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梵天祭り

2025.11.20 07:17

http://piglet01.blog109.fc2.com/blog-entry-631.html 【最後の戦国武将 その1 「梵天丸の誕生」】より

最後の戦国武将・伊達政宗 その1 『梵天丸の誕生』

戦国武将と言ったら、西方の武将を中心に目を向けてきましたが、生まれてくるのが遅かった「伊達政宗」について、少し勉強してみたいと思いますので、お付き合いください。

仙台城の政宗

伊達政宗は、1567年9月15日に輝宗の長男として生まれる。

この年といえば、織田信長が美濃稲葉山城の斎藤龍興(道三の子)を攻めて滅ぼし、有名な「天下布武」の印判を用い始めた年にあたります。

全国的にみれば、室町幕府の衰退は誰の目にも明らかであり、それに代わる中心を見定めることもできなく、弱肉強食の戦国的風潮が支配する混沌とした群雄割拠の真っただ中であった。

母は、輝宗の正室・義姫(よしひめ)といった。この義姫は、山形城主・最上義守の娘であった。伊達氏と最上氏は度々の婚姻関係を結んでいた。

政宗の誕生に関して、伊達家に興味深いエピソードが伝えられている。

輝宗に嫁いだ義姫は、時世を考え何とか領国を興隆させるため、男子の誕生を願い、かねて信仰厚かった米沢の近くに住む行者の長海上人に、湯殿山への祈祷を依頼したという。

湯殿山は出羽三山のひとつで、羽黒山・月山とならぶ信仰の山なのです。

長海上人は湯殿山に登り祈願し、弊束を湯殿の湯に浸し、それを義姫のもとに持帰り、御寝所の屋根に安置させた。

ある夜、義姫の枕元に白髪の僧が現れ「胎内に宿を借りたい」といってきた。

義姫は「自分一人では返事しかねるので、夫に相談してから」とその夜は帰ってもらったという。翌朝、義姫は目をさまして輝宗に、このことを話したところ、輝宗は「これは瑞夢である。何で許さないことがあろう。今度、再び、その僧が現れれば、許しなさい」という。

その夜、再び白髪の僧が義姫の夢枕に立ったところ、義姫は夫から許しを得たことを告げた。すると僧は喜んで義姫に幣束を授け「胎育したまえ」といって消えていった。(隻眼の行者、満海上人の生れ変わり説)義姫は懐妊し、1567年9月に、無事男子を産んだことになる。

誕生した男子に梵天丸という童名を授けたのも長海上人であるという。

その後、伊達家では湯殿山には4月2日に参脂することを例とし、それ以前には一般の人には山に登らせなかったという。

ちなみに、修験道では幣束のことを梵天と呼ぶそうです。

それにしても。伊達と最上の血を受けて生まれたのが政宗である。一筋縄ではいかないのは当然のことでしょう。

「闊達にして大らかな“伊達の血”と、老獪で陰湿な“最上の血”が一体となり、政宗という世紀の“突然変種”が創造された」(危うし独眼流:紫桃正隆署)に頷ける気がします。


https://plaza.rakuten.co.jp/tcgh614/diary/200704300000/ 【出羽三山湯殿山と伊達政宗】より

 昨年10月末、ツアーにて出羽三山へ行った。ご承知の様に出羽三山とは、庄内地方にある

霊場で、月山、羽黒山、湯殿山の3つの山岳神社をさす。私が巡ったのは、羽黒山と湯殿山

である。写真の大鳥居は湯殿山の入り口に建っている巨大な鳥居である。この地方は、村上氏

が収めていた。そして村上義光の娘、義姫が伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を生む。政宗懐妊の折

白髪の高僧が義姫の枕辺にたち、姫の胎内を貸してくれと言う。夫輝宗に相談してからと

いうと次の夜夢枕に再びたった。義姫が「どうぞお宿りください」と承知すると、1本の

幣束を姫にわたし、「これを大事に胎育するように」といって姿を消した。幣束のことを

梵天という。そして生まれた子は梵天丸と名付けられた。後の政宗である。このときの

高僧が湯殿山の高僧、万海上人と信じられている。義姫は信じなかったようだが、父輝宗は

元来信心深い武将であったので、政宗こそが万海上人の再来と信じていた。

政宗は天賦の才能と驚異的努力によって、成人するや、近隣の大国を次々に切り取り、東北

の最大の大名にのし上がる。勿論母の実家である最上氏も伊達に併合されてしまう。

松尾芭蕉も奥の細道の旅の途中、湯殿山をたずねている。湯殿山は誠に不思議な神社で

本殿は何も無い。昔から湯殿山の詳細は筆にするなといわれていて、芭蕉も一切触れていない

ただ御神体が大きな岩と噴出す温泉だけであったのには驚いた.洋の東西を問わず、宗教の

本尊や一神教の神の姿は捉えにくい。「鰯の頭も信心から」と言う。宗教の世界には、絶対的

な神や、仏が存在しないのであろう。湯殿山の岩をみてしみじみ感じた。しかし人間には

宗教が絶対に必要だと確信している。人間は弱い生物であるから。


https://note.com/yokko9025/n/n7855e9c669e2 【伊達政宗(だてまさむね)の梵天丸(ぼんてんまる)その1(全2回)】より

ポンと昔。

今から400年くらい前の戦国時代に生まれた有名な伊達政宗(だてまさむね)という強い武将の子供の頃のお話だよ。これ本当のお話し。

永禄(えいろく)10年、1567年の8月の暑い夏の日。山形県の米沢城(よねざわじょう)で伊達家(だてけ)17代目の男の子が生まれました。お父様は16代目の伊達輝宗(だててるむね)24歳。お母さま義姫(よしひめ)は20歳です。ちょうどこの年は織田信長(おだのぶなが)は34歳、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は32歳、徳川家康(とくがわいえやす)は26歳で、これらの武将たちは戦いに明け暮れている真っ最中でした。輝宗(てるむね)はこの戦国の世を生き抜けるように立派な男の子が生まれますようにとお坊さんの長海上人(ちょうかいしょうにん)に湯殿山(ゆどのさん)へ参って祈りを捧げてくるようにと頼んでいたのです。長海上人は湯殿山の奥の院(おくのいん)に湧き出るお湯に幣束(へいそく)梵天(ぼんてん)と言われる棒の先に布(きれ)のついてものを浸して祈ったのです。その梵天を義姫のお休みになるお部屋の天井に置いたところ、夢枕(ゆめまくら)に満海上人(まんかいしょうにん)が現れ、男の子を与えると言われたのでした。

満海上人とは、昔から生き仏として崇め(あがめ)られた、徳の高い隻眼(せきがん)のお坊さんで仙人のような神通力(じんつうりき)を持つと信じられていました。隻眼とは、片目という意味です。仙台の経ケ峰(きょうがみね)というところで修業を続け、亡くなった後も、この峰に祀られて(まつられて)いて、この地方では誰一人、知らない者がない有名なお坊さんでした。

「お殿さま。こちらの若君は満海上人の生まれ変わりでございます。梵天丸(ぼんてんまる)と名付けましょう。」と長海上人は言いました。信心深い輝宗は、大層喜んで、まだ生まれたばかりだというのに準備を始めました。梵天丸の学問の先生として、山梨県の甲州から全国でも有名なお坊さんの、快川大和尚(かいせんだいおしょう)の一の弟子の虎哉禅師(こさいぜんじ)を招くことにして、住まいとする資福寺(しふくじ)の建築に取りかかりました。

今日はここまで、また明日。ポン!


https://note.com/yokko9025/n/n6d5bd0bafa29 【伊達政宗(だてまさむね)の梵天丸(ぼんてんまる)その2(全2回)】より

梵天丸(ぼんてんまる)のそば近く仕える家来として、二人の子供も選ばれました。一人は梵天丸の従弟で一つ年下の伊達藤五郎成実(だてとうごろうしげざね)。もう一人は、梵天丸より10歳年上の片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろう かげつな)でした。小十郎は神主(かんぬし)の息子で、頭が良く子供ながら武芸にも優れていました。梵天丸は早くもたった2歳で儒学(じゅがく)を学び始め、小十郎から武芸の手ほどきをしてもらったので、賢くたくましい子供になっていました。

ところが、梵天丸が10歳のことです。天然痘(てんねんとう)という流行り病(はやりやまい)にかかってしまったのです。流行り病とは、病気が他の人にうつってしまう伝染病のことです。何日か続いた高い熱もやっと下がって、体中にできていた、かさぶたも取れたのですが、右目には天然痘のばい菌が入ってしまったので、大きく腫れあがり、飛び出して何も見えなくなっていました。その飛び出た右目は梵天丸の顔をひどく醜く(みにくく)見苦しいものにしていました。誰もが顔を背けて(そむけて)いくのでした。けれども、お父さまの輝宗は前と変わりなく、梵天丸を可愛がり、挨拶(あいさつ)の席にも連れていったのです。けれども、お母さまの義姫は、その顔をひどく嫌がり一度も病気見舞いにも来なかったとのことです。それからというもの、梵天丸は武芸にも学問にもやる気をなくしてしまったのです。毎日ぼんやりとしていました。

お正月がやってきました。梵天丸はお父さまの横へ座り、家来たちの新年のあいさつを受けました。輝宗が元気よく挨拶に答えているというのに、梵天丸は俯いた(うつむいた)まま、頷く(うなずく)ばかりです。梵天丸のそばに仕える小十郎は、そんな梵天丸の態度が悔しくてたまらず、ついに覚悟を決めました。


https://note.com/yokko9025/n/nb5b6bb8b3279【梵天丸(ぼんてんまる)の右目 その1】

次の日、梵天丸の部屋に、小十郎(こじゅうろう)と藤五郎(とうごろう)と武術の仲間たちがやってきました。「何をしに来たのだ。」

梵天丸はビックリして皆を見回しました。皆侍(さむらい)が死ぬときに着る白い服を着ているではありませんか。「ワシを殺しに来たのか?」

「いいえ、若様のお命ではありませぬ。若様をお苦しめになっているその右目をいただきにまいりました。その右目さえなければ、迷い心などおきませぬ。若さま。お覚悟を。右目頂戴(ちょうだい)いたしまする。」10歳の梵天丸はしばらく考えていました。

「分かった。右目を切り取ってもらおう。この梵天丸、逃げはせぬ。頼むぞ、小十郎」

と言うと、静かに仰向け(あおむけ)になりました。「よくぞ申されました、梵天丸さま」

白い着物を着た家来たちが、ぐるりと梵天丸の周りに集まりました。あまりの痛さで動いてしまったら、皆で押さえつけようと思っていたからなのです。小十郎が小刀の鞘(さや)をはらいました。「いざ、まいりますぞ。御免(ごめん)!」

小十郎は飛び出た右目と、その肉の塊(かたまり)をえぐり取りました。「ううっ!」

梵天丸は葉をくいしばり、両こぶしを震わせ、その鋭い痛みに気を失いかけていました。この騒ぎを聞きつけて、他の家来たちや、お父さまの輝宗(てるむね)も梵天丸のもとへ駆けつけてきました。「誰がこのようなことをしたのじゃ」と輝宗が叫びました。

「はい、私が若様の目を切り取りました。主君に刃(やいば)を向けた罪、腹を切ってここで償い(つるない)まする」

小十郎はその場に座りなおすと、白い着物の前をはだけ、血の付いた小刀を持ち直しました。昔はこうしてナイフで自分のお腹を切って、死んでお詫びをしたものなのです。すると、梵天丸が呻く(うめく)ような声で言いました。


https://note.com/yokko9025/n/ne3e9fbfd8acf 【梵天丸(ぼんてんまる)の右目 その2】

「小十郎っ。死んではならぬ。ワシにはもう、死ぬほど恥ずかしいことはなくなったぞ」

小十郎は枕元に駆け寄り、梵天丸(ぼんてんまる)の手を握りしめました。

梵天丸は小十郎の手を握り返すと、そのまま気を失ってしまいました。

何か月かかけて、傷口は治っていきました。右目は閉じて窪んで(くぼんで)いました。梵天丸はさっぱりとした気持ちになりました。

そして、傷が治った祝いの会がありました。その席にやってきた梵天丸の学問を教えているお坊さんの虎哉禅師(こさいぜんじ)が、懐(ふところ)から、黒い紐のついた刀の鍔(かたなのつば)を出して言いました。

「これをかけてみよ。ワシの作った目隠しの襷(たすき)じゃ。」

梵天丸はそれを受け取り、右目の上にあてました。頭の後ろで紐(ひも)を結びました。刀を止める黒い紐が額(ひたい)を鋭く斜めによぎり、左目がキラキラと輝いて見えました。

「昔、中国に李克用(りこくよう)という武将がいたのだ。片目でありながら、勇気のある英雄だったので、独眼竜(どくがんりゅう)と呼ばれていたのだ」

と虎哉禅師が言いました。

「なるほど、独眼竜か。梵天丸にうってつけじゃわい」と輝宗が手を叩いて(たたいて)喜びました。

そして、この年、天正5年(1577年)11月、わずか11歳で梵天丸を元服(げんぷく)させ、伊達藤次郎政宗(だてとうじろう まさむね)と名乗らせました。

昔いた伊達政宗は、伊達家第9代目の素晴らしい武将だったので、梵天丸もその名前をいただいたのでした。元服というのは、大人の仲間入りをしたということです。元服すると、戦いに行くことができるようになるのです。