CHOPIN、 黄昏時のスリッパと毛糸の靴下
「たそがれ時」とは、人生の夕暮れ時のことで、ショパンとマリアの婚約話は、
実はヴォジンスキ・テレザ伯爵夫人とショパンとの不倫偽造の疑いが見受けられる。
ヴォジンスキ伯爵夫人は当時
46歳で娘のマリアの他、息子がアントニーと、カシミールと
フェリックスの3人と娘ジョセフィーネの5人の子供の母親であった。
娘のマリアはその頃16歳、ショパンに恋心を抱いたかもしれないが、有名人へのあこがれと
片思い、はたまた貴族のお嬢様の気まぐれか。当時のポーランドの情勢を踏まえると、少な
くともショパンは名門貴族のお嬢様の結婚の対象ではなかったであろう。
ショパンはこの時26歳だった。ヴォジンスキ・テレザ伯爵夫人は1836年9月から1か月も経た
ないうちに、ショパンと連絡を頻繁に取り合っている。
その文面は相変わらず、娘のマリアの追伸程度の文章が付け加えられているがそこには
「ママがそう書けと言っているので」というくだりがある。
マリアの文は内容もたいした意味もなく、母であるヴォジンスキ伯爵夫人が娘をダシに使っ
ていたのである。(サインがマリアの筆跡ではないとされている)
ヴォジンスキ伯爵夫人は9月にショパンに贈った、ワルシャワの巨匠と言われていたコウスキ
製のショパンが履いていた靴のサイズを基にして注文で作らせたスリッパ(ドイツ製に似た
ように出来たと夫人は自慢していた)がショパンがサイズが大きすぎた事件以来、
(夫人にとっては事件なのだ)ヴォジンスキ伯爵夫人は不機嫌であった。
夫人は今度の連絡係はバーデン経由トルンに住むアドルフであるとショパンに伝えた。
旅行が多い二人は、連絡先は旅先になることがよくありショパンとヴォジンスキ伯爵夫人は直接連絡を取り合うことはなかった。
ヴォジンスキ夫人は、ショパンをフレデリックと呼んでいる、
そして、ショパンからの便りをヴォジンスキ夫人は受け取ったことを(手紙は現存せずまた
は削除の可能性)「私の本心を告白します。私はあなたの手紙だけを待っていた」と強調し
ている。
息子アントニィのことをショパンから聞き、ヴォジンスキ夫人は
気になっていたのであろう。そして、息子フェリックスの結婚式の準備のためにヴォジンス
キ夫人は10/13にワルシャワへ出発し12/29まで(77日間)滞在し、ショパンの両親にも会う
ことになるであろうとショパンに報告している。
しかし、ヴォジンスキ夫人が言いたいことはそんなことではないのだった。
手紙のやり取りは、トルン経由J •G•アドルフ気付でショパンは送るという意味は、
「ワルシャワへ行く途中でショパンの手紙をトルンで内緒で受け取りますよ」と、ヴォジン
スキ夫人は言っているのだ。
(ドレスデンからトルンでジェラゾヴァビラ経由でワルシャワに入る経路762kmある馬車で36時間1日8時間走行で4日間の移動))
10月のトルンはマイナス14度になる。
ショパンは15歳の時、1825年のシャファルニャ滞在中にトルンを訪れたことがった。
トルンはスカルベック伯爵の生家であり、そこへショパンも少年の頃訪れたことがあったの
だ。
ヴォジンスキ夫人はスカルベック伯爵家との交流が本命であったのである。つまりはショパ
ンのことは貴族の夫人の気まぐれか遊び相手であったに過ぎないのだ。それをカモフラージ
ュのために16歳の娘をダシに使う、貴族のお金持ちのパターンだったのだろうか。恐ろしい
親子である。
画家ピコウスキのことで、ショパンはこの人物が11月蜂起の後どうなったかをヴォジンスキ
夫人に訊ねていた。恐らくショパンの仲間のポーランドの革命派であったのであろう。
ヴォジンスキ夫人はこの画家は、国外退却を命ぜられ、「立派な方とお見受けすることと、
ヴォジンスキ家は一番ご同情申し上げておりますが、ご不幸な結果ですがわたくしはあまり
存じ上げない方でございます」とヴォジンスキ夫人はショパンに冷たく回答している。そこ
には、ヴォジンスキ家が画家ピコウスキを見捨てて助けなかったことが伺えるのである。
そして、ヴォジンスキ夫人は「フレデリックはわたくしの命令に従うと約束なさったにも関
らず、あなたはわたくしに真実のことをお話になっていませんね」とショパンを咎めた。
それは、ショパンはヴォジンスキ夫人の命令で健康のことを厳粛に守ると約束していたので
ある。ヴォジンスキ夫人の命令は毛糸の靴下を履いてからスリッパを履いて、夜は11時まで
に寝る。これらをショパンは守っていないとをヴォジンスキ夫人は怒っているのである。
そのうえで、
パリに行かせたヴォジンスキ夫人の使いのクンツェルがナクワスカ嬢のとろに案内したがシ
ョパンはヴォジンスキ夫人の紹介のカスケル家へ行かなかったのである。そのせいでヴォジ
ンスキ夫人はショパンにこう言ったのである。
「あなたのおかげでずいぶんたくさんの人たちがわたくしに怒っているのですよ。
あなたのせいでわたしは評判を落としているのですよ。」
そして、更にヴォジンスキ夫人は娘もスリッパのことを根に持っているというのだ。
毎日スリッパを履くようにショパンに伝えるように娘が言っていると、スリッパの話が
あまりにもしつこくて醜い親子である。
そして、ショパンにヴォジンスキ夫人が贈った高級スリッパが大きすぎたとショパンが言っ
たこと(証拠はない)から大きさを合わせるために今度はヴォジンスキ夫人が贈った毛糸
の靴下もショパンは履いていないことが気に入らないと難癖をショパンに付けて、
そのお詫びに、新年までに新しいピアノ小品曲を書いて送ってくるようにとヴォジンスキ夫
人はショパンに言ったのだ。
ヴォジンスキ夫人はショパンが自分の思い通りにならないことにいら立ちを隠せないようで
あった。そして、それは、ショパンがポーランドへ帰れるようにショパンが革命派ではない
人たちとの仲間であることを証明できるようにヴォジンスキ家の力で根回しをしてあげたの
にショパンは従わなかったことは、ヴォジンスキ家の信用問題であることをショパンに解らせるようにくどく書いている。
ヴォジンスキ夫人は夫人が予定していたポーランド帰国での仕事が上手く出来るかわからな
い状態であると更にショパンに話した。それは、ショパンの行動がヴォジンスキ夫人の指図
した通りでなかったことでヴォジンスキ夫人のドレスデンでのポーランド貴族の友人達から
ヴォジンスキ夫人は無視をされるようになったしまっているからだった。
それから、ショパンからのショパンの友人グシマーワのことを訊ねられていたヴォジンスキ夫人は、
「あなたの質問のグシマーワは不幸な愛の情事です!」これは革命派のグシマーワのことは
ワルシャ
ワの頃からの友人ではないことにしなさいと案にショパンにグシマーワを言い切り捨てるよ
うに言っているのだ。
このように、ヴォジンスキ夫人はショパンにあれやこれやと話しているが、その一方では、
実はヴォジンスキ夫人とマリアは詩人ユリウス・スウォバキとスイス旅行を毎年の
ように楽しんでいたのである。
マリアはショパンと婚約の話をヴォジンスキ夫人は進めているかのようであったが、
名門貴族であるヴォジンスキ家は芸術家の遊び相手はショパンの他にもたくさんいたのである。詩人ユリウス・スウォバキ(ブログの2月3日参照)は、マリアとショパンが婚約を交わしたと言われる前か
ら、スウォバキはマリアと恋仲であったのだ。ユリウス・スウォバキは、1834年にヴォジン
スキ家とアルプス旅行をしている。そこで生まれた恋愛詩『スイスにて』を1835-1838にマリアとの恋愛を題材にして書いていた。
その出来事の少し前には、ショパンは出入りしていたサロンで作家のジョルジュ・サンドと
出逢ったのだった。
フェンガー宮殿 ポーランド トルン(1743-1833頃の外観)
トルン市長の住居、Jan Baptysta Cocchiの設計で1742年に建てられた。
装飾が美しい宮殿は古典主義の精神に変換された1833年に大幅に再建され、18世紀の装飾を取り除かれた。
フレデリック・ショパンの少年時代の1825年休日の間、ショパンの代父スカルベック伯爵の持ち物だったこの宮殿を訪れている。
1818年に宮殿はスカルベック伯爵によって受け継がれた。その後、
1833年、商人のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ボースが所有者になった。その後、重大な宮殿の時代が終わった。
現在は姿は変わり、現存する建物にショパンが訪れたことがある記念プレートが掲げてある。