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一号館一○一教室

モーツァルト作曲『コジ・ファン・トゥッテ』

2025.11.24 14:14

女王様のように高い玉座から
「自分の力と意志」で


743時限目◎音楽



堀間ロクなな


 モーツァルトが才気あふれる台本作家ダ・ポンテと組んで、『フィガロの結婚』(1786年)、『ドン・ジョヴァンニ』(1787年)に続いて完成させたオペラ、『コジ・ファン・トゥッテ』(1790年)は、当初から前二者に較べて著しく評価が割れてきた。モーツァルトと同業者のベートーヴェン、ワーグナーばかりでなく、作家ホフマンスタールや哲学者アドルノなどからも厳しく批判されたのだ。



 ざっとこんなあらすじだ。18世紀のナポリが舞台。青年士官のフェルランド、グリエルモは女性の貞節の堅固さをめぐって老哲学者ドン・アルフォンソと口論になったあげく、ふたりの婚約者であるフィオルディリージ、ドラベッラの姉妹を実験台として賭けを行う。すなわち、フェルランド、グリエルモは急遽戦地へ出征したことにして、それぞれアルバニア人に変装したうえで、嘆き悲しむフィオルディリージ、ドラベッラの前に入れ替わって出現し、ドン・アルフォンソの指図で口説き落とせるかどうか試みるというもの。はじめは歯牙にかけなかった姉妹だが、かれらが熱烈な求愛を重ねるうち、まずドラベッラが、ついで葛藤の末にフィオルディリージも陥落して、フェルランドとグリエルモの絶望を尻目に、賭けはドン・アルフォンソの勝ちとなり、「コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)」とうたって最後は全員が和解する……。



 なるほど、こうした流れを追ってみれば、あまりにも不道徳な内容だとして教養ある文化人たちが顔をしかめたのも理解できよう。しかし、わたしがどうしても合点がいかないのは、これほど女性の貞節が弄ばれているというのに批判者は男性ばかりで、寡聞にして女性の論客から攻撃の声が挙がった例を知らないことだ。なぜ女性はこのオペラに異を唱えないのだろう?



 ここで急いでつけ加えておくと、ストーリーについての評価はともあれ、モーツァルトがつけた音楽は最円熟期の作品にふさわしく途方もない美しさを誇っている。老練なドン・アルフォンソ(バス)のもとで、実験台に供された二組のカップルはフィオルディリージ(ソプラノ)、ドラベッラ(メゾ・ソプラノ)、フェルランド(テノール)、グリエルモ(バス)の異なる声域によってうたわれ、あたかも幾何学模様のような精緻なアンサンブルを織りなしていく。アーノンクールがウィーン・フィルを指揮し、ポネルが演出にあたった映画仕立ての映像(1988年)では、モンタルソロ、グルベローヴァ、ジーグラー、リマ、フルラネットの名歌手たちがギャラントな演技と歌唱を披露して、観る者をめくるめくロココの世界へといざなうのだ。



 実は、もうひとり重要な登場人物が存在する。デスピーナ(ソプラノ)で、上記の映像では芸達者なストラータスが嬉々として演じている。フィオルディリージとドラベッラの小間使いである彼女は、ドン・アルフォンソに協力して姉妹を新たな恋愛に向かわせる狂言回しの役を担い、軽やかに身を躍らせながら、ウブな相手にこんなアリアをうたって聞かせるのだ。海老沢敏訳。



 女が15歳ともなれば、

 どんな大人の生き方も知らなくちゃ駄目。

 どこに悪魔の尻尾がついてるか、

 なにがよくって、なにが悪いか。〔中略〕

 全部の男たちに希望を持たせるのです、

 美男子だろうか、醜男だろうが、

 おのれを隠しおおすのです、

 どぎまぎせずに。

 赤面せずに

 嘘をつくのです。



 こうした男女の性愛をめぐってのリアリズムの表明は、モーツァルトの前作『ドン・ジョヴァンニ』の主人公を思わせよう。だが、豪胆な遊蕩児のひとりよがりの放言が他のなにびとも動かさなかったのに対して、その女性版のほうが口にしたひめやかな助言は姉妹の心をしっかりと捉えて揺り動かしてしまうのである。アリアはこんなふうに結ばれる。



 そして、女王様のように、

 高い玉座から、

 「自分の力と意志」とで

 自分に従わせるんです。



 さて、ここでもう一度、問い直してみたい。なぜ女性はこの不道徳なオペラに異を唱えないのだろうか?