川の臨川庵に寄宿して、鹿島神宮相手の訴訟を起こし、勝訴する。
芭蕉はその間深川で仏頂和尚の知己を得、禅を学ぶ。
訴訟に勝訴した仏頂和尚はあっさり住職の地位を捨て修行僧となる。
仏頂和尚の生きざまは西行と並んで、芭蕉の理想とする世捨て人の姿で、その庵跡を訪ねる事が芭蕉を「雲厳寺」と向かわせた。
仏頂和尚の庵はやや危険な崖の上にあるらしく、一般には公開されていない。
「仏殿」の西側を通って裏にある階段を登り「方丈」に参拝、その庭先から緑に包まれた甍を眺める。
修行僧と思える人が、庭木の剪定をしていたが、これだけの美しい庭を維持するのは並大抵であるまい。お陰ですがすがしい気分で山を降りた。
https://ameblo.jp/mtada99/entry-12474297341.html 【木啄も庵はやぶらず夏木立】より抜粋
木啄も庵はやぶらず夏木立 (きつつきも いおはやぶらず なつこだち)
鑑賞: 芭蕉の禅の師であり、畏友佛頂和尚山居跡を訪ねました。さすがに尊い和尚の修業跡なればよろず突っついて木に穴を開けてしまう啄木鳥も和尚の庵には乱暴を働かないようだ。
キツツキは、別名寺ツツキとも云うほど木造の文化財を破壊する「困り者」なのである。
背景: 奥の細道 (佛頂和尚山居跡 元禄2年4月5日)下野国雲巌寺の奥に、わが参禅の師である仏頂和尚の座禅修行の跡があるという。竪横の五尺に満たぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせばと、松の炭で岩に書いておいた、といつか師から聞いたことがあった。そこで、その山居の跡を見ようと雲巌寺に向けて出発した。人々も誘い合ってやってきた。若い人たちが多く、道々にぎやかに騒ぎながら行ったので、麓までは思いがけず早く到着した。
雲巌寺の山内は森々として、谷道はどこまでも続き、松や杉は苔むして濡れ、四月だというのに冷え冷えとする。雲巌寺十景の終わるところに橋があり、それを渡って山門に入った。
さて、山居の跡は何処かと探しながら、後ろの山を登っていくと、小庵が巌にもたれるようにして造ってあった。南宋の高僧妙禅師の死関、法雲法師の石室を見ているようながしてきた。
夏の初め、暑いといってもどこが風がすがすがしい。
キツツキの木々をつつく音が響いている。
師の庵は大丈夫かと心配したが・・・、どうやらさすがの寺ツツキも恐れおおいようだ!