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雲巌寺と能

2025.11.22 02:50

https://www.mattsuntabi.com/entry/2019/05/06/204632 【【雲巌寺】栃木県の御朱印巡りで訪れた森の中のパワースポット寺とは?】より抜粋

栃木県のおすすめ御朱印巡りで訪れた森の中のパワースポット寺とは?

森の中にひっそりとそのお寺はあります。辺りはどこか空気がピリッとしてどこか違う世界に来てしまったような感覚。辺りはとても静かで穏やか。

雲巌寺は、筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国時と並ぶ、禅宗の日本四大道場と呼ばれています。そんな日本で数えるほどしかない由緒あるお寺でもある雲巌寺は、そもそも観光目的のお寺ではないそうです。お寺にその様な立て札が書かれていました。

そもそも雲厳寺は禅の修行をするための道場であります。

しかし一般の人も自由に参拝することができますが、あくまで修行の地という事なんです。


https://michishigeta.wordpress.com/2013/02/05/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5%E8%83%BD%E6%A5%BD%E8%AB%96%E3%81%AE%E8%83%8C%E6%99%AF%E2%80%95%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%A8%E7%A6%85/ 【世阿弥の藝論の背景―室町幕府と禅 】より

(略)

足利義持と岐陽方秀は、世阿弥の禅の教養と思想の修得に影響を与えた、最も注目に値する人物である。

世阿弥のことばが、どのような立場状況にあっても通じ、600年以上の年月を経た今日の私たちにもうったえかけるものがあることは感銘を受けるところです。けれども世阿弥の当時、社会の仕組みや状況、もののみかたが今日と大きく違っていたのは言うまでもありません。世阿弥はその中で能を作り、能を演じ、藝論を書いていました。そこで世阿弥が身を置いていたのがどのような時であり場であったか、なぜ世阿弥がそのようなことを言ったのかに思いを馳せたいと思います。もちろんそれがすべてすっきり見えるはずはありませんが、わずかずつでも世阿弥の立場に近づいていく、その姿勢を大切にしたいと思います。

そのようにして読む世阿弥の藝論は、背景をひとまず横に置いて読んだ時の感触を損なうものではなく、むしろさらに大きな感銘がそこに待っていると、私は思っています。

さて、世阿弥は少年期に、父の観阿弥と都の郊外で能を演じたところを、若き将軍だった足利義満(1358-1408)に見出され、それがきっかけで義満や周囲の有力な武家の前でも演能を行うことができるようになりました。したがって、世阿弥の藝論を立体的にとらえるためには、その背景が当時の都であり、しかもそれが、武家の頂点、日本の政治の頂点だった室町幕府の敷かれていた場所であったことを忘れるわけにはいきません。都は都でも、能楽は、まずは皇族や公家ではなく、武家によって取り立てられた藝能だったのです。

そこで注意したいのは、当時の武家、とくに足利将軍家は、政治的、軍事的な実力を保つばかりでなく、その文化的なステータスも皇族や公家に近づけていこうとしたことです。足利義満は和歌を中心とした和風の文化も相当に重んじていましたが、仏教や藝能との関係にもそれが言えるのです。室町幕府の場合、文化を政治や軍事とまったく切り離して別ものと考えることはできませんが、ここでは文化的な面も大きい事柄として、仏教との関係を見ていきたいと思います。

世阿弥の藝論に禅のことばが見え、禅の思想がうかがわれることは、今ではよく知られています。実際、世阿弥の藝論は、明らかに仏教の宗派の中で、禅をとくに大きく反映しています。その背景として、世阿弥が補厳寺(ふがんじ)という大和国(今の奈良県)の曹洞宗(そうとうしゅう)の一寺院との縁で出家し、曹洞宗に帰依したことが言われてきました。補厳寺の住職から禅を学んだと見られてきたのです。しかし、たしかに補厳寺との縁を軽視することはできませんが、私がこれまで世阿弥の藝論を読み、その周辺の事柄を探ってきた結果から言えば、より注目しなくてはならないのは、武家、とくに足利将軍家が最も深くかかわった仏教の宗派が禅宗だったことです。

武家の仏教との縁は、皇族や公家とは大きく違っています。かつて政治の中心にいた皇族や公家は、仏教の中でも奈良の都に寺院を構えた東大寺や興福寺などの南都六宗や、平安時代に入ってからの比叡山・高野山といった天台宗・真言宗と強いつながりを持っていました。奈良平城京の寺院は国をまもる「鎮護国家」の役割をになった、いわば国立の寺院ですから天皇家とつながりが強いのは当然ですし、能の『葵上』で生き霊に苦しめられ病となった光源氏の正妻、葵上の祈祷(きとう)に、比叡山延暦寺(天台宗)の僧が呼ばれるのは、皇族と比叡山とのつながりをよく示すプロットです。また、京都周辺の天台宗や真言宗の寺院の中には、天皇の兄弟など、皇族や公家が僧として住まう寺院もありました。観光でも有名な京都の仁和寺、大原三千院、醍醐寺三宝院、宇治平等院など、門跡寺院と呼ばれるのがそれです。皇族や公家はこのように、古くから仏教寺院とつながりを持ってきたわけです。そもそも大陸から仏教を政治に活かすために本格的に摂り入れたのが皇族や公家、舒明天皇や推古天皇と聖徳太子の時代でしたから。

平安時代の中頃からは、それとは別に、公家の間で、自身が極楽浄土に生まれ変わることを願う阿弥陀信仰が広がっていきました。これは「鎮護国家」とはまったく別の個人的な信仰で、天台宗とともに浄土宗的な性格を持つ宇治平等院は、藤原道長(966-1027)の別荘を、息子の藤原頼道(992-1074)が寺院にしたものです。10円玉の図柄にもなっている鳳凰堂(阿弥陀堂)と堂前の浄土をかたどった庭園は有名ですね。

いっぽう武家は、皇族や公家のような身分家柄の基盤を持っていませんでしたから、中世に至って、軍事的、政治的な力が増大しても、それらの寺院とそう簡単に関係を結ぶことができませんでした。足利将軍家などは高野山に納骨する縁を作ったので関係が皆無とは言えませんが、それでも皇族や公家と同じようにはいきません。そこで武家がそれとは別に自分たちの仏教として摂り入れたのが、鎌倉時代に中国の宋に渡った栄西(1141-1215)によってはじめて中国からもたらされたとされる禅宗です。禅宗は、南都六宗や天台宗・真言宗と違って、武士でも気軽に近づいていける宗派だったのです。栄西は帰国した博多に聖福寺、そして鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建立しました。その頃から日本の僧は中国の僧との交流を求めて多く大陸に渡り、当時幕府のあった鎌倉や京都を中心に、禅宗が盛んになっていきました。その当時日本に伝わった禅宗の宗派は、臨済宗(りんざいしゅう)と曹洞宗の二つです。

幕府は、とくに重要な禅の寺院を選び「五山」と呼んで管轄するようになりました。この五山制度は鎌倉時代からありましたが、世阿弥を取り立てた足利義満は、南北朝時代の末期1386年に、京都・鎌倉に新しく五山を定め直し、禅の寺院のランクを決めました。次のとおりです。

・「五山之上」(別格)……南禅寺:もと亀山法皇の離宮の京都の寺院。

・京都五山……天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。

・鎌倉五山……建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。

足利義満といえば、周囲の武家を従わせていたことはもちろん、皇族や公家をも恐ろしがらせ、日本一の権力者として君臨していた人物ですが、この義満と五山との関係は、あたかもかつての奈良の都の天皇家と仏教との関係を思わせます。義満があらためて五山を決めて管轄したことには、仏教として世をまもる役割を五山に担わせたという意味と、幕府の中枢の足利義満こそがこの世を治める張本人なのだ、という意思表示に近いものを読み取ることができないでしょうか。

この足利義満の時代に、世阿弥は少年期から40歳代半ばまでを過ごしたのですから、世阿弥の藝論に反映している禅も、義満の統治下で学んだものだろうと思いたくなります。ところが義満の時代に書かれた世阿弥の藝論には、禅がまず現れてこないのです。どうやら世阿弥が禅を熱心に学んだのは義満の時代ではなく、義満が応永15年(1408)に死去した後、将軍家を継いだ足利義持(1386-1428)の時代だったようなのです。

実はこの義持、禅に関しては義満以上の入れ込みようでした。幕府の“お勤め”として五山の管轄もきっちり行っていましたが、個人的にも禅林の制度や禅の思想への理解が歴代将軍の中でもとりわけ深く、ふだんから禅僧の格好をし、新しく建てた邸宅は禅風にしつらえ、周囲の大名や禅僧を引き連れてはともに漢詩を作るなど、中国の士大夫(したいふ)ばった生活をして過ごしていたことが、これまでの研究で知られています。そればかりか、権力におもねらないという禅僧の噂を聞き、自分のもとに熱心に呼んではかえって逃げられたという逸話もいくつか遺っているのです。また、自分は禅の信者だから、先祖の骨が納めてある真言宗の高野山にも行かないと、断固とした態度を取っています。

派手で華やかな印象の足利義満に対して、義持はその対極とも言えるような渋い印象を与えます。海外にも有名な日本の美意識として「わびさび」がありますが、この「さび」の文化は、実はこの義持の時代に形成されたのではないか、しかもそれは、能の美意識にまで及ぶのではないかと、私は考えています。義満と東山文化で有名な足利義政(1436-1490)との間で、以前はあまり文化的には注目されなかった足利義持ですが、能を含め、日本文化や日本の美意識を育てるのに大きな役割を果たした人物として、今後もっと注目されてほしいと思います。

さて世阿弥と禅に話を戻しますと、この義持の時代が幕開けして間もない頃、どうやら世阿弥は、学問では当時いちばんと言えるような禅僧と知り合う機会を持ったようです。世阿弥とほぼ同世代のその禅僧は、岐陽方秀(ぎようほうしゅう・きようほうしゅう、1361-1424)という名で、五山の一つ東福寺で修行し、そこを中心に活動していました。方秀と世阿弥は相当にうちとけた仲だったらしく、方秀や周囲の禅僧のもとで、世阿弥は禅を学んだのだと思われます。方秀の技倆は足利義持も認めていたようで、義持の時代になってからしばらくして、方秀は東福寺の住職に任じられました。

世阿弥が方秀とどのように知り合ったのか、その具体的ないきさつはわかりませんが、足利義持の周辺で出会ったことは間違いないと思われます。そもそも義持が禅を重んじたという背景があったからこそ、世阿弥も禅をそれ以前とは較べものにならないほど深く学ぶことができたと言ってよいでしょう。世阿弥の藝論に反映している禅も、「さび」と同じように、義持の時代のたまものと言うことができるかと思います。

観世宗家展に出品されていた『花伝』別紙口伝にも第4条の「初心を忘るべからず」など、禅を学んだ跡が見えることばがあります。「初心を忘るべからず」は世阿弥の別の伝書『花鏡』にも詳しく論じられていることで知られていますが、別紙口伝にもこのことばが見えています。そこには上のような背景があったのです。

このシリーズの次回は、やはり『花伝』別紙口伝でとくに大切なことばとされている「花」について書きたいと思います。

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この記事は、多くのウェブサイトのお力を借りて書かせていただいています。各ウェブサイトの関係者の方にお礼申し上げます。

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https://www.the-noh.com/jp/oversea/index.html 【the能ドットコム:能の海外交流 - the-Noh.com】より

能は、謡い・舞いなどの技芸の鋭さ、ストーリーの面白さ、文学的な洗練、多彩な表現といった、さまざまな魅力を通じて、海外の人たちをも魅了してきました。その積み重ねの延長に、ユネスコの世界無形遺産への登録という揺るぎない評価があったのではないでしょうか。

ここでは、海外の人たちがいかに能に魅せられてきたか、また各流の能楽師、能楽研究者、能楽評論家を含め、日本の能楽関係者がいかに海外の人たちに能を伝えようと努力してきたのか、その足跡をたどっていきます。

1概論 能の海外交流史 第一回目は概論として能の海外交流史を振り返ります。

2宣教師の眼に映じた能 第二回目は日本を訪れた宣教師たちが残した、能に関する記録をひもときます。

3グラント将軍の激賞が後押しした 米国18代大統領であるグラント将軍が、明治能楽の復興に与えた影響。

4明治外交に花を添える 明治時代、能は外交の場で、日本文化の精華を瑞々しく表しました。

5明治期に能を英訳、紹介したチェンバレン 英国人チェンバレンは日本独自の詩文学として能を高く評価しました。

6アーネスト・サトウから受け継いだもの チェンバレンの能楽研究は、サトウとの親交にも支えられました。

チェンバレンが翻訳した“The Robe of Feathers”(羽衣)

7謡曲を習った動物学者、モース 大森貝塚発掘で知られるモース博士は、能楽にとっても恩人なのです。

https://www.tochigiji.or.jp/event/e15071 【中禅寺講】より

湖上で地蔵流し供養

中禅寺は、日光を開山された勝道上人(しょうどうしょうにん)が延暦3(784)年に創建されたお寺です。その由来は、上人が中禅寺湖のほとりで祈願を込めたところ、湖上に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を感得かんとくされ、そのお姿を桂の木に立木のまま御手彫おてぼりされました。

これが「立木観音(たちきかんのん)」とも称される日光山(にっこうざん)輪王寺(りんのうじ)別院「中禅寺」の御本尊「十一面千手観世音菩薩(じゆういちめんせんじゅかんぜおんぼさつ)」(国重要文化財)であり、以来、日光山信仰の神髄たる「男体山権現」の本地仏として、朝野(ちょうや)あまたの善男善女から篤い崇敬を受け、1914(大正3)年には国の重要文化財に指定されて現在に至っています。

毎年、6月18日の観音様の御縁日には、輪王寺御門跡ならびに一山(いっさん)僧侶の出仕により、福寿増長・除災招福の祈願が奉修(ほうしゅう)されます。祈願を申し込まれた方には、五大堂での「慰霊回向」の法要、ならびに波之利(はしり)大黒天堂の「護摩(ごま)祈願」に参列後、遊覧船に乗船して中禅寺湖上での「地蔵流し」と、盛りだくさんの行事に参加していただき、最後に祈願札をお授けいたします。