「土」──その存在と多面的な役割(Ⅳ) ──土の文化論──
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/56/3/56_128/_pdf 【「土」──その存在と多面的な役割(Ⅳ) ──土の文化論──】より 大橋欣治
(略)
(4) 人はその生存基盤である土(大地)に対して,絶えず祈り,感謝,怖れを抱いている
まず東西における宇宙の根本思想における「土」の位置づけを見ておきたい。
東には,古代中国における「陰陽五行思想」がある。宇宙の原初唯一絶対の存在である「混こん沌とん」の中から,陰陽の二気に別れ,陽が「天」(男・○),陰が「地」(女・□)となった。そして,地上においては五気(五行)「木・火・土・金・水」が生じた。この世のありとあらゆるもの,有形無形を問わず,いっさいの森羅万象を,この陰陽五行に還元し,配当している。さらに,陰陽の二気を兄え(大・剛強・動)・弟と(小・柔和・静)に区分し,これに五行を組み合わせて十干かん「甲こう(きのえ)・乙おつ(きのと)・丙へい(ひのえ)・丁てい(ひのと)・戊ぼう(つちのえ)・己き(つちのと)・庚こう(かのえ)・辛しん(かのと)・壬じん(みずのえ)・葵き(みずのと)」とし,これに万物の栄枯盛衰の象しょうを当てはめている。なお,この十干と十二支し「子ね・丑うし・寅とら・卯う・辰たつ・巳み・午うま・未ひつじ・申さる・酉とり・戌いぬ・亥い」を組み合わせたものが,干え支とである。従って,干支は60種ある。因みに,21世紀の幕開けであった西暦2001年(平成13年)は,辛かのと巳みであった。還暦とは,数え年61歳のことであり,生まれた年の干支に再び戻ることである。ところで,五気について,主な配当を見てみる。「木」は春・東・青を,「火」は夏・南・赤を,「金」は秋・西・白を,「水」は冬・北・黒を,「土」は土用(本来は年4回,立春・立夏・立秋・立冬の前の18日間)・中央・黄を指している。中国大陸は広大であり,はるか地平線の果てまで一望千里で,黄土が天に対する「土」ということが実感される。そのような感覚で,中央・黄が「土気」になっている。なお,現在では土用といえば,夏の7月(旧6月・末月)の土用のことで,その「土用の丑うしの日」がウナギを食する日となっている。昔から,四季の土用の期間中は,特に動土,土木工事に着手することは大凶とされている。ただし,土用中でも間ま日びは障さしさわりがないとされている。このように,「土」は中央を意味し,人間では君主を指し,自然現象では四季の王である。そこから,「土徳」を讃える詩までがある57)。水は土がなければ生せず,繁茂しない。火は土なくしては勢いなく,土あってはじめて火としての形をなす。金は土の鋳型に入ってこそ,有益なものとなり得る。水は土がなければ溢れて止まるところを知らない,水は堤防によって溢れずにすむ。土気は新たに萌きざしくるものを扶たすけ,衰えいくものを衰えさせて,そのものの道を達成させる。故に,五行循環は土徳の力に負うものである。土気は四季の変化の中央にいて四季を行きめぐらせ,四季の王となる。「洪範」五行伝中国では,神話の神農氏や三皇五帝のように,為政者も人民も一緒になって水を治おさめ,土地を拓ひらき,農に勤いそしみ,食を確保するという「土徳」が浸透した理想の時代があったといわれている。春秋戦国時代(前8〜前3世紀)に諸国・諸侯が覇権を争ったが,同時に諸子百家が輩出した。中でも管仲(?〜前645)は,既に記したように「地は萬物の本ほん原げん,諸生の根こん荄かいなり」(大地は万物を生み出す本源であり,もろもろの生物にとって基盤となるものである)(『管子』)といっている。そして,「地は政まつりごとの本なり」「衣食足りて礼節を知る」として,農業を本とした産業振興策を打ち出している58)。孔子(前551〜前479)は,「人の下たる者は,其はなお土のごときか。之を種うれば則ち五穀生じ,之を掘れば則ち甘泉出で,草木植し,禽獣育し,生人立ち,死人入る。其の効多くして言わず」(『説苑』)といい,土の本質を理解していた59)。その一方で,「君子は徳を懐おもう,小人は土を懐う」(君子がなつかしみ安んずるのは「道徳」,一般人がなつかしみ安んじるものは「土地」である)とか,「燓はん遅ち,稼かを学ばんことを請う。子曰いわく,吾れ老農に如しかず。圃をなすことを学ばんと請う。子曰わく,吾れ老圃に如かず。燓遅出ず。子曰わく,小人なる哉かな燓須や」(『論語』)といっている60)。この孔子の思想を継いだ孟子(前372頃〜前289頃)は,自分の理想の生活として「五畝ほの宅地に,桑を植えて養蚕をすれば,五十過ぎの老人は絹が着られる。鶏・仔豚・犬・牝豚を飼い,適時飼育すれば,七十過ぎの老人は肉食ができる。百畝の田地を分け与え,力役や軍事に駆り出して農作業の邪魔をしなければ,八人家族ぐらいは飢えないで食べていける」としているが,「心を労する者は人を治め,力を労する者は人に治められる」(『孟子』)と主張し,君主も人民と同様に,自分で耕作して生計を立てるべきとした農家・許きよ行こうを嘲笑した61)。このように孔孟に代表される儒家は,徳治主義の立場に立って,為政者が仁や礼・信義を重んじる政まつりごとをすれば,人民はそれに感化され稼かに励むという思想であった。これに対して,老子(前6〜前5世紀頃)は,「上善は水の若ごとし。水は善よく万物を利して争わず,衆人の悪にくむ所に処おる。故に道に畿ちかし。居るには地を善しとし,心は淵ふかきを善とし,与ともにするは仁なるを善とし,言は信あるを善しとし,正おきては治まるを善しとし,事は能あるを善しとし,動くには時なるを善しとし,夫そは唯だ争わず,故に尤とがめ無し」(水の如く低きに就き,地にどっしりと足をつけ,付和雷同せず,他者と争わないことが最善である),「人は地に法のっとり,地は天に法り,天は道に法り,道は自然に法る」(人間は大地の上に住み,大地によって養われるから,大地なくしては人間もまた存在しえず,大地の在り方をこそ己の生活の準拠にする)(『老子』)といっている62)。これは荘子(前4世紀頃)の「地は一みちを得て以って寧やすし」,「人は地に法のっとる」(『荘子』)という言葉と同じものである63)。この老荘の思想は,宇宙原理としての自然の道を求め,人間の真の幸福や本当の価値は無為自然を尊重するところにあるというものであり,儒教の君子(為政者)の「道」「名」を真っ向から否定するものであった。西には,ギリシャの「四大元素説」がある。哲学は,ギリシャの植民地イオーニア地方の都市ミーレートスのタレース(前7〜前6世紀)が,「万物のもとは「水」だ!」という説を出した時に始まったとされている。ギリシャの哲学者アリストテレス(前384〜前322)は,このタレースの説を支持した。このタレースに続くアナクシマンドゥロス(前610頃〜前547頃)は,水の代りに「アペイロン」という物質的なものを打ち立てた。それはこれという特定な性質を持たないいわば「混沌(カオス)」たるものであるが,それが運動して,「地(土)」(earth),「水」(water),「風(空気)」(air),「火」(fire)という四大元素(エレメント)の領域的秩序ができあがるというものであった。この四大元素は,季節や方向,人間の気質などに合致される。つまり,「土」は夏・南・憂ゆう鬱うつ質(メランコリー),「水」は秋・西・粘ねん液えき質(フレグマティック),「火」は冬・北・胆たん汁じゆう質,「風」は春・東・多た血けつ質ということである64)。このような四大元素説と並行して,ギリシャ神話の世界では,ヘシオドス(前700年頃)の『神統記』にあるように,「カオス」の中から,ミロの「ヴィーナス」,ボッティチェリーの名画「ヴィーナスの誕生」などで親しまれているヴィーナス(ギリシャ語ではアプロディーテ)は,紺青の美しい海面に立つ白波(海のあわ=アフロス)から誕生したとする一方で,既に記したように,「カオス」が分裂して「大地の神ガイア」が生まれ,ガイアが自家生殖的に次々に神々を生み,母なる大地から人間が生まれるとしている65)。そして,ここから「天なる父,地なる母」「大地母神」という思想が誕生した。一方,『旧約聖書』では,既に記した「カインとアベル」の物語の後に,地上の人間界の腐敗・堕落を見たヤハウェ神は,「ノアの洪水」を起こし,地上のすべてのものを洗い流してしまう。義の人・ノアの一族のみを「ノアの箱舟」で助け,「ふえかつ増して,地に満ち,地を支配せよ」と祝福した66)。(なお,このような「ノアの洪水」に見られるような洪水伝説は世界各地に存在している)その後,ノア一族の後裔であるイスラエルの民は,エジプトに移住するが,寄生的・隷属的な生活に耐え切らず,「十戒」の名で知られるモーセおよびその後継者ヨシュアに引きつられ,神の導きによってエジプトから脱出し,「乳と蜜の流れる地・約束の地」カナンに帰還する。この時,神は「土地は私のものであり,あなたたちは私の土地に寄留し,滞在するものに過ぎない」という。人と土地の最終的な所有者は神であり,人が人を所有することはできないし,他人の土地を奪うこともできない。このような神と人の関わりを,あるべき社会の姿として提示している67)。このイスラエルの民が信仰する宗教(ユダヤ教)の選民思想に飽き足らず,人類全体への愛(絶対愛と隣人愛)を説いたイエス・キリスト(前4頃〜後30頃)は,十字架での磔はりつけの刑に処せられるが,その思想は使徒・パウロとペトロ(両者とも殉教者となるが,後にペトロ(石の意)はサンピエトロ寺院の中心部に祭られた)を中心に普及活動がなされ,次第にローマ帝国にも浸透し,キリスト教として今日では世界中に大きな勢力と影響力を持つに至っている。キリストの行動と言動をまとめた『新約聖書』には,土や大地を例えとした物語がある。一つは「地の塩」である。キリストは「あなたがたは地の塩である。だが,塩に塩気がなくなれば,その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや,何の役にも立たず,外に捨てられ,人々が踏みつけるだけである」(人も塩と同じように,本来の役目を負って生きて行くことで世の中に役立っている)(『マタイ福音書』)といっている。この「地の塩」を例に使ったのは,イスラエルの地にある「死海」という世界一塩分濃度の高い湖があることと,この「死海」には人の姿を彷彿させる塩柱があって,それが『旧約聖書』に語られている「ロトの妻」だといわれている。二つは「土の器」である。使徒パウロは「わたしたちは,このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって,わたくしたちから出たものではないことが明らかになるために」(私どもは皆「土の器」で神の前に同等である。土から造られ,また土に帰ってゆく土の器である私どもの生涯を全うしたいと考える)(『コリントの使徒への手紙二』)といっている68)。ユダヤ教やキリスト教と根を同じくするイスラム教は,メッカで生まれたマホメット(570?〜632)がアッラーの啓示を受け,その預言者として自覚し創始したものである。その啓示書が『コーラン』(650年頃成立)である。アラビア半島の砂漠という厳しい自然環境の中で,アッラーを絶対神として信じ,人間の生活・行動の規範を啓示したものである。『コーラン』の中には,天上の楽園に「潺せん々せんと河川が流れ」「こんこんと泉が湧く」ことが何度も出てくる。そこは,食べ物が常に稔り,涼しい日陰がいつもあるところであるからである69)。仏教は,インド亜大陸の北部(現在はネパール領)に生まれたゴータマ・シッダルタ(仏ぶつ陀だ,釈しや迦か,釈しやく 尊そん)(前500年頃)が,開いた宗教である。仏教は,永遠の真理(法ダルマ)への自覚(悟り)を説き,正しい知恵の大切さ,人類の平等,生命あるものへの慈悲を重んじる平和で寛容な精神などを特色とするものである。『スッタニパータ』という釈迦が説いた最も古い経典には,「田を耕すバーラドヴァージャ」という物語が語られている。釈迦は,バーラドヴァージャ(バラモン)が食べ物を配給している所に,托たく鉢はつに行った。バラモンは,釈迦に「私は耕して種を播いた後で食くらう。道の人(釈尊)よ。あなたもまた耕して播いたあとで食へ」と。師(釈尊)は「私も耕して播いたあとで食う」と答えた。バラモンは,それでは「耕作することを見せてください」と。師は答えた。「信仰は種子である。苦行は雨である。智ち慧えはわが軛くびきと鋤すきとである。……この耕作はこのようになされ,甘露の果報をもたらす。この耕作を行ったならば,あらゆる苦悩から解き放される」と。その時,バラモンは鉢に乳ちち粥かゆを盛って師に捧げた。こうして,バラモン・バーラドヴァージャは,師に帰き依えし,聖者の一人となった70)。釈迦の最後の旅を語った『大パリニッパーナ経』には,大地震に関連して,「この大地は水の上(水輪)に安立し,水は風の上(風輪)に安立し,風は虚こ空くう(空輪)の上に存する。この大きな風が吹く時,水を動揺させ,水が地を動揺させる。これが地震の第一の原因である」とある。また,「虚空のうちにあって地のことを想うている神霊たちがいる」(虚空のなかに地を作り出して,そこで地のことを想うている神々がいる)とある。そして,尊師は,弟子たちに「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」と告げて,入にゆう 寂じやくした71)。この釈迦の教えは,仏教としてアジア各地に広まり,スリランカ・ミャンマ・タイなどの東南アジア(小乗仏教)から,チベット・中国・朝鮮・日本(大乗仏教)などに及んだ。しかし,仏教は,インド亜大陸ではヒンズー教の勢力に飲み込まれ,一部の地域(パキスタン・バングラデッシュ等)ではイスラム教が浸透し衰退した。仏教の原形が最も残されているのは,一つはスリランカであり,個人的悟りの完成をめざし,厳しい戒律と僧院での修行を重視している。もう一つはチベットであり,そこでは「五体投地」(巡礼者は数じゆ珠ずとマニ車を持ち,大地に身を投げ出し,合掌しながら進む)をしながら,首都ラサ(ヤギの土の意)のチョカン寺(大昭寺)などへ巡礼,参拝の旅をする礼法が残されている72)。なお,仏教の五輪(五大)とは,地・水・火・風・空を指し,五輪塔はこの五大をかたどった五つの部分からなる塔である。仏教においては,「地じ獄ごく・極ごく楽らく」「穢え土ど・浄じょう 土ど」「冥めい土ど(冥途)(三途(地獄道・畜生道・餓鬼道)の川を渡りきり,極楽浄土へ行けるか否かを決めるのが「閻えん魔ま大王」である)」という死後の世界観が普及した73)。同じように,キリスト教においても,「天国と地獄」という思想は当初からあり,カトリック教義を確立したアウグスティヌス(354〜430)の『神の国』,イタリア・ルネッサンスの先駆となったダンテ(1265〜1321)の『神曲』によって体系化された74),75)。ところで,既に記した中国古来の「土徳」の思想は,儒教や老荘思想等,さらには仏教の思想と混交され,日本にも伝わり,特に江戸時代の安藤昌益や二宮尊徳などの思想の根本になっている。安藤昌益(1703?〜62?)は,東北の町医者で「土の思想家」「手に土する者」といわれ,その著『自し然ぜん真しん営えい道どう』『統とう道どう真しん伝でん』は長く埋もれていたが,明治時代後期に発見された。その思想の根底は「土ど活かつ真しん」であり,陰陽五行の中心である「土」が宇宙の万物の活真の運回を司り,その生成作用が大地に穀物の生産を促し,人間が「転てん定ち(天地)」と共同に労働して得た穀物をもって生存し,かつ生殖するといっている。そこから,「人間を人間たらしめる唯一にして無二の基準は,「直耕」(直接耕作)に従うこと以外にない」と主張し,中国の聖人君子や,同時代の支配層を「不ふ耕こう貪どん 食しよく」と非難している。また,五穀の長たる米穀について「米粒は一つの小宇宙である」「人間は米粒から生れる」ともいっている76)。二宮尊徳(幼名金次郎,1787〜1856)は,太平洋戦争の終戦(1945年)までは,現在の小学校(当時は国民学校)の校庭に,必ず薪を背負いながら読書している石像が立っていた。勤倹力行の精神が,当時の国定教科書に取り上げられ,修身の手本とされたからである。戦後,これらの石像は軍国主義の片棒を担ったものとして否定され,撤去された。しかし,今日まで,尊徳の説いた「興こう国こく安あん民みん」の思想は,「報ほう徳とく運動」として引き継がれている。尊徳は,小田原在の比較的豊かな農家の倅として生れたが,酒さか匂わ川がわの水害などの天災に見舞われ,その上早く父母を亡くしたことによって実家は没落した。しかし,災害に立ち向かい,田畑や用水路を復旧し,実家を再建させた。この実績を小田原藩の家老・服部家に認められ,服部家の財政再建を任され,「分ぶん度ど」(収入に応じた日常生活の規範(度)を定め,それを守る),「推すい譲じよう」(分度によって,分外の財が生じ,家,藩,国を潤し,人民に頒わかたれて行く)を定め,それを実践することで,再建を果たした。次いで,小田原藩「桜町領」(現在の栃木県二宮町)の復興の命を受けた。尊徳は,開墾,荒こう蕪ぶ地ちの復旧,用水路の開削による生産高の増加を図るとともに,堤防,道路,橋などの整備,農業金融制度の創設,不二講による農家の互助組織の育成を図った。その結果,領地の復興,備び荒こう(凶作への備蓄)を成し遂げた。この「桜町仕法」の成功は,各地に伝わり,近隣の諸藩から要請を受け,同じような仕法を試みた。最後は日光神領の再建を託されたが,そこで病に罹り亡くなった。尊徳は,『三さん才さい報ほう徳とく金きん毛もう録ろく』を著わしたが,そこで「田でん徳とく:田なければすなわち生養なし。田あるによって生命を育つ」といっている。人間が人間であるのは,単に自然の恵みで生きるのではなく,自然を切り開き,基本的な生産の場である田畑を開拓し,荒蕪地を復旧し,用水路を開削し,農業生産を高めることにあるとしている。この尊徳の農村復興・農村厚生の実践は,弟子の安居院庄八の遠州・相州における報徳思想の運動,富田髙慶『報徳記』,福住正兄『二宮翁夜話』などの刊行によって普及していった77)。同時代の農村復興の指導者に,大原幽学(1797〜1858)がいる。彼は,武士階級の出身であるが,長部村(現在の千葉県干潟町)で実践を行なった78)。「地霊」という言葉がある。イギリスの作家D・H・ロレンス(1885〜1930)は,「すべての大陸には,その大陸固有の土地の霊(スピリット)というものがある」といっている79)。この土地の霊は,ラテン語では「ゲニウス・ロキ(地霊)」のことである。「地霊とは何か。それは精霊,あるいは神秘的な「もの」であり,ギリシャ・ローマの伝統では,とくにロキ(loqui:土地)という属性を示す語をつけなくとも,ゲニウス(genius)はある土地──場所の守り神であり,そこに住む人や人々の運命を司っている存在である」「ケルト文化(筆者注:かつて古代ヨーロッパで広く勢力を張っていたケルト民族の文化で,現在はアイルランドなどにキリスト教化された文化が残されている)では,森や山,険阻な海岸,あるいは古い砦の廃墟などに住む,その場の「ぬし」。その存在は妖怪から,魔物と見紛う巨大な動物の姿をとるが,時には全く姿は見えず,風のささやき,いや,そのようなかそけき音さえもなく,ただ気配だけがその実存を主張する。つまりものの「化」であり,ものの「気」である」(荻野弘巳著『地霊論』)といわれている80)。ストーン・ヘンジはそのような名残りの遺跡ともいわれている。また,森の中で突然襲われる「パニック」(panic・ギリシャ語panikos)は,牧羊神パンの突然の出現に人が混乱・狼狽することであるが,このパンは地霊的である。ただ人がパニックに襲われるのは,そのような怪物を見てではなく,突然,気配を感じることが多い。この「気配」「雰囲気」は英語でアトモスフェア(「atomo:気」+「sphere:場」)である。「場」と結びつかない霊的存在は,霊魂(soul:いわゆる「死者の魂」)や幽霊(ghost)である。一方,「妖精」すなわち英語のフェアリ(fairy)は,童話あるいは民話の善玉精霊─時には守護霊─のニュアンスが強い。フェアリに対応するフランス語のフェ(fee)にはそのようなニュアンスはなく,ずいぶん不気味な妖精─ほとんど妖怪─もいる。ここで謂う精霊は,キリスト教の三位一体の聖霊(HolySpirit)でもない。これらの妖精たちは,『アーサー王伝説』の湖の精やシェイクスピア(1564〜1616)の『夏の夜の夢』の妖精王オーベロン,児童文学のジェームス・バリ(1860〜1937)の『ピーターパン』などに変容されていった81)。キリスト教などの唯一神の国々においても,もともと土俗的なあるいは土着的な地霊は多く存在していた。日本においては,「草そう木もく国こく土ど悉しつ皆かい成じよう仏ぶつ」や「八や百お 万よろずの神々」といわれ,すべてのものに神や仏が宿っていると信じられている。天地自然に宿る神仏に,人の力を超えた偉大な存在を認識し,あるいは目には見えない「霊力」の働き,人の吉凶を支配するものがあると信じてきた。鎮ちん守じゆの森や様々な祠ほこら,山,川,樹木,岩石,夫婦岩のような岩礁などを大切にし,集落の入り口に道どう祖そ神じんを祭ったりすることは,土地の霊を祭ることであり,精霊信仰(アニミズム)でもある。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン,1850〜1904)は,『怪談』『心』などの作品を残しているが,彼の作品には,日本の一般民衆の古くからの習慣,心性─日本の霊─が見事に描かれている。それは,彼にはアイルランド人の血が流れ,日本神話の地・出雲に住んだことからといわれている。アジアでは,この精霊信仰が,宗教と混合しながらも共通的な精神基盤となっている。アイヌの「カムイ」,琉球の「ニライカナイ」,中国の「天帝」,朝鮮の「七星(チルソン)」,フィリピンの「アニート」,マレーシアやインドネシアの「スマンガット」や「マラプ」,タイの「ピー」,ミャンマーの「ナッ」,インド亜大陸の「ヒンドゥーの神々」などである。日本には,「産うぶ土すな」という言葉があるが,これはその人が生まれた土地のことをいっている。日本では,古くから出産に当たって「産うぶ小こ屋や」を作り,その底に砂を敷き,その上に藁稲(ワラシベ)をのせ,その上には蓆(ムシロ)を,その上に布団を敷いた。産婦は蹲そん踞きよの形で坐り,垂れ下がった力綱を握り締めて分娩したという。この産小屋の砂を「産土」(ウブスナ)(産砂,生土とも書く)というところからきている。「産土神」といえば,その人の生まれた土地を守る神である。また,「氏神・鎮ちん守じゆ神(鎮守の森)」は,いずれもその土地の氏族や住民の守護神として祭られてきた。祭りとは,神への畏敬と感謝の気持ちを表す行事である。土をいじる建設工事の着工に当たって,「地じ鎮ちん祭」が必ず行われるが,これはその土地の神に挨拶し,工事の安全を祈願するものである。これらの神は,もともとは非人格的,非意識的な「カミ」であった。むしろ「タマ(霊魂)」と呼ぶのにふさわしいものである。古代の人々は,人々の生存を左右する食べ物,中でもコメの出来,不出来への怖れを抱き,その豊作を祈らざるを得なかった。そこから「イナダマ(穀霊)」の存在を信じていた。イナダマは,稲に宿る霊であり,稲の再生と豊穣を司っていると信じていた。それが,次第にカミと呼ばれ,神格化し,人格神となり,その頂点が天皇霊の神格化であった。現在でも行われている天皇の大おお嘗なめ祭さい・新にい嘗なめ祭さいは,このイナダマと一体化する行事であるといわれている。「相すも撲う」は,宮中の相撲節せち会えとして,五穀豊穣を祈る行事であった。日本書紀に,7月7日(七夕の式日)に,天皇の前で野の見みの宿すく弥ねと当麻たいまの蹶速くえはやが相撲をとったと記されている。これが,わが国の相撲(角力)の濫らん觴しようであった。力士は「シコ」を踏んで地を鎮めることが重要であり,そして,力競べを行い,勝つことによって邪気に克かつということに意味があった。独相撲(一人角力)の行事が残されているが,これは架空の相手である邪じやと闘うもので,地固めの行事である。現在でも,国技といわれる相撲の土俵は祭礼の場であり,その下には神が宿っている印が埋め込まれている。力士が塩を播くのも,土俵の清めである。このシコを踏んだり,足で地を蹴って踊ったり,それも円環(サークル)を組んで踊ったりすることは,古今東西に見られるが,これらは人間と大地が一体化し,豊穣祈願する祭りである82)。日本は,「豊とよ葦あし原はら瑞みず穂ほの国くに」といわれるように,葦原を拓くことにより水稲耕作を行い,その豊凶が人々の生活を左右した。この稲作の豊穣が最高の理想であり,それをもたらすのが「田の神」である。この「田の神」として奉ほう斎さいする対象として,稲穀そのものに宿る神霊と稲穀の外部にあって稲の生育に力があり豊穣を可能にする神霊とがある。前者は,穀物そのものであり,記紀にも穀物に関わる神々が登場する。中でも,乱らん暴ぼう狼ろう藉ぜきを働いた須す佐さ之の男をの命みことは,天あま 照てらす大おお御み神かみによって,高天原たかまがはらから追放される。須佐之男命は,食べ物を大おほ気げ津つ比ひ賣め(食物を司る女神)に乞うと,比賣は鼻・口・尻から種々の食物を出し,調理して奉った。命はこの様を穢けがらわしいとして,比賣を殺してしまう。この時,比賣の頭から蚕,目から稲種,耳から粟,鼻から小豆,陰から麦,尻から大豆が生じた。これが,日本における五穀の起源であるという。このように,食物・穀物を司る神は,穀物(特に米穀)そのものであり,そこに神霊が宿っていると見て奉斎してきた。一方,後者は,稲の生育する環境に関わる風・水・土などや害虫退治に関係する神霊(それを祭る行事が「盆踊り」「春・夏・秋の祭り」「田遊び」「泥んこ遊び」「お田植え祭り」「花田植え(広島等)」「花祭り(愛知等)」「風の盆(富山)」「かまくら(秋田・水神を祭る)」「ねぷた(ねぶた)(青森)」「テンテコ祭り(愛知)」「へのこ祭り(愛知)」等々がある)と,稲の生育時期に来臨しそれを見守る神霊(それを祭る行事が「アエ(イ)ノコト(石川,福井)」等がある)を祭る行事が,今日まで全国各地に残され,引き継がれている。なお,これらの祭りは,穀物の豊穣を祈るとともに,家族や一族,地域社会の安全と繁栄を祈るものでもある83)。「田でん楽がく」も,文字どおり「田の楽」であり,田の神を祭り,農作を予祝する行事である。平安時代の鳥羽僧正(1053〜1140)作の「鳥獣戯画」には,田楽を踊る「水田の楽師・蛙」が描かれている。この田楽は,頻繁に起こる疫病を払う「御み霊たま会え」でも行われるようになった。京都・祇園の御霊会が,今日の祇園祭である。白河上皇(1053〜1129)や北条高時(1303〜33)は田楽を愛めでたという。一方,室町時代の足利義満(1358〜1408)は「猿さる楽がく(申楽)」(もともとは外来楽である「散さん楽がく」である)を愛でたが,これが観阿弥(1333〜84)・世阿弥(1363〜1443)によって「能のう楽がく」として大成された。「狂きよう 言げん」は,田楽,猿楽でも一緒に行われていたが,能楽の隆盛に伴って洗練されたものとなった。正月の祝芸として「千せん秋しゆう万ばん歳ざい」(三河・尾張・大和が有名であり,今日の「漫才」の前身である)があるが,これも田楽,猿楽の一つである。「左さ義ぎ長ちよう」(俗に「どんと焼き」「どんど(歳徳)焼き」)は,宮中の正月行事である「三さ毬ぎ 杖ちよう」から出たもので,田楽の流れの一つである84)。このような五穀豊穣を祈るという祭りの伝統は,宮中において綿々と継承されている。宮中においては,毎月,月つき次なみ祭さいが行われている。特に2月17日の「祈年祭」では,天皇は神にその年の豊作を祈念する。そして,初夏に皇居の田圃で自ら田植えをし,秋に自ら刈り取りを行う。11月23日の「新にい嘗なめ祭さい」で,神に稲をお供えし感謝する。この時には,海の幸,山の幸も神にお供えになり,天皇自らもお配膳を召し上がる。これを「おおにえ祭り」という。天皇が新たに即位した時,その翌年に行われるのが「大おお嘗なめ祭さい」であり,この時は卜ぼく定ていで斎さい田でんを全国二ヵ所選び,その神米を神に供するという。なお,宮中で収穫された稲は,伊勢神宮にもお供えされる。伊勢神宮は,皇室の祖先神を祭る神社であり,内宮は皇祖である天照大御神を祭り,外宮は天照大御神の御前を司る食物神である豊とよ受うけ大おお御み神かみを祭っている。伊勢神宮では,宮中における月次・新嘗祭に相当する祭礼が行われている。このことから,伊勢神宮は農業・米穀の神として奉られている。日本では,民間信仰として,「七福神(大だい黒こく天てん,恵え比び寿す天てん,弁べん財ざい天てん,布ほ袋てい尊そん,福ふく禄ろく寿じゆ,毘び沙しや門もん天てん,寿じゆ老ろう人じん)」がある。これらの神様は,日本,中国,インドで生まれたもので,東洋の神々が和合したものである。中でも,「大黒天(大黒さま)」は,頭ず巾きんを被りニコニコ顔の太った身体で,両足で二つの米俵の上に乗って左肩から大きな袋を背負い,右手に小こ槌つちを持っているが,この大きな袋の中には「土」が入っており,二つの俵を踏んでいるのは二つを一つにすることを意味しているといわれている。農業は,土を大切にする。土から米や穀物,野菜などの食べ物が育つからである。大黒天に供えるものは,二股大根であり,一つから二つを出していることを意味している。つまり,大黒=太極,陰陽二元気の根本を表している。大黒天は,もともとインドの摩ま訶か迦か羅ら(シバ神の化身であるマハーカーラ)という天界に住む荒々しい仏で,怒りの形相を浮かべており,寺院の台所に祭られていた。日本には,最澄(766?〜822)が中国・唐から持ち帰り,比叡山・延暦寺に祭り,台所や食堂の仏神となった。寺院の僧侶の奥方のことを「大黒さん」と呼ぶことがあるが,ここから出ている。このように,大黒天は,農業の神であり,食物の神である。ところで,「大黒さま」という唱歌がある。出雲神話にある因幡いなばの白兎を歌ったものである。ここでは,大黒さま=大おお国くに主ぬしの 命みこととされている。また,大黒さまのお使い,即ち神使は「鼠ねずみ」ということになっている。これは,記紀によると,大国主命は,八十神に嫉妬されて,須す佐さ之の男をの命みことのいる根の国に逃げるが,そこでも様々な試練に遭い,焼き殺されそうになった時に鼠に助けられて一命を取り止めたことから来ている。「鼠」は,十二支の「子ね」に当る。従って,大黒さまの祭りは「子祭」といい,旧暦11月,即ち冬至を含む子月子日に執り行われる85)。日本人は,この七福神の他にも,身近な神として「八はち幡まんさま」「お稲いな荷りさま」「天てん神じんさま」「道どう祖そ神じん」など,仏として「お地じ蔵ぞうさま」「観かん音のんさま」「如によ来らいさま」「薬やく師しさま」「明みよう 王おうさま」「お不ふ動どうさま」「金こん比ぴ羅らさま」「閻えん魔まさま」「達だる磨まさま」「お太たい子し(大師)さま」などの様々な神仏,場合によっては「神仏習合(神仏混淆)」されたものを拝んできた。既に記した「大地への接吻」は,「大地母神」の礼賛や大地への祈りである。文学作品にもよく登場するが,アメリカ大陸を発見したというコロンブス(1451〜1506)は,上陸した時に,嬉しさの余りその土地に接吻したといわれている。失った領土を戦争などで奪い返した時に,権力者がその地に接吻したという場面も目にする。ローマ法王は,今でも訪問地に着くやいなや,まずその大地に跪ひざまずき接吻の行事を行う。サッカーの選手などが大地に接吻してフィールドに入る姿をよく見る。この大地への接吻という儀式は,宗派を問わず世界的な規模で行われているが,なぜか日本では余り定着しなかったようである。太平洋戦争(1941〜45)でソ連に抑留された人達や,最近北朝鮮に拉ら致ちされた人達のうちの一部の人が何年ぶりに帰ってきたり,あるいは外国に永住している人達が帰って来たりする時,ただ単に故国,あるいは故郷に帰ってきたとはいわずに,「故国の土」,あるいは「故郷の土」を踏むことができたというような表現を使う。あるいは,外国で長く生活し,そこで死亡した時に,「故国の土」を踏むことなく亡くなったというように表現される。逆に,「異国の土」を踏む,あるいは「異郷の土」となるというような表現もある。1200余年前に中国・唐に留学生として派遣され,勉学に励んだが,帰国直前に病気にかかり,36歳でなくなった「井真成」の墓誌が,最近発見された。その墓誌の末尾には,「形既埋於異土,魂庶帰於故郷」(体は異土の地に埋葬されたが,魂は故郷に帰るに違いない)と書かれていた。同期の阿倍仲麻呂(698〜770)は,唐で活躍し,安南節度使(ベトナム地方の長官)まで昇進したが,ついに帰国することなく,「異土の人」となった。彼には,「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山にいでし月かも」という望郷の歌が残されている86)。室生犀星(1889〜1962)には,「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの。よしや うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても 帰るところにあるまじや」という詩がある87)。何故,わざわざ「……の土」とか「……土」というのであろうか。この場合の「土」は,単なる「地面」とか「大地」とかの意味ではなく,冒頭に記したようにもともと「霊的な意」があるからである。従って,「故国・故郷」「異国・異郷」を超えて,それらの大地の霊,地霊への畏い敬けいを含んだ言い方をしているといえよう。外国における「大地への接吻」は,「大地母神」への畏敬の流れであり,動的な行為である。これに対して,日本の「……の土」は,「地霊」への畏敬の流れであり,静的な精神である。ただし,日本の各地に残されている各種の祭は,神や霊的なものへの動的な行為である。いずれにしろ,古今東西を問わず,「土」「大地」への畏敬の気持ちは,人間社会の共通的な精神構造であるといえる。薮内清著『中国の科学文明』,岩波新書(1970)吉野裕子著『ダルマの民俗学』,岩波新書(1995)58) 遠藤哲夫著『管子(全3巻)』,明治書院(1988,92)59) 塚本哲三編輯『説苑』,有朋堂(1920)60) 吉川幸次郎『論語(全2巻)』,中国古典選2・3,朝日新聞社(1965・66)貝塚茂樹著『孔子』,岩波新書(1951)61)金谷治『孟子』,中国古典選5,朝日新聞社(1966)金谷治著『孟子』,岩波新書(1966)62) 福永光司『老子』,中国古典選6,朝日新聞社(1968)63) 福永光司『荘子(全3巻)』,中国古典選7〜9,朝日新聞社(1966・67)64) 高津春繁・斎藤忍随著『ギリシャ・ローマ古典文学案内』,岩波文庫(1963)久保正彰著『ギリシャ思想の素地』,岩波新書(1973)65) 廣川洋一訳『ヘシオドス・神統記』,岩波文庫(1984)66) 関根正雄訳『旧約聖書・創世記』,岩波文庫(1956)67) 関根正雄訳『旧約聖書・出エジプト記』,岩波文庫(1969)68) 『聖書』(新共同訳),日本聖書協会(1987/88)69) 井筒俊彦訳『コーラン(全3巻)』,岩波文庫(1957・58)70)中村元訳『ブッダのことば─スッタニパータ─』,岩波文庫(1958)71)中村元訳『ブッタ最後の旅─大パリニッパーナ経─』,岩波文庫(1980)72) チレチュジャ(赤烈曲礼)著/池上正治訳『チベット─歴史と文化』,東方書店(1999)73) 梅原猛著『地獄の思想』,中公新書(1967)74) アウグスティヌス著/服部英次郎・藤本雄三訳『神の国(全5巻)』,岩波文庫(1982〜91)75) 山川丙三郎訳『ダンテ・神曲(全3巻)』,岩波文庫(1952・53・58)76) 尾藤正英校注『安藤昌益』,日本思想大系45,岩波書店(1977)E・H・ニーマン著/大窪愿二訳『忘れられた思想家─安藤昌益のこと─(上・下)』,岩波新書(1950)77) 奈良本辰也校注『二宮尊徳』,日本思想大系52,岩波書店(1973)奈良本辰也著『二宮尊徳』,岩波書店(1959)78)中井信彦校注『大原幽学』,日本思想大系52,岩波書店(1973)79) D・H・ロレンス/野崎孝訳『アメリカ古典文学研究』,D・H・ロレンス紀行・評論選集4,南雲堂(1987)80) 荻原弘巳『地霊論─感性のトポロジー─』,青土社(2001)81) 井村君江『ケルト妖精学』,講談社学術文庫(1996)82) 牧野和春『鎮守の森再考』,春秋社(1994)水利科学 No.326 2012143大橋:「土」──その存在と多面的な役割(Ⅳ)谷川健一著『日本の神々』,岩波新書(1999)83)森田悌・金田久璋『田の神まつりの歴史と民俗』,吉川弘文館(1996)本田保次『日本の伝統芸能』,錦正社(1990)84) 飯田道夫『田楽考─田楽舞の源流─』,臨川書店(1999)梅若猶彦著『能楽への招待』,岩波新書(2003)85) 吉野裕子著『神々の誕生』,岩波書店(1990)86) 尾崎雅嘉著・古川久校訂『百人一首一夕話(上)』,岩波文庫(1972)87) 福永武彦編『室生犀星詩集』,新潮文庫(1991)(原稿受付2011年6月16日)